民主主義について

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 まずはじめに、民主主義のない世界のどんな場所でも、政治改革と言えばすぐさま民主主義というこの言葉と結びついている。歴史上のこの時代の世界は、民主主義こそ解決と考えている。人間は他の統治方法も試みたが、民主主義より良いものはなかった。結構なことだ、この惑星のほとんどの住人が意見の一致をみているのだから。
 ただ僕にとってはいつも、民主主義は悩まされる問題で、どう解決するものやら分からないでいた。プラトン(アッラーが彼を慈しまれるように)がはるか昔にこれを解いていたと知るまでは。だが、残念ながら誰も彼の言葉に耳を傾けない。
 まず、民主主義というものを定義してみよう。これは民衆による統治だ。民主主義的統治には、二つのものがある。民衆が自分の意見を表明する「自由で公正な」選挙(統治者を選ぶのであれ、議員を選ぶのであれ)と、民衆の代表があらゆる物事を評価について議会で「自由で公正な」投票を行うことだ(もちろん、政府の行なっていることすべてについても)。ことは簡単に見える。しかし実際のところ、簡単にはほど遠い。
 ややこしいのは、僕たちがいつも耳にする二つの単語から来る。「自由で公正な」だ。その定義もまた、見た目は簡単なのに。自由とは、投票や選択において、いかなる選択も誰にも強制されないことで、公正とは、あらゆる選挙や投票で、誰も不正を行わないことだ。大変結構。
 ここまでは誰でも頷くだろう。ここから、問題、難題、袋小路、罠と待ち伏せが始まる。選挙や投票において意見を表明する国民(あるいは代表)の種類だ。簡単に言えば、(いわゆるところの)民主主義的秩序が本当にうまく行くには、民衆全体が信頼のおけるものでないといけない。なぜなら、民衆の意見全体が、誰が議会で代表をつとめ、誰が統治するのかを決めるからだ。
 罠は明瞭だ。例えば、民衆がとても貧しかったら、金を渡したやつが選ばれる。サービスの受けられない民衆なら、サービスを与える者が選ばれる。情にあつい民衆なら、情に決定を左右される。これらすべてより危険なのは、民衆がナイーヴ、あるいは無知で、何についても何が益なのか分からない場合、彼らを騙す者が選ばれる。こうした状態にある選挙民たちによる選挙結果は、破局とまでは言わないまでも、少なくとも非常に危険なものとなる。
 今日の世界に目を向けてみれば、民主主義は多くの異なる方法で行われている。民主主義そのものはもちろん一つだが、その実現の仕方とその至りつく先は実に様々だ。イギリスの民主主義とフランスの民主主義は、インドの民主主義とは異なるし、(恐縮ながら)エジプトの民主主義とも異なるし、アメリカの民主主義とも異なる。思うに、一般的に言えるのは、民衆の文化や教育水準、意識の水準や洗練度、人間性が向上するほど、民主主義の実践はより成功する、ということだ。逆もまた然り。
 ここでプラトンに飛ぼう。というのも彼は、民主主義がアテネで生まれた紀元前四世紀から五世紀に、この難題を解くべく凄まじい努力をしたのだ。この時代、民主主義の実践の仕方について異なる二つのグループが抗争を(時に血の争いを)繰り広げていた。民主主義者と呼ばれた人々は、すべての民衆(この時は男性だけ)が議会での代表を選ぶのに意見を表明することを望んだ。行政を行う者も、明代を解くものも、彼らの権利を守るものも(後に女性投票権がこれに加わって、実際に世界で行われている民主主義となった)。もう一つの寡頭主義者たちは、少数の富裕層や財産家、貴族、宮廷関係者といった地位のある者たちだけに投票(もちろん立候補も)の権利を制限することを望んだ。
 プラトンは民衆をいくつかの層に分けた。第一に、財を愛する層。人間社会で最大の階層で、財産を所有しそれを増やそうとするもの、報酬を得るための仕事で財を得ようとするものたちだ。
 二番目が、名誉と栄光を愛する者。例えば戦士の類だ。ヒトラー然り、ナセル然り、金を欲しがるのではなく、戦争の類の勝利によって得られる栄光と偉大さを追い求める。彼らは、この栄光のためであれば、財産や命そのものを犠牲にすることも厭わない。
