畠山直哉さんという写真家の連作に、石灰石鉱山の発破の様子を撮影した「Blast」というものがあります。遠隔操作のカメラを発破現場近くに仕掛け、爆発の瞬間を写真に収めるのです。
畠山氏は、
僕は若い頃に「フィルムには光の様子しか映らない」といった、非常にリテラルなモットーに基づいた、一種、科学的な写真教育を受けた人間です。
と語る人物で、「写真は写心」などと語るような叙情的写真観に違和感を示す作家です。
その畠山直哉さんの撮ったある爆発の写真に、偶然に鳥が写り込んでいました。
この鳥の写り込んだ写真について、氏はこう語っています。
画面の左上の方を、こちら側に向かって飛んでいた一羽の鳥が、突然起こった爆発に驚いて方向を変えますが、すぐに膨張する岩石に覆われてしまいます。やがて爆発が収まる頃、鳥の影は煙の向こうに再び現れ、画面の右の方へと飛び去ります。ただこれだけです。
フィルムが現像され、コンタクト・プリントの中に、この小さな鳥の影を認めた時に、僕の「心」は大きく動きました。撮影の時にカメラを覗いていませんから、画面に鳥が写っているなんて思いもよらなかったのです。僕は、このわずか数秒間の出来事を写真にできただけでも、二十年以上も鉱山に通い続けた甲斐があった、とさえ思いました。
この写真に僕は何を見たのか。僕は少なくとも、「誰かの心」は見なかった。僕はむしろ、この世には心とは関係のないものが、確かに存在している、と深く思いました。この実感は、普段から心に辟易している自分を自由にしてくれるものでした。
この言葉に、わたしは衝撃を受けました。
実はこの話を知ったのは第三者を経由してで、その時点では写真も見たことがなければ著書も拝読したことがありませんでした。ただわたしはびっくりして、伝えてくれた彼にこう言いました。「それはわたしの言い方で言えば、神様ということだよ」。
この反応が素っ頓狂で、世間一般から見て意味不明であるという自覚はあるのですが、驚くべきことに彼はすぐにわたしの意図を理解してくれ、畠山氏の著書にある別のこんな一節を教えてくれました。
世の中には、人間の内側を指して用いられる言葉が実にたくさんあります。心、精神、魂、事故、内面、感覚、夢。「私」なんていうのもそうですね。主体なんて言葉もある。それに対して、外側には何があるんでしょう? もの、物質、他者、自然、社会、といったところでしょうか。神様なんかは、外側に置いてもいいかもしれませんね。主体に対しては客体という言葉を充てましょう。
当然ながら、畠山氏は宗教家でも何でもないし、多分特定の信仰も持たなければ、むしろ「宗教的」なことには興味のない人間ではないかと想像するのですが、さらっと何でもないように「神様は外側」と言っています。
この「神様」は、多くの人々、少なくとも多くの日本人にとって、奇妙なものの筈です。なぜなら彼らにとって、「神様」はスピリチュアルで、非-物質的で、むしろ「心」に近いものだからです。
そして誤解を恐れずに言ってしまえば、こうしたイマジネールな「神様」の見方こそ、唯一者についての理解を妨げる、「Godとは正反対のもの」であり、わたしの理解する限りでは、イスラーム的にはシルクに相応する、より正確にはシルクの禁止において警戒されている危険性にぴったり当てはまると言えます1。
偶然に写真に写り込んだ鳥は、もちろん神ではありません。鳥です。それが神(一者)の発見に等しいというのは、この鳥が鳥自体であるという確信を生んでいるからです。
鳥が鳥であるというのはどういうことでしょうか。
畠山氏は「この世には心とは関係のないものが、確かに存在している」と言います。「心とは関係のないもの」とは、何でしょうか。とりあえずそれを「物質」としてみましょう。写真に映るものですから、それは「物質」です。
「物質が存在している」。
そんなことは当たり前で、改めて驚くべきものではない。そうでしょうか。
ベタな言い方ですが、わたしたちは日常、物質そのものを認識している訳ではありません。物質に根を持っている(と想定される)ものの、物質そのものではない、イマジネールな統合された世界像を見ているのです。「わたしたちには意味=解釈しか見ることができない」などと言えば、ナイーヴにすぎますが、わたしたちと世界の間には常にトランスミッションが一枚挟まっています。
もちろん、この「世界像」は、物質と無関係な単なる脳内イメージという訳ではありません。伝統的には、世界のrepresentation表象代理とでも言うのでしょう。一般的なイメージでは、この代理は世界そのものと「類似」の構造を持っているように捉えられています。しかし、世界そのものを直接に知ることができない以上、見えるものと見えないものの間に「類似」があるということを確証することはできません。
