飴のような時の中へ

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信仰の一つの力に、時を止めることがあるように感じることがある。
 
時を止めるというより、時というものを感じなくなる、時の外に出る、ということだろうか。
卑近なところでは、わたしたちは、何かに夢中になっている時は、時の流れというものを意識しない。時間というのは、時間からフッと身を引き剥がした時に、初めて発見されるものだ。
だから、ベルクソンの論を待つまでもなく、過去・現在・未来とx軸の上に並べられたものは、時間ではない。
少なくとも、わたしたちを苛む絶対不可逆の一なる時ではない。
 
人は死を知り、死の恐怖を知る、というが、寧ろ時を知っている、という方が正確ではないか。
時を知る、ということは、「砂糖水の溶ける時間」と同時に「空間化された時間」を知っている、ということだろう。この両者、似ても似つかないものを、なぜかキチンと「時間」として認識できてしまう、これが時を知る、ということだ。
「空間化された時間」と言う手垢に塗れた言い方は、あまり正確ではない。それが依然として時間の何かをすくい上げていることをわたしたちは正しく把握しているし、「空間化された時間」をうっかり空間と勘違いしてしまう、ということはない。
確かに、それは時の一つの局面を正しく示している。
しかし同時に、何か決定的なものを取り逃がしてもいる。
重要なのは、この二つが一つで、かつ取り逃がした一方が、逃げ水のように背進し続けることだ。
 
時に逃げられないためには、時と共に走るしかない。振り落とされないように、時の中に溶け込むしかない。
音楽の力も、そういうところにあるのだろう。
信仰がこの力を宿す、というのは、少なくともわたしにとって、イスラームは第一に「音」だからだ。
「音」がなかったら、わたしは多分、イスラームにここまで魅せられることはなかっただろう。
よく知られた話だが、印刷されたクルアーンの本(ムスハフ)は、クルアーンそのものではない。音が、クルアーンそのものだ1
クルアーンには音楽的な美しさがあるが、しかし、強調したいのはそこではない。時の流れと一体でありながら、同時に、遠い物語が、現在と一緒になって、何度も何度も反復されている、その構造の全体だ。
クルアーンの中では、現在の生もまた、決定した過去の一つの現われのように見える。
すべては過去なのだ。
ただ、過去が開示されたり、開示されなかったりする。わたしたちは、これを見て時が流れると思い、その流れる時と老いと死に苦しみ、模糊たる未来への不安に苛まれるが、すべては確定していて、ただ同じ過去が、何度も何度も変奏されている。クルアーンから感じるのは、そういうノッペリとした飴のような物質的時間だ。
この飴は、時の中にわたしを絡めとり、時間の「発見」からわたしを守る。
それと同時に、空間と事物のあらゆる隙間を、エーテルのように充填していく。
充填とは、意味の隙間を埋めていく、ということだ。
この世界には、人の意図の及ぶものと、及ばないものがある。誰かの意志によるもの、誰の意志かわからないもの、誰の意志でもないもの。意味のあるもの、意味のないもの。わたしたちは言葉で世界を切り刻み、その言語経済の網の目で生きるが、そこには残余がある。そういう隙間を、充填していく。意味の開示されていないものにも、すべてに意味がある。
 
また、これはクルアーンに限った話ではないが、「『声の文化と文字の文化』ウォルター・J. オング」で触れたように、この語りが識字能力を前提としていない、ということが重要だ。
識字能力の獲得、もう少し言えば、識字能力の当然となった世界で識字者として生きる、そうした生によって、失ってしまったものを回復する営みとしても機能している。
文字のない世界では、言葉はやって来ると同時に去っていく。だから、リズムをつけ、少しずつ変奏しながら反復し、身体の中に言葉を通して行く。
この言葉は、突き放された一覧性のある概念構造ではない。カテゴリー的思考が脆弱で、常に状況の中で、コンテクストと共に言葉が理解される。
それはつまり、対象から身を引き剥がして「時に気付く」ことの少ない世界だ。
「気付く」わたしは、気付くより前に、音と共に流れて行ってしまうのだから。
言わずもがなのことだが、クルアーンに近づくためには、暗誦し、声に出さなければならない。なぜなら、距離が決定的な要素だからだ。もっと近く、一覧する暇も無いほどに、時と一体になって流れなければならないのだ。
 
そこでは、古い物語が何度も何度も繰り返されるが、隙間のなくなった世界では、古い物語とは、同時にわたしたちの生そのものでもある。
その物語は、少しずつ変奏され繰り返されるものであり、消費文明の中で蕩尽され捨て去られ行くものではない。
 
時の外の〈わたし〉こそが苦しみの現況なら、時のもっと近く、時の中に入り込んで行くしかない。
フィクションと「現実」は合わせて一つだが、隙間のなくなった世界では、物語は一つになる。一者とは、フィクションとノンフィクションの区別より前に遡行するものだ。

  1. 正確に言えば、天にクルアーンの「原本」があるわけだが、ここでは関係ないので詳述しない []



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