太陽が西に傾いていました。
リンゴの木とオレンジの花を、香る風が吹き抜けました。香りはマリヤムの聖所の方に流れていき、聖所の窓から忍び込みます。ただ彼女の礼拝の声以外は聞こえません。香りはこの恭順なる女性の周りに広がり、マリヤムは、突然に空気が香りで満たされるのを感じました。自然の頼りが届いたのです。彼女は微笑み、深い礼拝に戻り、アッラーへの感謝を捧げました。一羽のカナリアが、聖所の窓枠にとまりました。くちばしを高く太陽の方に向け、羽を広げ、羽についた水をふるい落とすと、その周りが淡い霧雨のようになりました。マリヤムは、薔薇に水をやり忘れていたのを思い出しました。その薔薇は、マスジドの外の岩の間に、突然芽生えてきたのです。マリヤムは礼拝を終え、聖所を出て薔薇の方に向かいました。
外へ出ようとしたところで、天使たちが呼びかけました。
{マルヤムよ、誠にアッラーはあなたを選んであなたを清め、万有の女人を越えて御選びになられた 3-42}
マリヤムは立ち止まり、顔を青ざめさせませた。
聖所を天使たちの言葉が照らし出しました。その光は、まるで消えかけた蝋燭のように太陽がそばにやって来たようでした。
マリヤムはここ数日、魂と身体全体が変わっていくように感じていました。鏡がなく自分を見ることはできませんでしたが、力と若々しさの色合いが薄らぎ、純潔さと深い尊さが増していると感じていました。見ることができないのに、青ざめているのがわかりました。人間的な面が弱まり、何か普通ではないものの力を感じていました。身体が痩せ衰えるほど、魂の力がましていると感じました。このような感覚が、謙虚さと偉大さをもって彼女を満たしていました。彼女の細い肩に背負わされた大きな責任を、思いやるものがそっと入ってきました。
{マルヤムよ、誠にアッラーはあなたを選んであなたを清め、万有の女人を越えて御選びになられた 3-42}
この簡単な言葉から、マリヤムは、アッラーが自分を選ばれ、清め、ありとある女性の筆頭とされたことを、理解しました。それは、かつて創造されたことのない存在です。彼女は、現世と死、そして来世で最も偉大な女性です。天使たちは話を続けました。
{マルヤムよ、あなたの主に崇敬の誠を捧げてサジダしなさい。ルクーウ(立礼)するものと一緒にルクーウしなさい 3-43}
吉報に続いて、ますます恭順にサジダし、ルクーウせよと、彼女に命令が下されました。 マリヤムは薔薇の木のことを忘れて、礼拝に戻りました。
もう彼女は自分を小さいとも弱いとも感じず、一人聖所に立つと、心に日輪があるように感じました。畑の湿り気を吸い、林檎の幹を巡るの花蜜が血管の中を流れているように感じました。この世の純真な子供たちのすべての涙が集まり、礼拝を捧げながら、大粒の涙を一粒、処女の瞳から流しました。
その一粒の涙には、乳の味わいとそよ風の新鮮さ、人の悲しみの逃がさが詰まっていました。
マリヤムの心が突然、何か偉大なものが起きつつある、という感覚で満たされました。数日前から曖昧な感覚を抱いていましたが、今まさに、はっきりと確信したのです。
太陽がその褥へと下り、夜が目を覚ましました。
月が天の銀色の王座に座り、その周りを配下たる白い美しい雲が取り囲みました。
マリヤムが礼拝に没頭しているうちに、深夜を回りました。それから礼拝を終え、薔薇の木のことを思い出し、器に水をいれ、外に出ました。
その薔薇の木は、マスジドから少し離れた、二つの岩の間に生えていました。そこは人々に忘れ去られた場所で、誰も近づく者はいませんでした。そこはマリヤムだけが礼拝を捧げ崇拝するための場所だったのです。
マリヤムは薔薇の木に近寄り水をやり、器を置いて、薔薇の木をよく観察しました。二夜の間に、倍ほどに幹が伸びていたのです。
突然、マリヤムは立ち止まる足音を耳にしました。それまで聞こえなかったのに、小石や砂や土くれの上で足音が止まるのが聞こえたのです。彼女は怖くなり、一人ではないことを感じ取りました。
辺りを見回しましたが、誰もいません。
目が慣れてきて、何かがいるのがわかりました。
マリヤムは震えて、頭を下げました。
地面を見ると、長い影が見えました。月の光もないのに、奇妙なことでした。影を作るようなランプもなかったのです。
マリヤムは呟きました。
「そこにいるのは誰なのでしょう」