つまり、理屈からするとわたしたちは誰も世界そのものを「知って」はいない、あるいは、カントではないですが、無限の漸近の果てにしか世界を想像し得ず、それどころか本当のところ「類似」しているかどうかすら分からない訳です。すべての瞬間には、次の瞬間に世界がすべてカキワリになり、まったく違う「真の世界」が現れる可能性が含まれています2。
あるいは、別の言い方をしてみるなら、世界は常に自分の指が写り込んでしまっている写真、または視界の片隅に常に自分の鼻のはいり込む風景です。世界に対する開きを持ち、それを「見る」ことができるのは、「わたし」が存在しているからです。しかしわたしは、わたしの存在それ自体において、世界を汚染してしまっています。なぜなら、この「わたし」もまた世界の一部だからです。
普通の日常生活でこうしたことが意識されないのは、わたしたちが「わたしたち」という物語を生きているからです。わたしたちは、多少の違いはありつつ似た風景を眺めている、という、(実のところ何の根拠もない)物語こそが、わたしたちが世界だと信じている連続体です。わたしの視界が指や鼻に汚染されていても、他人(他のわたし)からは見えているのだろう。誰かは見ているだろう。見ている誰かはわたしと似ているだろう。
しかし実際のところ、この「わたしたち」という物語は、ただ「わたし」が増えただけであれば、何の不安も払拭していません。それでもそれなりの安定を保っているのは、全体そのものを示す記号が物質としてわたしたちを支えているからです。ただ、その記号は、盤石のものではなく、時に不安になり「わたしたち」は単なる「わたし」たちに瓦解しそうになる。
そこへ鳥が飛んできます。外部が。
鳥とは何でしょうか。
鳥はつるんとした統合的世界像を形成する幻想としての壁紙(「わたしたち」のディスクール)ではなく、むしろ壁です。予期されず、期待されず、必要ですらなく、特段に魅力的でもなく、ただ世界の不条理を証明するものとして画面の中に写り込んだのです。
この鳥は、ジジェクがパトリシア・ハイスミスの『ボタン』について語っていることを思い出させます。長くなりますが、引用してみます3。
マンハッタンに住む一家にダウン症の子どもいる。小さくて太ったその障害児は何一つ理解することができず、ただぼうっと笑っていて、食べ物を吐き出す。父親は、このダウン症の子が生まれてからかなり経っていても、その子に慣れることができないでいる。彼にはその子が、無意味な<現実界>の闖入、神あるいは運命の気まぐれ、まったく身に覚えのない罰としか思えない。その子のクックッという声は彼に毎日、世界の非整合性とまったくの偶然性、すなわち究極的な無意味さを想起させる。ある晩遅く、彼はその子に(そして、嫌悪感を抱きながらも自分の障害児に対してなんとか愛情を抱こうとする妻にも)辟易して、人気のない通りを散歩する。暗い角で、彼は酔っ払いとぶつかって、取っ組み合いの喧嘩になり、運命の不公平にかねてから抱いていた怒りが爆発して、その酔っ払いを殺してしまう。気がつくと、彼は酔っ払いが着ていたオーバーから取れたボタンを握りしめている。だが彼はそれを捨ててしまわずに、いわば思い出の品として取っておく。それは<現実界>の小さなかけらであり、運命の不条理を思い出させるものであると同時に、自分が少なくとも一度は、運命に劣らず無意味な行為によって運命に復讐できたという事実を思い出させるものである。そのボタンのおかげで、以後、彼は癇癪を起こさなくなる。それは、彼が障害児を抱えているという辛い日常生活と折り合いをつけていけることを保証する、いわばお守りのようなものである。
このボタンはどのような働きをしているのか。<対象a>とは違って、このボタンにはなんらかの換喩的・到達不可能的なところがない。それはただの<現実界>の小さなかけらであり、他のあらゆる対象と同じく、われわれはそれを手に持って操作することができる。また、墓地に生えてきたこぶとは違って、われわれを魅惑する恐ろしい対象でもない。それどころか、このボタンはわれわれを落ち着かせ、安堵させる。それが自分の手の中にあるだけで、自分は世界の非整合性や不条理性を耐え忍んでいけるであろうことが保証されるのだ。
したがって、このボタンのパラドックスは次のようなものである。すなわち、それは、世界の究極の無意味性を証明している<現実界>の小さなかけらであるが、われわれが世界の無意味性をそのボタンの中に凝縮し、位置づけ、物質化するかぎり、つまりその対象が世界の無意味性を表象する役割を果たしているかぎり、それは、われわれが非整合性の直中で持ちこたえてくれるのを助けてくれるのである。
『斜めから見る―大衆文化を通してラカン理論へ』
ここでのボタンと「Blast」の鳥はまったくの等価ではありませんが、どちらも世界の不条理性、より正確には、壁紙の向こうに確かに世界が「存在」するのだ、ということを証しています。
