おいくつですか?

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 アーディル・アドハムは、スーパーマーケットでマムドゥーフ・アブドゥルアリームに言った。「年齢には三つあるんだ、ラムジー。証明書に書かれた年齢。人々がそう見る年齢。それから、君が感じる年齢だよ、ラムジー」。
 わたしは、四つ目の種類の年齢について語りたい。それは実際は、この三つから計算した結果なのかもしれない。単に合計ではない、計算だ。
 それは、魂の年齢だ。魂の年齢は、簡単に計算できそうだ。人生で何を経験したか? 何を失ったか? 何を得たか? 誰を愛したか? 何の為に犠牲となったか? 何の為に苦労したか? 何に苦しんだか? 何を見たか? これらすべてやその他のものは、魂の年齢を示している。六十歳になっても、歳を取るようなことを経験していなくて、魂は年老いていないかもしれない。逆かもしれない。まだ若いのに、魂が色々なものを見て歳をとっているかもしれない。

わたしは若者だが、歳は千年か
一人きりだが、身の内は大混雑
恐れているが、それはわたしに対する恐怖
口もきけないが、心は百万の言葉に満ちている
サラーフ・ジャーヒーン

 もちろん、魂が痛みや酷い境遇で成長しなければならない訳ではない。多くを知ることで成長するかもしれないし、多く感じることで、多く愛することで、多く生きることで、成長するかもしれない。
 言いたいことは、理解の仕方が変わるということが、魂が成長することの証左ということだ。考えの根本ではない、理解の仕方だ。魂の成長する人は、学んでいる。学び続ける限り、同じ見方で物事を眺めることはない。最初のやり方ですべてを理解するなど不可能だからだ(理解していると思う、ということはできるが。残念ながら、ほとんどの人は理解していると思っている)。必ず理解していないことが出てくるし、それが何なのか知らなければならないし、混乱し迷うに違いない。
 わたしは、もし理解の仕方が変わらなければ、大事なことは何も起こらないし、間違いなく前へは進めないと思っている。一回だけ変わるのではない。二度も十度も千度も、生きていて考える限り、魂が成長してよく分かるようになる度に、新しい見方を構成する。すると違うものが見つかり、それからまた、といった具合だ。すべてが正しい境地に達することは重要ではない。正しいなんてことは放っておくがいい。大事なのは、物事に辿りつき、自分のものにする、ということだ。最も大事なのは、このサイクルは決して完結しない、ということだ。生涯ペンがあげられることはなく、頁が乾くこともない1

  1. 「ペンは上げられ頁は乾いた」は、何かが既に決せられている、アッラーが運命を既に「書かれている」という表現 []