「いかなる代償を払っても」について

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 この素晴らしい言葉は、恐ろしくもある。もちろん、多くの人々は、この言葉を誇張として使っているだけだ。でもこれについては置いておき、本気で「いかなる代償も払っても」という人について考えてみよう。いかなる代償も払ってもこれをやる、いかなる代償も払ってもやらない、いかなる代償も払っても真実を語る、いかなる代償も払っても良心に従う、いかなる代償も払っても過ちの責任を負う。この簡単な言葉の重みを考えて欲しい。あることが他のなによりも得難いと思う時、いかなる代償も払ってもそれを手に入れる、いかなる代償も払ってもやる、あるいはいかなる代償も払っても守る。信の限り、覚悟の限り、力の限りをもって。
 もちろん、何か邪悪なことを、いかなる代償も払ってもやり遂げる、という人もいるかもしれない。勇気と向こう見ずな心があり、この言葉を口にするかもしれない。しかしその目的が失敗し、道が絶たれたら、誰も驚嘆はしないし、裁判所行きなだけだ。ここでの要諦は、「その代償というのを、誰が払うのか」ということだ。自分で払う覚悟があるなら、言っている通りの人間だが、そうではないなら、邪悪で攻撃的な裏切り者、口先だけの者、あるいは臆病者、またはそれら全部だ。自分が犠牲を払って支払わないといけない。
 「いかなる代償を払っても」ということから、僕がいつも考えるのは、現代の人間における自己犠牲の能力は、昔に比べてずっと小さくなっている、ということだ。この世の犠牲の好例とも言える兵隊のことを考えてみればいい(もちろん、そのために犠牲にできるものの種類に違いはあるが)。昔の剣を手に戦っていた兵隊を考えると、どれほどの勇気を持っていたことか。雨のように降る矢を避けようとする兵士の決意がどれほどであったことか。最前線に立つ歩兵の心は、一体何でできていたことか。
 この五十年ほどで(おおよその数字で、正確ではない)、戦争すらもとても簡単になった。戦争の要する勇気すらも、ずいぶん少なくなった(最前線の兵士についてはそれほど変わりがないかもしれないが、それ以外の後方のすべてについては、変わった)。
 戦争と兵士のことから離れれば、昔不毛の大地で狩りをしていた人々の勇気と、スーパーでカツを買う人が同じだろうか。駱駝に乗って砂漠を旅した人と、エレベータで二階ほど昇る人のハートが同じだろうか(ハートというのは、動脈とか血管とかのあっちじゃない、心のハートの方だ)。
 もちろん、僕たちは勇敢でなくなったし、自己犠牲の能力も小さくなった。僕たちが犠牲を払うことができて、犠牲に値するというものを何か持っているならば、だが。
 昔、デモに参加するのは普通の人々だった。今では英雄だ。英雄になったのは、彼らが本当に犠牲の精神を持ち合わせているように見えるからだ(それが自分自身のための犠牲であったとしても)。もちろん、僕たちの置かれているようなこの状況でデモに参加する人たちは勇敢だ。しかし、僕の言いたいのは、彼らが英雄になったのは、他の人達が臆病になったからだ、ということだ。
 どう名付けようと、犠牲というものも様々だ。自分のために犠牲を払う、祖国のために犠牲となる、子供たちのために犠牲となる、知りもしない人々のために犠牲となる、信条のために犠牲となる、思想のために犠牲となる、見ることもない未来のために犠牲となる、これらは全く違うし、同じではない。
 無償のものなど何もないかもしれない。確かに何事にも代価というものがある。間違いなく、大事なものは代価も大きい。そして支払う覚悟のないものは、決してそれを手にできない。
 大事なことを言っておきたいが、はっきりと分かっていることに、犠牲というは、得難く貴重なものの犠牲でなければ絶対にあり得ない。そもそも犠牲にもならない。元々ブラブラしている者が時間を犠牲にはできないし、元々お金持ちなのにお金を犠牲にはできない。犠牲にするというのは、必要なものを犠牲にすることだ。何かのために死ぬというなら、それはあっぱれだが、それでも犠牲にするというのはどういうことk.元々自分の命などどうでもいいと思っているなら、犠牲ではないかもしれない。犠牲にするものあ、得難く貴重で、失うことの辛いものでなければならない。
 犠牲を可能とする、その力、決意、意志を備えたすべての者に讃えあれ。本当に「いかなる代償を払っても」と口にする者に。僕たちに名誉と尊さと勇気を教えてくれた人々に讃えあれ。残念ながら、そういう者は少なくなってしまったが。