彼女の不安をつのっているその者の方にさっと視線を剥けると、目にしたのはこれまで見たこともない奇妙な姿でした。その額が月よりも明るく輝いていたのです。その瞳は偉大さと威厳に輝いているのに、顔全体から深い謙虚さが漂っています。マリヤムがさっとのぞき見たその顔には、アッラーを百万年前より崇めている者の偉大さがありました。
マリヤムは、彼が誰なのか自問しました。すると、その考えを読んだかのように、彼が話し変えけてきました。
「アッサラームアライクム、マリヤム」
返事を返す前に、マリヤムは言いました。
{あなたに対して慈悲深き御方の御加護を祈ります。もしあなたが、主を畏れておられるならば(わたしに近寄らないで下さい) 19-18}
彼女はアッラーに庇護を求めました。そして、彼がアッラーを知り畏れる良き人物なのか尋ねたのです。すると、立っている人物は、純粋な微笑みを浮かべ、こう続けました。
{わたしは、あなたの主から遣わされた使徒に過ぎない。清純な息子をあなたに授ける(知らせの)ために 19-19}
この見知らぬ男が言葉を終えるや否や、その場所が奇妙な光で照らされました。その光は、太陽とも月ともランプとも蝋燭とも似つかないものでした。とても澄んだ光だったのです。その光は、立っている男の回りに羽の形に集まり、光を増し、マリヤムの回りの地平線を覆うばかりになりました。彼の言葉が、マリヤムの頭の中をめぐりました。
{わたしは、あなたの主から遣わされた使徒に過ぎない 19-19}
ああ、この方は天使様だったのです。誠実なる精霊、ジブリール(彼の上に平安あれ)が、人間の姿をされていたのです。
マリヤムは興奮で震えながら、頭を上げました。誠実なる精霊が、人の形をして彼女の前に立っていました。マリヤムはその額の清らさ、尊顔の純粋さ、目の偉大さを見つめました。彼には百万年アッラーに仕えている者の威厳がありました。それから突然、彼女は彼の言葉の残りを思い出しました。彼は、彼が主の使徒であると言ったのです。そして、清純な息子を授けるために来た、と言ったのです。彼女は人に触れられたことがありません。婚姻することなくなぜ子がもうけられましょう。
彼女は、誠実なる精霊に言いました。
{未だ且つて、誰もわたしに触れません 19-20}
誠実なる精霊は言いました。
{そうであろう。(だが)あなたの主は仰せられる。『それはわれにとっては容易なことである。それでかれ(息子)を人びとへの印となし、またわれからの慈悲とするためである。(これは既に)アッラーの御命令があったことである。』 19-21}
マリヤムの知性は、誠実なる精霊の言葉を受け入れました。彼はこれがアッラーのご命令と言ったのではないですか。アッラーが命じられれば、あらゆることは容易です。彼女が人に触れられることなく子を産んで、何がおかしいでしょう。讃えある至高なるアッラーは、アーダムを父も母もなく創造されました。アーダムの創造以前には、男も女もなかったのです。そしてハウワーをアーダムから、つまり女なく男のみから創造されました。ですから、彼女の息子を父なくして創造されるのでしょう。男なく女のみから創造されるのでしょう。
普通は、人間は男と女から創造されます。普通は父と母がいますが、至高なるアッラーがお望みになった場合は、奇跡が起こるのです。
ジブリール(彼の上に平安あれ)は、話を続けました。
{マルヤムよ、本当にアッラーは直接ご自身の御言葉で、あなたに吉報を伝えられる。マルヤムの子、その名はマスィーフ・イーサー、かれは現世でも来世でも高い栄誉を得、また(アッラーの)側近の一人であろう/かれは揺り籠の中でも、また成人してからも人びとに語り、正しい者の一人である 3-45 – 3-46}
マリヤムはますます驚きました。妊娠する前から、名前がわかっているのです。そして、彼がアッラーのもとでも人々の間でも栄誉を得、子供の時も大人になってからも人々に語りかける、とわかっているのです。別の質問をマリヤムが口にする前に、彼女は、誠実なる精霊が手をかざし、マリヤムに風を送るのを目にしました。見たこともない光に照らされた風の香りがやって来ました。この光がマリヤムの身体の中には行ってきて、突然に満たしたのです。
マリヤムが別の質問を擦る前に、聖なる精霊は音もなく消えていました。