 三番目は、知恵と知識を愛する者。名前からも明らかなように、彼らの至上目的は知り理解することで、知恵に近づくことだ。哲学者や科学者や学徒、文化人とでも称せられる人々だ。
 ちなみにプラトンにおける統治者とは、社会の最も少数の層、絶対的に稀有な者たちに属さなければならない。すなわち、賢者そのものだ。それを彼は「哲学者たる王」と名付けた。知恵者で禁欲的、公正で思慮深く、自分のためには何も欲さず、何も持とうとせず、お金を持とうとせず、統治権すら欲しない。しかし知恵と真理と公正を愛するものたちが、彼が統治を行うよう求めるのだ。プラトンは言う。「哲学者が王となるまでは、あるいは世界の王が哲学の魂と力を得るまでは、諸都市を悪が永遠に支配するだろう」。
 金持ちについては、彼らの個人的損得が統治に影響し、公共の利益は個人的利益と容易に相容れなくなる。また大衆は、意見をころころ変え、感情や欲求や固定観念に左右され、政治に関われば簡単に過ちを犯す。プラトンはその著名な著書『国家』でこう言う。投票の権利は、(寡頭主義者が望んだように)富裕層や統治者につながるものに限られず、(民主主義者が望んだように)多くの民衆にも委ねられない、と。知恵を愛する者たちのみが、民主主義を実践する権利を持つ。すなわち、利益を貪るのでもなく、搾取すのでもなく、無知でもなく、頑迷でもなく、容易に扇動されることのない者たちに。プラトンにおいて、投票はそれに値し能力のあるもの「だけ」の権利だ。そして社会の第三の階層、すなわち「知恵と真理を愛する者」だけが、この条件を満たすのだ。
 人間の歴史を眺めれば、プラトンの言葉を無視することが、思うに犯罪ですらあるということが、すぐに見て取れる。栄光という考えに取り付かれたものが人々を率いたなら、例えば軍隊を作って、たとえ必要なく、あるいは誇り高くもない戦争であっても、勝利のために戦いに乗り出すかもしれない。もちろん、その代価は国全体が支払うのだ(農民たちに土地を分割し、ダメにしてしまうかもしれない。これも国全体がその代価を支払う)。財への愛に突き動かされる者が民衆を率いたらどうなるかは、皆さん総てご存知だろう。無知な者たちが民衆を率いれば、国を破壊する。近視眼な者たちが率いれば、現在のみならず未来までもダメにする。知恵が率いるようにするには、知恵を愛する者たちが指導者を選ぶ以外に方法はない(誰でも自分に似たものを選ぶのだから)。
 選んだり評価したりする能力のない者たち、あるいは個人的な利益のために選択してしまう者たちは、選挙で選ぶ資格はない。国民としての利得を与えられ、またそれを享受する以前に国民としての義務を果たす。それだけだ。
 上で述べた最後の点には、僕の考えるところの民主主義の欠点の一つについて、大いに考えさせられた。誰でも自分に似た者を選ぶ。イデオロギー的に、信仰において、思想的に、人間的に。この民主主義についてまわる問題は、投票する人々が例えば人種差別主義者であれば、彼らと同じような人種差別主義者にしか投票しない、ということだ。宗教的に厳格な社会であれば、厳格な人を選ぶだろう。この欠点は、民主主義的な社会が、自分自身を違った目で見ることを出来なくさせてしまう。そのため、抜本的で素早く激しい軌道変更というものが出来ない(その必要性が差し迫っている場合、例えば僕たちのように)。民主主義では、どんな社会であっても、思想的・イデオロギー的に急激な変革ができない。なぜなら、民主主義的な選択は常にそれを選んでいる者たちの性質によって色付けられているからだ。単純な法則だ。ほとんどの人々が啓蒙されている社会では啓蒙的な人物が選ばれるし、蒙昧な人々は残念ながら蒙昧な者を選ぶ。
 以上のことから、何か偉大な出来事が社会に起こって、隠れていた欠点や長所が明らかにされない限りは、実際的な変革を起こすのに民主主義は非常に長い時間を要する。例えば、考えてみて欲しい。イスラーム以前にアラビア半島で暮らしていたアラブの部族社会は、女児を間引きしていた(つまり厄介払いの為に生き埋めにしていた)。もしこの社会が民主主義的で、統治者を選んでいたら、常に女児生き埋めに賛成する者を選んでいただろう。確かに理屈の上では、このことや他のことに関する社会の考えは変わり得る。しかし民主主義的な方法では、本当の変革には非常に長い時間がかかる。それは文化に深く根ざした習慣なのだから。しかしもし一人の指導者が率いるなら、朝起きて「お前らのやってるそれは何だ、そんなことがあってたまるか」と鶴の一声で、女児を生き埋めにする者を死刑にし、すっかりそんなものはなくなって話が済むかもしれない。
