はじめに

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思想は完全に自由であり、ただ行為のみが制限される
 
この本を自分の三十代に捧げる。物事がよく見え始めた。まだ十分ではないが、それでも随分はっきりした。
 
 
 とうとう私のこの最初の本を書き始めるにあたって、最初の大混乱が生じた。アーミーヤで書くか、フスハーで書くか、分からなかったのだ。大変困った問題だ。フスハーは読み書きの言語で、記法は一つ、すべての言葉を発音できる。しかしアーミーヤはそうではない。例えば、リ・ル・胎・アリッリゥとも書けるし、リァル・・・ァリアリッル№ニも書けて、どちらも正しいかもしれず、両方違うかもしれない。
 フスハーはより大きな表現力を持つが、アーミーヤはより心に近い。フスハーはアラビア語を愛する人々と文化人たちに好まれるが、アーミーヤはすべての人が話す。
 ともあれ、手短かに言えば、考えていた通りアーミーヤで書くことに決めた。うまくいかないことがあれば、フスハーで書く。
 この本は小説ではない。元よりわたしは物語を語ることができない。あるいは、正しい意味で物語を綴ることができない。詩も同様だ。詩人になるチャンスがあったのかもしれないが、逃してしまったのかもしれない。あるいはそんなにチャンスもなかったかもしれない。とにかく、詩人にはまったくならなかった。では何になったって? 実のところ、あんまり確信もない。
 小さい頃、沢山夢があった。主が良きようにされますように1。テレビに出て、この世のあらゆることについて考えや思想や意見を言って、美人な女性キャスターがわたしの言うすべての言葉にクラクラするとかだ。自信ありげに深々と自分の椅子に腰掛け、自分の写真の下には大きな文字で「偉大なる思想家アフマド・アル=イシーリー」と書いてあるのだ。もちろん、これは変な夢だ。これが子供の夢見る仕事だろうか? 偉大なる思想家だって?
 しかし、アルハムドリッラー、予言の一部は実現した。テレビやラジオに出て、記事を書き、この通り本も書いている。ともあれ大事なことは、これらすべての原因は、とにかくわたしが四六時中考え考え考えているということだ。
 自分には、人生を理解するのがとても難しい。奇妙で複雑でこんがらがっていて、まるでスッキリしていない。人生には、不意打ちを食らわす驚くべき力がある。もう二度と驚くことはない、と考える度に、また不意打ちを食らわされるのだ(思うに、もし不意打ちを食らわされていないなら、人生によく集中していないせいだ)。
 考えることに関する基本的な問題は、考える度に悩みが増し、問いに答えようとする度に十倍も問いが出てきて、実際問いに答えたとしても、数ヶ月後にはその答えがおぼつかないと分かるのだ。こうしてずっと続いていく。
 しかしこの問いと試みすべての中で、より良い人間、思索する人間が生まれ出てくることに、わたしは満足している。
 この世に沢山あるのは疑問符だ。答えは滅多にない。この本には答えの類はないし、もしあったとしても、答えを意図したものではない。意図したのは、思考と問いだけだ。
 確かなものは何もないだろう。ただ悩みだけだ。
 確かなものは、アルハムドリッラー、担いで運ぶほど沢山ある2のだが、ここでは見つけられない。見つけられないことを願っている。

  1. リァル・・・蔀 リァリャリケル關€ リョル韓ア 夢の意味などが良いものでありますように、というドゥアー []
  2. リケル・隍€ ルほ・ァ ル・陂€ ル韓エル館關€ []