冷たい風が吹き、マリヤムは震えました。理性が怯えた鳥のように飛んでいったようでした。急いで聖所に戻ると、扉を閉め、深い礼拝を捧げ、涙しました。
彼女は喜びと驚き、混乱と共に、深い平安を感じていました。一人ではない、もう一人ではない、聖なる精霊(彼の上に平安あれ)が去った時に、彼女を一人で置いてはいかなかった、と。その手を動かし、彼女を光で満たしたのです。その光は、彼女のお腹の中で小さな子供となり、その子は大きくなり、やがてアッラーの御言葉と彼女に投げかけられた魂となりるのです。
大きくなったら、アッラーの使徒、その教え、愛の教えの預言者となるのです。
その夜、マリヤムは深い眠りにつき、朝になり目覚めました。
目を開いて、季節ではない果物で聖所が満たされているのに驚きました。いつもやってくるより、多くの果物がありました。
彼女は驚き、昨晩起こったことを思い出しました。
薔薇の木を訪れた時の出来事を。聖所に戻り、深い眠りについたことを。
マリヤムは、たくさんの果物を眺めながら、一人呟きました。
「わたし一人でこんなにたくさんの果物を食べるのかしら」
天使の声が言いました。
「マリヤムよ、今は一人ではない。二人だ。あなたとイーサーだ。彼はたくさん食べたいのだよ」
マリヤムは食べ始めました。
数日が過ぎました。彼女の妊娠は、女性の妊娠とは違いました。具合が悪くなることも、身重に感じることもなく、普通の女性のように、何かが増したり、お腹の中で増えたりするのを感じませんでした。彼女の妊娠は、良き恵みでした。
九ヶ月目が訪れ、ある日マリヤムは、遠い場所に出かけました。その日に起こる、と感じたのです。しかし彼女も、本当のところはわかりませんでした。
木とナツメヤシの茂る場所に、足が向かいました。誰もやって来ない場所、彼女しか知らない場所です。人々はマリヤムが妊娠していて、これから出産することを知りませんでした。聖所は彼女以外には閉じられていて、人々は彼女が崇拝に専心し、誰も近づいていないのをわかっていました。
マリヤムは、大きなナツメヤシの下に腰掛け、くつろぎました。
そして、自分自身のことを考え始めました。痛みがありました。痛みは増し、次々と襲ってきました。
マリヤムの出産が始まりました。
{だが分娩の苦痛のために、ナツメヤシの幹に赴き、かの女は言った。「ああ、こんなことになる前に、わたしは亡きものになり、忘却の中に消えたかった」 19-23}
純潔の処女の負う出産の痛みは、それまでに起こったことのないものでした。人々はこの子をどう迎えるのでしょう。彼女に何と言うでしょうか。彼らは本当に、彼女が処女だと知っています。どうして処女が子を産めるでしょう。人に触れられることなく子を産んだと、人々は信じるでしょうか。疑いの視線と好奇から向けられる言葉、人々の考えることを想像しました。彼女の心は悲しみで満たされました。
マリヤムが死んで忘れ去られてしまいたい、と考えるをやめないうちに、産まれた子供が彼女に呼びかけました。
{その時(声があって)かの女を下の方から呼んだ。「悲しんではならない」 19-24}
マリヤムはアル=マスィーフの方を見ました。なんと高貴な顔でしょう。彼の顔は赤子のように皺くちゃで赤くなく、白く滑らかだったのです。彼には既に、純潔が刻まれていました。その子は緑の草の上に転がりながら、話しかけてきたのです。悲しまないように、と。そして、ナツメヤシの幹を揺らして、おいしい実をいくつか落とすように、彼女に言いました。それを食べ、飲み、平安と喜びで満たされ、何も考えないように、と。そしてまた、もし人を見たら、慈悲深きお方に斎戒を捧げており、今日は人と話せないと言い、後は彼に任せるように、と。
マリヤムはアル=マスィーフを、愛しく見つめました。産まれたばかりなのに、もうその肩の上に母の責任を背負っているのです。
マリヤムには、その子が顔に変わった陰が見えました。この世界に、何かを得るためではなく、すべてを与えるためにやってきた者の陰が。
マリヤムはナツメヤシの巨木に手を伸ばしました。その幹に触れるや、甘味なナツメヤシが落ちてきました。それを食べて飲み、子供を服でくるんで胸に抱き、心地良い眠りに身を預けました。
処女マリヤムの心は、素早く飛び急降下する鳥のようでした。