本当のところ、ボタンも鳥も、それ自体では依然として壁紙の一部に過ぎません。しかしある瞬間、ある角度で世界に侵入することで、それがそれ自体であり、その源泉たる世界の存在を証すものとして、機能することがあります。ですからこれは、奇跡にも似ています。
以前に「すごい体験と信仰」というエントリで、奇跡のことを書きました。
後に二代目カリフとなるウマル様たちがムハンマド様と一緒にいると、白い服を着た見慣れない男がやってきて、ムハンマド様に色々とイスラームの本質について質問します。ムハンマド様が次々と正しい答えを言っていくと、男は「そのとおり」とうなずきます。預言者様に対して、いきなりやって来て突っ込んだ質問をしていくのですから、見ていた人はハラハラしていたことでしょう。一しきり質問すると、男は満足そうに立ち去っていきます。
それを見てムハンマド様が「あれが誰だかわかるかね」と、周りの者に尋ねます。「あれは天使ジブリールだ。お前たちにお前たちの宗教を教えに来たのだ」と言うのです。
このハディースが印象的なのは、天使が人の姿をしてやって来て、ウマル様をはじめとする「普通の人々」の前に現れているからです。
預言者様お一人のエピソードでなら、聞いていても「そういうものだろう」と思うわけですが、この話はちょっとドキドキします。
信徒にあるまじき暴言を吐けば、もしかするとこの男は、ただのちょっと頭のおかしい図々しい人だったのかもしれません。「天使ジブリールだ」と言われて、ウマル様が「ほんまですか、そら茶くらい出さんとあきませんわ」とか立ち上がって追いかけていって捕まえたら、その辺のオッチャンだった、ということだってあったかもしれません。
でもお話はここで終わっています。ウマル様は追いかけなかった。男はどこかへ行ってしまった。そして永遠に、戻って来なかった。
だから、奇跡なのです。
壁が突然目に入ってくる、というのは、この時の天使ジブリールのようなものです。
白い服の男が実はその辺のオッチャンだったとしても、少なくともその時の彼らには、突然に世界に入り込んだ天使であり、壁を確証するものだったのです。それで十分です。
奇跡というのは、結局のところ、「これ一つ」ということです。遡って再現できるものなら、奇跡とは言いません。何度もできるなら、普通の自然現象です。
一回起こって、過ぎてしまってからでは、もうどうしようもない。確かめようもない。
それはちょうど、わたしたちの人生が一つだけで、「わたし」がこの世に一つで、世界が一つで、この一瞬一瞬に過ぎていく時が、永遠に取り戻せないのと並行的です。
そしてまた、アッラーがお一人であることと一つです。
これらは共に「<現実界>の突出物」という意味では共通していますが、ジブリールは対象aであるのに対し、鳥はS(A)、すなわち<大他者>における欠如を示すシニフィアンのように振舞っています。つまり、鳥が示しているのは(象徴的)世界の不整合性であり、鳥自体は(写真に写る!)イマジネールな延長体ですが、それが象徴化しているということです。
少し話がずれますが、これは写真というものの機能を非常によく表している事例と言えます。写真には「目に見える」ものしか映りません。ですから例えば、写真をたくさん撮って「ほら、どこにも神様は映らなかった!」と言うこともできます。しかし同時にここで、「目に見える」という方の「目」こそが、よく見ていなかったことが証されます。「目に見えないものを見る」のではなく、「目に見えるものを目が見ていなかった」ということです。そこにおいて、まったく平凡で余りある想像的なもの、「目に見えるもの」の「目が見ているもの」に対する剰余が、統合された世界像というものの破綻を斜めの方向に示します。わたしたちは、「目に見えるもの」が閉じた地平を持つものとしてイメージしていますが、その地平線には切れ目があり、「見える以上に見えるもの」が世界には流れ込んでいます。そのような破綻を示すのは、目に見えない何かではなく、正に目に見えるのに、目にしていない何かなのです。
まるで、浮き上がって余った壁紙が、その壁紙の過剰により、実のところ壁なしで壁紙は成り立たず、その根底となる壁とは、壁紙を貼らなければならないほどに不気味で不整合であることを示しているかのように。
まったく話は変わるのですが、畠山直哉氏が上のようなことを語っている『話す写真 見えないものに向かって』という書籍の中で、渋谷川上流の暗渠を写した『アンダーグラウンド』という連作について触れています。
光がなければ写真は撮れないのですから、暗闇を写真に撮る、というのは逆説的な行為です。さまざまな試行錯誤の上、それまで使っていた照明を、画面の中央に置いてみました。すると、周囲の闇の暗さが強調されるように見えたので、この方法でいくつか写真を撮ってみました。それまでは、カメラのすぐ脇に照明を置いていたのですが、それだと画面の周囲が明るく奥が位、という写真になってしまう。照明を画面の真ん中に置くのは言語道断だと思っていたのですが、できた写真を見えると「これしかないな」という風に思われました。