 民主主義は、社会全体の文化によって駆動されるもので、正解に至るまで長い道のりを要する。しかし反対に、多数派にとっては、納得のいかないことや信用していないもの、信じられないものを強制されることはないことが保証される(例えそれが正しい選択であっても)。
 例えばアメリカでは、人種差別的な法律を廃するのに、民主主義は長い時間がかかった。しかし一方で、一度それを廃絶すれば、本当に本当にそれを終わりにできたということだ。民主主義が有効なのは、それが社会全体の努力に拠っているからだ(あるいはそのように想定されている)。民主主義は世界に、その歩みが正しいことを示したが、同時にまた、残念ながら実に遅い。
 ちなみに、そのアメリカの民主主義も、人種主義的法律を廃絶したが、多くの別の過ちを犯している。ジョージ・ブッシュのような男が地球最強の権力の座につけば、アフガニスタンやイラクでやったようなこと、その他の国内的な過ちが起きる。これはまだ生きている民主主義に対する反証だ。簡単に蒙昧に陥り、騙され転がされるかもしれない、という証左だ。あの残念なヤツの時世が去り、オバマが勝った後で、イラクとアフガニスタンに軍が残っていることは、同様の証左だ。もっと危険なことを示している。政治の世界では、他のどんな世界に比べても、タダのものというのはない。人々の支持を得るには、彼らの利害の面倒を見なければならず、その間は頭の中にあることを実行できない。それで選挙の前は僕たちの気に入るようなことを言って、選挙の後でことを始める。一年二年三年と経てば、言い訳も揃うという訳だ。これよりややこしい要因も沢山ある。金、組織、兵器ビジネス、株、自分を守るために理解もしたくなく、可能な限り口にもしたくない諸々のことが。とにかく一般的に、こうしたやり方の選挙というのは、借りを作るもので、借りというのは支払わなければならないものだ。
 アメリカの民主主義はもちろん、世界で唯一の民主主義の理想ではない。逆に、多くの人々が、間違いだらけの民主主義だと思っている。ちなみに、アメリカは民主主義の実行水準で世界15位で、ついでにエジプトは95位だ。しかし例えば、イギリス(13位)は、最も深く民主主義の根ざした国の一つだが、その民主主義があるのに、アイルランドで何をしたのか。アメリカの後に続いてイラクやアメリカの戦争に入ってきたではないか、民主主義があるのに。つまりそれが政治だからだ。政治は勝つために欺く。聞きたいことを聞かせてやれ、やられる前にやれ、大同を捨て小異にもつけば肝心なところに目も瞑る、等々。この世界を統べる法則は沢山あり、これを制する者が好きな方向に動かしていく。
 今日の西洋の民主主義は、多党制に基づいている(大抵は三つから六つの大きな政党がある)。異なる政治、異なる方向性、異なる考え、異なる方法の複数の政党。この多党制には素晴らしい長所があるが、しかし残念ながら、酷い短所もある。例えば、ある種の党派性というものが作られる。国の利益のために皆が集まるのではなく、父親が共和党員だから共和党員だとか、自分の住んでいる町や州が民主党与党だから民主党びいきだとかだ。そして最後には、形の上では自由と公正を掲げるものの、中身には本当の意味での自由や公正を妨げるものが沢山出てくる。
 これらすべてに加え、民主主義というのは投票箱だけで実現されるものではない。本当の民主主義は、思想と信条と表現についての完全な自由、これに加え、完全な報道の自由を必要とするものだ(世論を保証し選択において過ちを犯す可能性を減らすためだが、それでもゼロにはできない)。ヒトラーだって民主主義的に選ばれたのだ。
 では、民主主義はダメなのだろうか。いや、もちろんそんなことはない。ただ、条件が沢山ある。民主主義は簡単ではない。とても難しい。にも関わらず、多くの人々が簡単に考えて、それを唱えれば何でもできる魔法の言葉かのように考えている。