考えが安らぎと平安の枝にとまったかと思うと、すぐに心が震え、静けさは飛び去り、不安に苦しむのです。
彼女の考えは、ただ一つのことを巡っていました。イーサーのことです。彼女は、ユダヤ人たちが彼をどうとらえるか、自問していました。
彼について、何と言うでしょう。彼女については。偽りと欺きと不正に生きるユダヤ人の神官が、一人でも信じるでしょうか。彼女に子を恵まれた天からかけ離れた彼らのうちの一人でも、信用してくれるでしょうか。アル=マスィーフは、産まれた日に、心配せず恐れないように、と彼女に言ったのです。ナツメヤシの幹を揺らすように言い、そうすると甘味なナツメヤシが、時期でもないのに落ちてきて、それを食べて飲み、平安に満たされたのです。
しかし、いつまでも留守にはできず、民の元に戻るしかありません。人々は何と言うでしょう。イーサーは産まれた日に、慈悲深きお方に斎戒を捧げていたと言うように、話しました。誰とも話さず、彼に任せるように、と。
マリヤムが戻った時は、午後の時間でした。
マスジドへの道すがらにある大きな市場は、売り買いに夢中だったり座ってお喋りしたり、ぶどう酒を飲んでいる人々で溢れていました。
マリヤムが市場に通りかかるや、人々は彼女が子供を抱いているのに気付きました。彼女は子を胸に抱き、ゆっくりと威厳をもって歩いていました。
興味をもった人が、尋ねました。「あれは処女のマリヤムじゃないか。彼女が抱いている子供は誰だろう」
酔っ払いの一人が言いました。「あれは彼女の子供だ。さて、どんな話が聞けることやら」
男の口から言葉が地面にこぼれ落ちました。昨晩の酷い雨のせいで地面はぬかるんでいましたが、地面の汚れより知性の汚れの方が酷いものでした。ユダヤの神官たちの汚れた知性です。まず始めに、質問が彼女を取り巻きました。マリヤムよ、この息子はどこから来たんだ? どうして答えないのだ? 本当にお前の子なのか? どうして産まれたんだ? 処女がどうして子を産める?
{ハールーンの姉妹よ、あなたの父は悪い人ではなかった。母親も不貞の女ではなかったのだが 19-28}
悪い家の出じゃない。あなたは由緒ある家の生まれではないか。あなたの兄弟も父も母もこうではなかった。嫌疑が浴びせかけられる一方、彼女は顔を上げ、その目は尊厳と母性に輝いていました。その顔は自信に満ち輝いていました。質問が増し、苦しくなり、取り囲まれて言葉も返せなくなると、彼女は威厳ある者にすべてを預ける気持ちを強め、彼を示しました。
手でイーサーを示したのです。
人々は驚きました。どこからやって来たのか彼に尋ねるよう、彼女が求めていることがわかったからです。
ユダヤの神官と主だった者たちは、数日前に産まれた稚児に、どうしてものを尋ねられようか、と言い合いました。布に包まれた赤ん坊がものを話せるでしょうか。
{どうしてわたしたちは、揺籠の中の赤ん坊に話すことが出来ようか 19-29}
するとイーサーが言いました。
わたしは、本当にアッラーのしもベです。かれは啓典をわたしに与え、またわたしを預言者になされました/またかれは、わたしが何処にいようとも祝福を与えます。また生命のある限り礼拝を捧げ、喜捨をするよう、わたしに御命じになりました/またわたしの母に孝養を尽くさせ、高慢な恵まれない者になされませんでした/またわたしの出生の日、死去の日、復活の日に、わたしの上に平安がありますように 19-30 – 19-33}
イーサーが話し終えるや、神官たちの顔が青ざめました。
目の前で奇跡を目撃したのです。揺籠の赤ん坊が喋ったのです。父親なく産まれた子です。アッラーが啓典を与えられ、預言者にされたと言う子です。このことは、彼らの権威が崩れ去ることを意味していました。この子が大きくなれば、彼らは皆価値を失ってしまうのです。お金を取って人々に赦しを与えたり、天が地に下されたというやり方で支配したり、シャリーアに通じる唯一の者だと言い張ったりできなくなる、ということです。
ユダヤの神官らは、この子が産まれたことでもたらされた災厄を感じました。アル=マスィーフの到来が意味することは、人々が唯一なるアッラーへの崇拝に帰る、ということなのです。これは、現状のユダヤの宗教が終わりになる、ということです。ムーサーの教えとユダヤ人たちの振る舞いの差は、天の星々と道のぬかるみの差に等しいものでした。ユダヤの修道士たちは、イーサーの誕生と、彼が揺籠の中で話したことを隠蔽しました。そして処女マリヤムにひどい中傷を投げつけ、この物語の前に幕を引くようにして隠しました。