人によっては、この照明がカメラだと思う人もいるらしい。だとしたら、この写真はなんで撮っているんだ? と、僕は思うのですけれど。それから、中にはこの照明に人物の後ろ姿を連想する人もいます。その場合、前方に放たれている光は、人物の視覚、つまり「ものを見る」ということの比喩になっているのでしょうか。そういえば、昔の哲学者の中には、ものが見えるのは、人間の目から光が出ているからだ、と考えた人がいる、ということを聞いたことがあります。
これはまったく、ラカンの眼差しを連想させます。
眼差しとは、「見る器官としての目」ではなく、また「見られる対象としての目」でもありません。それは「見る者の目以前に見ているもの」です。
ある種の動物や植物には、擬態という性質があります。背中に大きな模様があって、それが別の強く危険な生き物を装っていたりするものです。しかし大きな目の模様を背負ったこの昆虫は、自分の背中など見たこともありません。そこには何かが描かれているのですが、見ているのは彼ではありません。他の何者かが、それを見ています。見られているものは、自分が何かを「見せて」いるということにすら、気づいていないかもしれない。あるいは、この見られているものは、自分自身は「見る」という機能を備えていないかもしれない。
「見る者の目以前に見ているもの」。通常それは、「自分を見ている自分を見る」という、鏡像的イメージの中に回収され、消え失せます。しかし本当のところ、「自分を見ている自分を見る」ことは、眼差しとはまったく異なります。「自分を見ている自分を見る」は、眼差しを隠蔽するイメージなのです。
それは言わば、見る対象というより、見ることを可能ならしめている光そのものです。光点という絶対的(非)対象を、サルトルやバタイユであれば「見ることのできないもの」とするかもしれませんが、実はこの不可能に見える光そのものも、見ることはできます。目を焼かれないよう、視線をそらしつつ、視界の隅にとらえるのです。ちらっと写るだけですから、そのものの正体ははっきりとは分かりません。しかし何か、視界の片隅に、わたしが見る以前からわたしを見ているもの、わたしを見ることで選んだもの(擬態のお陰で生き残った昆虫は、自分がいかなる恩恵により生き延びたかを知らない)の陰が。
『アンダーグラウンド』の照明は、見事なまでに眼差しに照応しています。
この作品を見た人の中に、照明をカメラだと感じる人がいる、というのも興味深いです。ある意味、それは本当にカメラなのです。カメラが捉える前より、カメラを見ていた者です。
その姿は、カメラの前を行き、先の闇を照らす者の「後ろ姿」にも似ている。わたしより前に世界を照らす者であり、なおかつその曖昧な背中しか見ることができない。
見る者にこのように様々な印象を抱かせることも、対象aとしての性質に照応します。
そして何より印象的なのは、畠山氏がこの手法に至った経緯が、「闇を撮る」、つまり見ることのできないものを撮るためだったということです。そして試行錯誤の末、本当に「見ることのできないもの」が視界に映りこみました。それは光点であり、わたしより以前から見ていたものであり、今となっては模糊とした遠い後ろ姿しか捉えることのできなくなった、「あの人」の姿なのです。
話す写真 見えないものに向かって 畠山 直哉 小学館 2010-07-09 |
- それはバッタである、アッラーではないほか参照。実際上、非常に多くのムスリムも、同様に「偶像」的な宗教観に汚染されている。彼らはそれがイスラームだと考えているのだろうし、そのやり方はやり方で一つの道なのかもしれない。もしかすると正しいのは彼らかもしれない。宗教は懐広いものであり、主は慈しみ深い。だからわたしとしては、彼らの考えややり方が一つの経路としてあっても良いと思う。ただ、それが本質を捉えた理解だとは思わないし、わたしの見方がむしろハラームと断罪されたとしても、依然わたしはこのイスラーム観を捨てる気はない。わたしは彼らの友達ではない。 [↩]
- 余談ですが、クルアーンの中にある天と地がペチャンと潰されてしまうイメージというのから、わたしはいつもこうした恐怖を連想します。もちろん、単なる個人的なイメージです [↩]
- この正に引用しようとした箇所がToward the Sea : ラカンの<対象a>、<サントーム>、<現実界>の想像化、<現実界>のかけら にあったので、そのままコピペさせて貰いました。有難うございます! 世の中、結構似たような下りで人は感銘を受けているものです [↩]