 プラトンは、知恵と知識を愛する者たちだけが、選挙で意見を表明する権利があるとした。さらにプラトンは、現在ある状況の改善において、実際的で素早く成功した民主主義を望む社会の抱える難問とは、選挙権を持つ人々と、単に国民としての権利のみを持つ人々を分ける基準を定めることだ、と考えた。僕たちの置かれているようなのとは異なる状況であれば、民主主義にも改革ができるのかもしれない。しかし、全員参加の民主主義が成功するための第一条件は、単に良いというだけなく素晴らしい教育システムがあることだ。また民主主義には、文化と意識、広い知見と文明性、その他多くのものが必要だ。
 少なくとも、僕たちが文化と文明と思想運動と本当の強力で影響力のあるメディアと本当に良い教育を手にし、その上で本当に教育ある意識の高い文化的文明的な民衆が生まれるまでは、僕個人としては、僕たちの現在の状況(およびそれと似たような状況)のもとでは、この件に関してはプラトンに帰るべきだと思っている(ちなみに僕としては、すべての社会がそうすべきだと思っている、文明化された社会であっても。違うのは彼らは選択において異なる基準を用いるということで、それから僕たちのように急かされてはいない)。民主主義のおでこにあるこの大きな傷跡を取り除くのに、プラトンに帰りインスパイアされなければならない。
 それぞれ社会に、それぞれの状況に応じ、意見の表明し、未来の選択に参加するというこの偉大な名誉に値するものを偉ぶ方法があるに違いない。ある社会は、選挙で意見を表明するには大卒でなければならない、と言う。二番目の社会では、教育があれば十分。三番目の社会では、うちの社会で教育があるというのは大したものではない、修士はないとダメだ、という。四番目の社会では、政治経済を学んでいないとダメ。五番目の社会では、教育は重要ではないが、意見を表明したい者はまず民主主義についての教育を受け、その方法をよく理解しなければいけない。六番目の社会では、意見の表明する人々は候補者の政党のプログラムに沿いテストを受け、何をしようとしているか理解できているか試される。社会が保証を得られるどんな方法でもいい。いかなる選挙においても、深い本当の公正さの片鱗でも意見を表明する者が持ちあわせれば、それはその選択を行いそれに従うということの意味を理解しており、それゆえ選んだことのせきにんを意識しているということだ。数は沢山いるかもしれないが、民主主義は数ではない。
 だが、知る者も知らない者も、無知な者も学者も、泥棒も裁判官も、心を病んだ者も哲学者も、投票において平等という民主主義は、僕の目には冗談に近いものに映るし、しかもひどく馬鹿げた冗談だ。
 では、まだ語っていない民主主義の長所の番だ。民主主義以外のいかなる秩序にも存在しない長所、それはことの礎石、馬を繋ぐ場所たる要点、いやむしろ馬そのものだ1。すなわち、民衆の選んだ統治者を、その民衆自身が取り除くことができる、ということだ。これこそ本題であり、もしこれがなければ民主主義も根本からないものとなる。この条件が実現された上で、その適用の問題を見てみよう。
 思想家を自称し、好意をもってくれる人からは哲学者の名を頂戴もする僕としては、プラトンを真似して、僕なりの『国家』を書いてみる。僕の想像をぶちまけてみるので、驚かないで欲しい。
 僕は個人的に、ラディカルで即効性のある解決法が好きなのかもしれない。民主主義がその古典的な方法で改革を行うのに要する歳月には耐えられない。人々がこの方法で選んでいるのでは、市長の息子に投票したり、雇用主や自分に益のある者、お金をくれる者とか助けになる者とか、そうした類に票を入れる。そうして何回も間違いを選んだ挙句、ある日とうとう、この選択基準は間違っていて変えなくちゃいけない、と気付く。それからより正しい基準を教えることができ、かつそうしたい者を見つけ、もし彼が過ちを正すことができなければ、その子供たちがより正しい基準を身に付け、有難いことに彼らは先の過ちから学び、とうとう違う基準を探し出す。こんなことを全部いつやるというのか。