それにも関わらず、イーサー誕生の話はローマの統治者ヘロデ王の元まで広まっていきました。この王はローマの忠実な犬で、パレスチナとユダヤ人たちを剣の力と血の脅し、スパイと恐怖によって支配していました。
父なくして産まれた子についてのはっきりしない知らせが届いた時、彼は宮殿でくつろぎ、ぶどう酒を飲んでいました。揺籠の中で話したという子供。その子供が、ローマの統治を脅かすことを沢山話したと言うのです。ヘロデ王の体の下で、椅子がカタカタと揺れました。ローマの王は怒りに取り憑かれ、知らせを運んできた者の顔に盃を投げつけ、将校とスパイの幹部による緊急会議を開くよう命じました。
会議は直ちに開かれました。
ヘロデ王は黒光りする顔で腰掛け、スパイたちの顔を見回して、訪ねました。
「揺籠で話したという子供の知らせは何なのだ」
スパイの長官が答えました。
「本当の話ではないようです。子供なのに言葉を話す奇跡を行う、という、祝福されたという子の噂を聞きましたが、調べに人をやったところ、見つけることができませんでした。我々の調べでは、誇張された話です」
年若いスパイが言いました。
「事情通の筋によると、マギの三人の博士が、天に輝く星を見てやって来たということです。この星は奇跡の子の誕生を示しているそうです。その子がやがて民を解放する、と」
王は訪ねました。
「誰から解放するというのだ」
スパイが答えました。
「それについては聞いていません。博士たちは行方をくらまし、その跡を見つけることもできないのです」
王は言いました。
「どう姿をくらますというのだ。その子供の話は何なのだ。ローマに対する企みか?」
ローマの話になったところで、王は椅子から立ち上がり、声を荒らげて語りはじめました。
「その三博士の首が欲しい。その子供の首が欲しい。完璧な情報が欲しいのだ。話がますます曖昧になってきているではないか」
スパイの長官が言いました。
「大方ユダヤ人たちの見た夢だったのでしょう」
王は言いました。
「お前らの頭は鳩よりも速く飛んでいってしまっているようだ。その子についての完全な話を持ってこないなら、この件はどうなるのだ。帰るがよい」
部下とスパイたちはその場を去り、王は座ってこの問題について考えました。この問題のせいで、彼は明らかに不安に駆られていました。彼が気にかけていたのは、新しい宗教が人々に下されることではなく、ローマの覇権でした。王は高位のユダヤ神官たちを招集し、この件について問い詰めようと決めました。神官を連れてこさせるため、特任将校を使いにやりました。
一時間も経たないうちに、高位のユダヤ神官たちが王の前で頭を下げ礼をしていました。
王は言いました。
「神官よ、気になっている件について話したい」
神官は言いました。
「お役に立てれば幸いです、閣下」
王は言いました。
「生まれてすぐの子供が話をし、民を解放すると語った、というおかしな話を聞いた。この話は本当か」
神官は、質問にはっきりとは分からない罠が隠されていると感じ、こう言いました。
「閣下はユダヤ教にご興味をお持ちなのでしょうか」
王は言いました。
「我はローマの支配以外には何も興味がない。質問に答えよ、神官」
この神官は、揺籠で話すイーサーを見ていました。そして、もしそのことを話したら、自分に災厄が振りかかるということがわかっていました。そこで、半分だけ嘘をつくことを選んだのです。つまり、その話については耳にしたけれど、疑わしいと思っている、と言ったのです。
王は好奇心を増して訪ねました。
「これがローマの安寧を脅かす企みだと、お前は思うか」
神官は言いました。
「おっしゃるとおりです、閣下」
王は言いました。
「これは裏切りだと考えるか」
神官は口ごもりながら答えました。
「閣下、少しだけ言葉を変えることをお許し下さい。この知らせは古いものなのです。民がバビロンに囚われていた、百年も前のことなのです」
王は言った。
「今でもこの知らせを信じる者がいるのか。お前はどうなのだ。父なしに産まれたというその子供をお前は見たのか」
神官は言いました。
「我が主たる王よ、父なくして産まれる人間などいると思われますか? ただの夢です」
