すっかりチョウチョになってしまったという寂しさの中で

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コロナがいっこうに収まらない中、吉田耕司さんの追悼写真展を訪れて写真を眺めているうちに、とても不思議な気分にとらわれた。
素朴に言葉にするなら「これは誰が撮った写真なのだろう?」とでもいう気分なのだが、もちろん撮ったのは吉田さんに決まっている。
吉田耕司さんとわたしは面識があるが、親しくしていたという程ではない。生前に展示に訪れた際、在廊していた氏と言葉をかわしたことはあるが、エネルギッシュなおじさんが少し苦手なので、ちょっと壁を作っていたと思う。その時は至って元気に見えたのだが、ご病気の知らせをうかがってから間もなく亡くなってしまった。
人が亡くなってしまう時は本当にあれよあれよという間で、それが不可解に過ぎるから葬儀という仕組みがあるのだが、焼香に上がるほどの間柄でもなく、ただ言葉を交わしたことのある人がふといなくなってしまって、宙ぶらりんな気持ちになった。
わたしたちは亡くなった作家の本を読むし、亡くなった写真家の写真を見る。それは少しも珍しい経験ではないのだが、中途半端に知っている人が亡くなって中途半端な気分のまま眺めたせいか、吉田さんという人とわたしという人間の間に、もうひとつチョウチョのような曖昧なものが挟まる気分になった。
「誰が撮ったのだろう?」というのは、写真を眺めているうちに、チョウチョのようなものがふわふわと飛んでいて、それが見た風景のように思えてきたからだ。つまり、チョウチョが撮った写真のような気がした。
そして撮る側、書く側として眺めると、なにかものを作るというのは、あたかもチョウチョが撮ったかのように撮ることだと、妙に腑に落ちてしまった。
チョウチョはチョウチョなのでものを言わないし、人の意図のようなもので世界を眺めない。しかし何の理もないかというと、たぶんあるのだろう。あるけれど、それは人には伝わり切らない。
写真で言えば、例えば被写体が亡くなっているとか、映っている風景が今はもうない、という状況は割合に簡単で、「写真は常に過去しか映さない」等々と、情緒的で了解可能な文脈に比較的すんなりと収まってしまう。それは嘘ではないが、筋書きとして少し簡便に過ぎて、写真が在るという事態を取り逃がしてしまっている。
撮った人間が亡くなっていても、繰り返しになるがそれは特別な経験ではなく、むしろ撮った人間と見る人間は普通知り合いではないし、作り手とは常に既に亡き者であって、これも簡単に了解されてしまう。
間くらいの、チョウチョのようなものを感じて捕まえるのは難しい。
強いて言えば、チョウチョのようなものは今もまだはたはたと力なく飛んでいて、見ているわたしと写真の間を彷徨っている。そうしたものとして見られることを見据えながら、しかし見据えきることなどできないという諦念の中で、ものを作る必要がある。
わたしたちはチョウチョではないので、チョウチョの気持ちでものを書いたり、チョウチョの気持ちで写真を撮ったりはできない。
しかしなにかが作られわずかながらも世界に痕跡を残すということは、そういうチョウチョみたいなものに自分を預け、すっかりチョウチョになってしまったという寂しさの中で、なおかつ営みを止めないことの中にある。
吉田さんがどういう気持ちでこれらの写真を撮ったのかはわからない。
また、このチョウチョという視点で考えると、もし自分がセレクトしたらいくつかの写真は選ばなかったのではないかと思う。この展示は吉田さんをよく知る人達によってセレクトされているが、その意図もまたわたしは知らない。チョウチョにしては人間味がありすぎるものも混ざっていて、しかし、もしかすると敢えて人とチョウチョを織り交ぜたのかもしれない。
自分が死んだ後でも作品が残るとしても、百年二百年残るのは稀であって、十年後ですら誰かが顧みてくれたら御の字だろう。「人の命は限りあるが作品は永遠である」などと言ったら嘘で、作品にしたところで形あるものはいずれ滅びる。いずれどころか、十年も経たずに忘れられるのが普通で、下手をすれば人の方が長生きしてしまう。
チョウチョの命は儚く短い。
人の命は短いのに、チョウチョの命はもっと短い。そんな頼りなく、自分自身よりもっと弱々しいものに、己を託してしまえるかどうかに、世界と対峙する上での誠意が掛かっている。真剣に向き合ったところで所詮チョウチョの命なのに、捨て鉢にならず、チョウチョの方に寄り添ってしまい、己よりももっと言葉を失っていけるかが、分かれ道なのではないかと思う。
このチョウチョというのは、歴史上の偉業とか、教科書に載るとか、そうしたわかりやすく「名を成す」ことと、ただただ生きて死ぬという、これもわかりやすいニヒリズムとの間にあるもので、だからこそチョウチョがやって来て去る僅かな時間に、わたしたちと世界の細く儚い関わりが宿るのだろう。
わたしたちが人として世界を認識してしまっている時点で、もうわたしたちは元々いたところから致命的に切り離されている。最初から、世界など見られていない。生きているのは寂しいことだ。
しかしまるっきりの無関係ではなく、呼びかけられたからわたしたちは生きているのであって、その遠い響きのようなものが、ここで言う「細く儚い関わり」である。
すっかりチョウチョになってしまった寂しさというのは、死んだ後ではじめてよく聞こえる響きを聞くことなのではないかと思う。



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