 僕としては、民主主義からその礎石だけを頂戴し、その上に新しい別の秩序を築きたい。それを適当に「単独選出指導者」と名付けよう。これは何か。まず候補者が選挙に出る(政党からでも政治集団からでも個人でも)。当然民衆に、自分が何者なのか、様々な問題をどう考えているか、何をしたいのか語る。民衆は彼らから一人を選び、その後はもう出番はない。人民議会というものはない。まったくナシだ。人民議会は、状況がこうした秩序の実現を許すようになれば、本当に民衆が選んでもいいだろう。彼らが本当に民衆を代表し、自分自身のためでなく公共の利益のために働き、たとえ戦争で死のうとも、自分自身と彼らの権利のために戦う覚悟があるなら。
 民衆は話し合い、指導者選出しを、それから彼が計画やカリキュラム、方法を実践していく。指導者は望むままに国を運営する。四年後、もう一度勘案する。(僕が民衆だとすると)自分や仕事や子供たちにこの四年間で何が起こったかよく知っているし、それが気に入っているならこの指導者をもう一度選び、そうでないなら変える。もちろん指導者は、僕の知らないことについて何が起こったのか説明する。あることがまだ上手くいっていなくても、彼の言葉が納得いくものであれば、まぁ良しとしよう、多めに見てまたチャンスをあげる。僕を騙そうとしていて、適当なことを言って黙らそうとしていると思ったら、選挙を待って、別の誰かを探す。
 僕は個人的には、議会というものにはそもそもなくなって欲しい。この考えは変ではあるのだけれど。なぜなら、議会での民衆の代表は、彼が農民なら医療に関することではお呼びじゃない。良い教育を受けていないのに教育の問題とか、知恵がないのに知恵を要する問題だとか。利害を混同し、公私混同されなように、選挙のお陰で借りができて取り戻す羽目にならないように、権力と金の間にはっきり線を引かせるために。金貸し議員とかギャンブル議員とか国費で病院に行く大臣などというのができないように、議会ではなくテレビで政治をやる議員などというのがいないように、怒鳴りつけられて拳をおろす議員がいないように。そいつらが皆んな民衆の代表を騙っているのだから。僕の言葉が気に入らなくて、誰もが選挙で上手くやり、僕らを代表する議員たちが皆純真で国の為に尽くし、学問もありそれを実現する意識もある、そんな方法を知っているなら教えて欲しい。僕たちの置かれているこんな社会状況の中で、知恵と真理を愛する者を当選させる方法を知っているなら、頼むから教えて欲しい。僕たちの現在のこの状況では、僕は正直、これを実現する実際的で合理的な方法というのは思いつかない。整っているように見える唯一の方法は、困難で遅く、とてもとても長い道のりなのだ。
 世界に成功している議会があるからといって、僕らも議会を持てば解決、という訳ではない。その代わり、僕は想像をぶちまけた。行政のすべての鍵は指導者の手にある。彼が、国のそれぞれの事柄について、助言してくれたり相談できる相手を選ぶ。これもまた、とても民主主義的なものになるかもしれない。指導者が彼専用の小さな議会を持っているのだ。諮問委員会に似ている。それぞれが専門を持った多くの議会があり、それぞれの問題について決定する(人民議会の委員会に似ているが、それの残りの議会がなくなったものだ)。この議会のメンバーは、僕には一国民としても選ぶことが出来ないし、議員にもなれない。そもそも僕は、誰が経済の天才で、誰が法律の大御所で、誰が健康保険を理解しているか知らない。だから、誰がどの件について語れるか分からない。しかし指導者には、専門家たちに通じる手段がある。そういう人々を探しだして助けを求めることには、指導者にとっても益がある。彼らが成功すれば、彼も成功するのだから。
 例えば政府が、憲法修正についての決断を下したいとする。どうして議員たちの意見を聞く。この議員たちが皆んな、憲法や法律についてご高説を賜れるのか。裁判官たちや憲法学者、法学博士たちの方がいい。彼らで憲法諮問委員会を組織する。通商について決定を下したいなら、経済学者の意見を聞く、とこういう具合だ。ここで意見を求められた人がことをよく理解していると分かっているのだから、彼らなら答えを持っているだろう、少なくとも答えを探せるだろう、と安心できる。