王は言いました。
「去れ、神官よ。何か知らせを聞いたら、妻より先に我に知らせるのだ」
神官が立ち去るや、ヘロデ王は考え始めました。もし神官が嘘をついているとしたら。神官の目には、嘘の光が伺えました。王もまた嘘つきであるからこそ、その嘘の光に気づいたのです。では、星に従ったという三博士とは。ローマに対する企みを彼は知っているのだろうか。王は将校を呼びつけ、この話を見たり聞いたりした者はすべて捕らえ、子を産んだ処女について調べるよう命じました。
丁度同じ頃。
マリヤムはパレスチナを脱し、エジプトに入っていました。
その前の晩に、見たことのない男がやって来て、挨拶をし、こう彼女に命じたのです。
「マリヤムよ、子を連れてエジプトへ脱するのだ」
マリヤムは恐れて尋ねました。
「なぜですか。どうやって一人でエジプトへ行くというのですか。どうして道が分かりましょう」
見知らぬ男は言いました。
「出かけなさい。アッラーがあなたを守ります。ローマの王が、あなたの子を殺そうと探しています」
マリヤムは尋ねました。
「いつ出かけるのですか」
見知らぬ男は言いました。
「今すぐです。恐れることはありません。あなたは寛大なる預言者と共に出かけるのですから。預言者は皆、その民から家を追われ、土地を追われたのです。これが生の掟なのです。悪はその時最も純粋なるものを追い出すのです。そして善が王座に戻るのです。行きなさい、マリヤム」
マリヤムはエジプトに旅立ちました。エジプトに向かう隊商と共にシナイの砂漠を渡りました。
イーサーを抱え、以前にムーサーが聖なる火を目にし、シナイ山の右より呼びかけられたのと同じ道を行きました。
長く厳しい旅の末、彼女はエジプトに辿りつきました。
エジプトには多くの富と、古い文化、良き人々と、温暖な気候がありました。イーサーが育つのに絶好の場所でした。
エジプトで、アル=マスィーフはその幼年期と少年期を過ごしました。それから、パレスチナから出るよう命じたのと同じ見知らぬ男がマリヤムの元を訪れ、今度はパレスチナに戻るよう命じました。
彼は言いました。
「悪しき王は滅びました。息子と共に戻るのです、マリヤム。その王座を掲げるべき時が来ました。彼の王座は、貧しきもの、哀れな者、信じるものの魂となりましょう。マリヤムよ、戻るのです」
イーサーは家を出て、ユダヤの礼拝所へ向かいました。
土曜日1のことでした。
パレスチナには、火を使う家はありませんでした。果物の実を剥く家もありませんでした。その日は、女性が粉を捏ねることも、子供が犬を洗うことも、少女が髪を編むことも禁止されていました。誰一人、文字を書くこともできず、書かれたものを消すこともできませんでした。溺れる牛と穴に落ちた羊を助けること以外、すべてのものが禁止されていました。
これが、ユダヤの宗教的教えと考えられていたのです。
文字通りの教えには従っていた一方、その心は悪に揺られ、憎しみに乱れ、知性と言えば迷信と嘘の船がやすらぐ安息所となっていました。
イーサーはパレスチナで暮らしていましたが、外の世界から来た人間のようでした。彼のなかには、この地の土は少しも含まれていませんでした。
彼の滑らかな髪は肩まで届き、地には落ちない雲の水で洗われたようでした。その足が歩みを進めると、土がどこからともない香りに満たされました。
彼の服は貧相なみすぼらしい羊毛でできたものでしたが、ローマの王たちや礼拝所の神官たちの服より立派に見えました。
土曜日であったにも関わらず、イーサーは畑の作物に手を伸ばし、二つの実を取って飢えた白い鳩にそれをやりました。
これは、ユダヤの教えでは逸脱とみなされました。
イーサーは、真の宗教とは、謙虚には程遠い心のまま外側の形を従わせることではない、と分かっていました。だからイーサーは、土曜日に実の皮を剥いて被造物に食べ物を与えたのです。凍え死なないように、老人に火を起こしてもやりました。
ユダヤの礼拝所は数多くあり、そこでは神官たちや人々が瞑想していました。
イーサーは礼拝所を訪れ、その中に立って見回しました。
礼拝所の壁は香りづけのされた白檀で作られ、他の部分は金の織り込まれた豪華な布で作られて、銀のランプが天井からぶら下がっていました。蝋燭がその場を光で満たしていましたが、一方で心は闇が満たしていました。
