弱いヤツが強く正しい人間になる方法、あるいはカッコイイことについて

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 人類の最もプリミティヴな価値観は「顔が良い」と「喧嘩が強い」だと思う。次点くらいで「ダンスが上手い」「歌が上手い」「楽器が上手い」、そこから大分下がって「絵が上手い」、後は「良い匂いがする」も結構重要だ。
 「食べものを見つけて来られる」「釣りが上手い」などが大事ではないか、という声があろうが、そんなものは所詮個の生存のかかったもので、ここでの「プリミティヴ」の枠には入らない。そんな辻褄の合ったものは全部「クソダセェ」で済ませられてしまうのがこの価値観。
 蛾やバッタを見てみればよい。個の生存なんでカスほどにも考えていない。考えているか。蛾がなにを考えているかなど知らないが、もう、猛り狂ったように生きて死ぬ。死ぬことは最初から織り込み済みだ。ベタでわかりが良く「クソダセェ」言い方をするなら、死の欲動とか、種の保存とか、そっちの方向の話だ。個なんて人生五十年、金融屋のキャッチコピーですら百年でしかないのだから、主=種の大いなる栄光の前には紙切れほどの価値もない。
 紙に書いて説明できる、誰がやっても同じように再現できる、辻褄の合った合理的で正しいものは、すべて個の生存からものごと始める(それが故に、逆説的にも真の意味での「個」など一顧だにしない)、肛門的で吝嗇で取るに足りない中学男子的な戯言に過ぎない。
 辻褄の合わない、再現性のない、「わけわかんないけどカッコいい」方の価値観の話をしている。

 種がどうこう、と知った風な口を聞いたが、種=主とかいう「懐かしのポストモダン」(という逆説)めいたしょーもない親父ギャグで混ぜっ返した通り、定義可能な「種」など最初から問題にしていない(定義可能な「主」にしても同じことだ!)。大体「種」ってなんだ? 生物学的にはそれなりな定義があるのかもしれない。しかしそんな系を区切った話はどうでもいい。援用可能でプラクティカルな定義など関係ない。一者に見えてちょっとずつ変わりながら続いていく感じのなにかを「種」とか言っているのだろう。実際は続かないかもしれない。「続く感」だけがある。いつまで続くのか。そんなものは関係ない。確かなのは、個が生きている間はそれは続くのだろうし、死んだ後もまあまあの確率で続く、個よりは長生きするなにかだ。死んだ後にどうなるかなど知らん。だからその無法図な可能性に賭けて死ぬ。そういうものがここでの「種」だ。だから「種=主」というのはただのダジャレではない。まあダジャレはダジャレだけれど。
 そっち側に賭けるのが「カッケェ」というものだから、個の水準で生きるとか幸せにあるとか、クソどうでもいい。

 「喧嘩が強い」は個の生存に関わるのではないか、と思われがちだが、それは種内淘汰、主に同性同士による攻撃行動と捕食行動を混同している。空手は熊と戦うためのものではない。ぶっちゃけて言えば、どっちがイケてるオスか決めるために喧嘩をするのであって、ウサギとかサバとかを捕まえるために戦うわけではない。喧嘩が強いこと自体は生存上クソどうでもいい話だ。メスは大概そんなこと興味がない。興味があるのは喧嘩に勝ったその後のオスだけだ。
 喧嘩は喧嘩のためにあるのであって、生きることには寄与しない。「顔が良い」についても以下同文。

 哺乳類限定かもしれないが、オスはともかくメスはもうちょっと長い目で見ている、「生きる」ことの価値を重んじている、という向きもあるかもしれない。しかしそこでの「生きる」とはせいぜい子育てのスパン。それはもちろん、メスは繁殖のコストがオスより断然高いし、哺乳類はなにせほにゅうしなければならないから、鳥なんかに比べてメスの子育てコストが異様に高い。だからもうちょっと長い目でクレバーに物事を見るし、餌をとってくる、みたいな、一見すると個の生存に関する能力みたいなものも重視する。
 しかしそれもせいぜい子育ての間の話だ。種をバラ撒く仕事が一瞬で終わるか十年くらいかかるかの違いだけだ。そんなものは主の永遠性に比べればカスほどの意味もない。一瞬、一瞬、一瞬だ。オスメスの相対的違いなどどうでもいい。
 死んだ後、死ぬ瞬間に始まる音楽のカッコよさだけが問題だ。そこでなにかが生きている。

 カッコイイことについて言葉で説明できるならそれは全部どうでもいい。説明できてしまった時点で負けだ。大体、話の長いヤツは詐欺師か負け犬と話が決まっている。輝けるものは長い話などしない。パッと見てカッコイイならそれが一番強い。長い話は嘘の始まり。どこまで聞いてもただの言い訳だ。

 全然話が違うが、わたしは昨日が誕生日だった。「お誕生日おめでとうございます」と言ってくれた人もいるし、花をくれた人もいる。人類的に正しいと思う。
 はっきり言って、わたしは誕生日などまったく関心がない。当日の昼過ぎまで忘れていて人に言われて思いだしたくらいだ。誕生日を重んじると言えば田舎のヤンキーだ。都会のワルい人たちも割と誕生日を大事にする。もちろん、誕生日など本邦の文化からすれば近年になって急にでっち上げられたニセ伝統に決まっている。ちょっと前まで数え年だった。でもそんなことはどうでもいい。今、プリミティヴな価値観を大事にする人々において、そこにリビドーが備給されている、ということが大事だ。どういう理屈かわからないが、とにかくそれが大事なことになってしまった。だからわたしは、気がついたら必ず人の誕生日を祝う。誕生日などどうでもいい。しかしそう感じるわたしの理性の方がもっとどうでもいい。計器飛行のようなものだ。わたしの直観において、わたしの育ち方からした自然な価値観において、誕生日はどうでもいいが、計器が示す、目の欺きとしての誕生日の大切さの方を遥かにずっと重視する。そっちの方が喧嘩も強いだろう。

 自分が生まれ育ち、子供の頃から当たり前に大切にしてきた価値判断をそのまま重んじるなどというのは二流三流だ。いや、田舎のヤンキーならそれでもいい。人類の99%は田舎のヤンキーで、蛾やバッタに近くてずっとカッコイイし正しい。辻褄上正しくないから正しい。そっちはいい。しかし、こんな文章を解読できてしまう程度の知性を注入されてしまった人間は、全部一から否定してドブに捨てなければ話が始まらない。そこで注入されたものは全部言い訳の嘘でしかない。弱いヤツの言い訳だ。
 弱いヤツが強く正しい人間になる方法を考えている。いや、考えていない。ただ実行する。

 誰が「正しい話」なんか聞きたいんだ? 面白い話を聞きたいんだよ。誰が追試しても同じ結果の出るような話は要らない。そういうヤツらは幸せに生きて死ぬだろう。正しい以外に何の取り柄もないヤツらほど惨めな連中はいない。むしろ幸せに生きずにすぐに死ね! 「種=主」の栄光のために!
 (個が)生きていることには何の意味もないし、まして個性など噴飯ものなのだから、カッコよくなければ生きている意味もなければ死ぬ意味もない。カッコイイものは死に近い。いや、個にとって死に近いというだけで、死んでも生きている。死に近いというより、死なんかどうでもいい、ということだ。別に死ぬのがカッコイイわけではない。
 カッコイイことの途中で死んでもそんなことはどうでもいい。



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