 この場合、確かに民衆には議員を選ぶ権力はない。しかし指導者を選ぶ権力は持っている。これは民主主義ではないのか。これも民主主義だが、餅は餅屋の民主主義だ2
 ここでの尤もな問いはこうだ。この指導者は好き放題にできるのか。民衆を苦しめるんじゃないか。盗んだり揺すったりしないか。もちろん、そんなことはない。それではカオスだ。独裁だ。絶対権力、絶対腐敗だ。あらゆる方法を使って指導者を監視する唯一の機関が、司法だ。いずれにせよ、誰かを信じない訳にはいかない。僕個人としては、裁判官たちの良心に賭ける。国から完全に独立した司法に。司法は指導者を監視し、不正を禁じ、司法と指導者の間でのいかなる犯罪も阻む。指導者自身でも犯罪を犯せば裁かれ罰せられる。しかし何人も行政には介入できない、ただ指導者が、専門家たちによる諮問委員会を通じて許可しない限りは。もちろん司法は、政府のすべての責任者たち、すべての大臣、すべての人々を監視する。司法は憲法を司り法律を書き、それを守る。この正義を守る司法機関は、それ自体が内的な民主主義機関かもしれない。裁判官らは人々と国の間を裁く裁判官を選出しする。これも民主主義だ。しかし裁判官らの手による民主主義だ。
 では警察は。警察は司法に従属する。指導者は警察を持たない。指導者は行政の長であり、治安は司法の仕事だ。正邪は司法の仕事、法律とその適用は司法の仕事だ。つまり、指導者と政府による国を監視する公正にして思慮深き裁判官たちによる民主主義だ。
 戦争のような、将来に大きく影響する重大な決定については、裁判官らに提示されるかもしれない。民衆自身に問い尋ねるべきか決定するために(専門的であれ一般的であれ、国民投票にかける)。あるいは指導者と諮問委員会に任せるか。可能性は色々だ。
 司法とはいえ、ただ一つの機関にこれらの権力を預けることに危険はないのか。誰もが知る通り、この世に保証というものはないが、もし危険があるとしても、最小のシナリオで済むのでは、と思う。なぜなら第一に、腐敗を防ぐためにこそ司法と行政を分割した。第二に、いずれにせよ司法は毎日人々を裁くということに賭けた。そもそも正義は彼らの手にあるのだ。それなら全部預けてもいい。もし腐敗した裁判官がいても、残りの裁判官らが放ってはおくまい。誰も彼を守りはしない。
 これで全部終わりだ。これは僕が個人的に考えたことで、書きながら考えたのだ、とやっと言わせてもらおう。この世にタダのものはなく、あらゆるものに代価がある。偉大なことを成し遂げるのに簡単な方法はない。こと未来については、魔法の言葉などない。言葉が食べさせてくれる訳でもない。あなたにとって良いものが僕にとっても良いとは限らない。だからといって、僕にとって良くないものが悪いという訳ではない。それぞれの問題に百万の解決法がある。ちょっと下品だが、「ビビってたら子供は作れない」だ。結婚している場合の話だが。
 僕は皆さんと同様、どんな形であれ民主主義を待たざるを得ない。例え百万の短所があると思っても、僕にそれを正す能力がないとしても。そこに達するのに長い年月がかかるのだとしても。なぜなら、それが唯一の解決なのだから。前に言ったように、僕は想像をぶちまけた。これがまったく正直なところの僕であり、どうすることもできない。皆さんも、もしこういうことをやっていなかったら、是非やってみてスッキリしたらいい。少なくとも、時には。想像をぶちまけるということには、沢山益があるものだ。

  1. ル・アリィリキ リァル・・アリウ 「馬を結びつけておくところ」で「要点、つまるところ」を意味するが、ここでは洒落て「結び目ならぬ馬そのもの」としている []
  2. リィリェリッル言 リァル・ケル韓エ ル・・ョリィリァリイ 「エーシ(エジプトのパン)をパン屋に」という「餅は餅屋」という意味の諺だが、この諺は文字通りに読むと、パンをパン屋に持っていく、とも読めるので、筆者がその奇妙なことを指摘している一文があるが、翻訳では省略した []

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