その場所で、イーサーはただ一点の光のようでした。アッラーは、その光を多くの貧しい人々、哀れな人々、打ちひしがれた人々の元へ広がるよう、命じられました。
イーサーは礼拝所で立ち尽くしていました。
どちらを見回しても神官がいました。そこには一万もの神官がおり、その名が神殿に記録されていました。彼らはそこで暮らし、俸給を得ており、礼拝所の部屋は何千もの祭礼用の衣装に満たされていました。レビ人、先の尖った帽子と、法学の本の入った広いポケット。ファリサイ派は、裾が白く金の織り込まれている紫色の幅広な服。神殿の奉官たちは白い服。神殿を訪れる人の数より、神官や宗教者の数の方が多かったのです。礼拝所は、訪れた人々がアッラーへの捧げ物のために買った羊や鳩が溢れていました。捧げ物は、供物台の上の礼拝所で燃やされました。貧しい人々は犠牲獣を買うことができず、捧げ物ができない者は礼拝所に入ることもできませんでした。
イーサーは佇み、一人考えました。
なぜ動物たちを燃やし、その肉を煙にしてしまうのか。供物台の外では何千もの貧者が植えて死んでいるというのに。供物台を血で汚してアッラーが喜ばれるなどと、なぜ考えるのだろうか。なぜ貧者が、犠牲のための動物を買うために借金をしなければならないのだろうか。なぜ神官たちの育てた犠牲獣だけが正しいとされるのだろうか。この金で神官たちは何をしているのか。そして最後に、貧しい人々は礼拝所のどこにいるというのか。そこにいるのは、お金をもった富める者だけではないのか。
お金を持った人間だけがアッラーの家に入るというのは、奇妙なことではありませんか。
イーサーは礼拝所を去り、町を出て山に向かいました。
彼の心は真理への情熱で燃え、その顔は青ざめ清らかで、この世が悪で満たされていることへの悲しみを増していました。イーサーはナザレの丘の上に立ち、礼拝を始めました。涙が目からこぼれ、頬を伝って地に落ちました。長く礼拝に立ち、涙は溢れ続けました。地に落ちて水もなく死んでいた花の種が、アル=マスィーフの涙を吸って生を取り戻しました。
この祝福された夜に、イーサーにインジールが下り、天の王国への呼びかけを始めるよう、命じられました。
命が下り、イーサーはその生の安らかな頁を閉じました。
瞑想と信仰の頁、苦しみに満ちた厳しい旅が始まったのです。アッラー、そして新たな王国への呼びかけの旅です。その王国では、法は言葉の文字ではなく、誠実さとは免罪符を買うことではありません。謙虚さと愛によってたつ王国です。この二つは、ユダヤの暮らしから完全に消し去られていたものでした。
ユダヤの法は、キサースを定めていました。
右の頬を打たれたら、打った者の右の頬を打て、と。
アル=マスィーフはやって来てこう語りました。
「右の頬を打たれたら、左の頬を向けなさい」
イーサーが言いたかったのは、法とは復讐し打つものではなく、真の法は赦し慎むことにある、ということです。愛へのこの新たな呼びかけに、ユダヤ人たちは驚きました。アル=マスィーフに対し驚いたのは、彼が、神官たちの存在が無意味になるような方法でアッラーへと呼びかけていたです。
アル=マスィーフは、アッラーは貧しき者と、善き富者を愛され、傲慢な者と非情さを嫌い、悪と嘘を憎み、裏切りと欺きを憎悪される、と説きました。ただ善良で、穏和で、すべての人々、自分を嫌い敵対する人々すらをも愛すること以外で、アッラーの御慈悲に預かることはできない、と説きました。
富がひたすら追い求められる物質的な時代のさなかのことです。非常さと貪欲が支配する世界のさなかに、アル=マスィーフの呼びかけは、高潔さと純粋さの偉大な例証として現れました。アル=マスィーフは、彼が指し示し語った高みに、人々が到達し得ないことを分かっていました。しかし、一人ひとりが高みを目指し努力し、限られた人だけが成功するだけでも、十分なのです。
すべての預言者は、奇跡を与えられ遣わされました。ヌーフの奇跡は方舟であり、これが信じる者たちを運び洪水から生き延びさせました。ムーサーの奇跡は、海を二つに割り、杖を蛇に変えることでした。同じように、イーサー(彼の上に平安あれ)にも、その時代と、父なくして産まれたこと、アッラーの言葉より産まれたことに相応しい奇跡がありました。
イーサーは聖なる霊の助けを受け、揺籠の中で大人のように語りました。アッラーは彼に、書と知恵とタウラーとインジールを教えました。慈悲深き御方は、アッラーの赦しがあれば鳥の形の泥から鳥を創る能力を、彼に授けられました。息を吹き込めば、アッラーの赦しにより鳥となるのです。彼のゆったりとした服は、その裾に触れると病気が癒されました。イーサーがらい病患者や目の見えない人に手をかざすと、たちまちに病が治りました。彼は、人々が家の中に置いているものを言い当てることができました。彼は、人々が家に隠しているものを、その目と心で見ることができたのです。
イーサーはまた、素晴らしい奇跡を与えられていました。死者を墓地から呼び出し、アッラーの赦しにより命を与えたのです。
これらの奇跡により、彼は人々に、唯一にして並び立つものなきアッラーへの崇拝を呼びかけました。魂の浄化、心の清め、精神を洗い清めること、そして天の王国へ入ることへと。
彼の呼びかけは、ユダヤの神官たちには面白くありませんでした。また、ローマの占領当局も警戒させ、悪辣な富者たちもすべて彼の敵に回りました。
来る日も来る日も、イーサーは、この社会の権威と悪辣な勢力に反対する狩人や貧者、哀れな者たちと共に立ちました。
彼に対する企みが、秘密裏に始められました。
ユダヤ人たちが彼の追放を決めたのです。すべてが後回しにされ、悪巧みの計画が練られました。朝が来て、イーサーが人々にアッラーへと呼びかけるために礼拝所に入って行きました。ユダヤの神官たちは、死ぬまで石打ちするに値する過ちを犯した女を連れてきていました。
イーサーが入ってきた時、彼らは尋ねました。
「法は過ちを犯した者に石打ちを命じますな」
イーサーは言いました。
「いかにも」
彼らは言いました。
「この女は過ちを犯した女です」
イーサーは女を見て、それから神官たちを眺めました。彼は、神官たちこそ大罪を犯していると分かっていました。彼らの方が、彼女より悪辣であると。神官たちが答えを待っていました。彼が、彼女を処刑すべきではない、と言えば、彼はムーサーの法に背いたことになり、処刑すべきだ、と答えれば、自ら愛と赦しの法に背いたことになるからです。
イーサーは企みを理解しました。そして微笑み、顔に光射し、神官たちを見て、それから女を見ながら彼らのこう言いました。
「お前たちの中で、過ちを犯していない者は、石を投げるがよい」
礼拝所の沈黙の中に声が響き、過ちを裁く新たな法が定められました。過ちは、過ちを犯していない者が裁くのです。過ちを犯した人間は、誰であれ自分以外の者を裁いたり裁定を下すには値しないのです。無謬にして公正なるアッラーだけが裁くのです。アッラーは最も慈悲深き慈愛遍く御方です。
イーサーが礼拝所を出ると、その後を女が走って追いかけてきました。服の下から高価な香水瓶を取り出し、それをイーサーの前に起きました。そして足元に膝まずき、彼の足を香水と涙で洗いました。
それから、髪で彼の足を拭いました。
アル=マスィーフは彼女に対し、何百万もの人に対するように振る舞いました。これは最後の希望で、慈悲の無限の力なのです。
ユダヤの高位の神官たちが、イーサーの後を追って出てきました。
そしてこの光景を見て、イーサーの慈悲と赦しに揺さぶられました。
イーサーは彼を見て言いました。
「ある債権者には、二人の債務者がいる。一人は五百ディナール、一人は五ディナールの負債がある」
神官は言いました。
「はい」
イーサーは言いました。
「この二人はどちらも、支払いを守ることができません。債権者は二人から支払いを免除した」
神官は言いました。
「はい」
イーサーは言いました。
「どちらがより多く、彼に感謝するだろう?」
神官は言いました。
「より多く免除された方です」
イーサーは言いました。
「わたしは公正に裁いたのだ。あの女をご覧なさい。あなたは家を訪れても顔を洗う水も出さない。しかし彼女は、わたしの足を涙で洗い、髪で拭ったのだ。あなたはわたしに接吻の一つもしないが、彼女はわたしの足に接吻するのも厭わない。あなたの心は無情で、彼女の心は愛に満ちている。より多く愛する者が、過ちを許されるのだ」
イーサーは女の方を向き、彼女に立ち上がるように命じ、こう言いました。
「いきなさい。アッラーがあなたの過ちを許されるように」
- ユダヤ教の祭日 [↩]