思うに、エジプトとアラブ世界すべてで等しく、奇妙なことを簡単に目にすることができる。第三世界全般でかもしれない。互いによく分かっておらず、誰に喋っているのか正確に分かっておらず、誰と関わっているのか正確に分かっておらず、何もかも正確でなく、正確なことが何もない。
例えば、誰もが運転の仕方について罵っている。それなら、誰が酷い運転をしているのだろう、皆さん。誰もが手抜き仕事に文句を行っているが、それなら誰が手抜きしているのか。道がゴミだらけだと皆が文句を言うが、それなら誰がゴミを捨てているのか。
考え方にしてもそうだ。人々は皆、「誰も人の話を聞かない」と言う。皆が「誰も変わろうとしない」と言う。皆が自己中心主義や事なかれ主義1や悲観主義を批判する。それなら誰が、そうしたことを行っているのか。「これこれこんな訳で、僕は自己中心主義なんだ」という具合に、自分が自己中心的であることを分かっていて、その理由も理解している人に、お目にかかってみたいものだ。「こういう訳で、僕は正しくない国民であることを選んだんだ」というなら、なぜそうしたのか、という哲学が彼にはある。「僕は運転がダメなんだ」あるいは「こういう訳で、僕はメチャクチャな運転をすることに決めたんだ」というなら、彼は分かっているし、わたしたちも皆分かるようになるだろう。少なくとも、チャンスはある。欠点を直すチャンスが。
もちろん正確な率は知らないが、かなりの率の中東の男たちは、一人の女を愛したいが、その前に誰かを愛した女とは結婚したがらない。どうしてこれが可能だろうか。どこから娘たちを連れてくるのか。畑で育てでもするのか。彼は恋をするが、姉妹には許さない。結構、それなら、あなたの姉妹と、あなたが自分に愛することを許した娘と、その違いは何なのだ。理解しがたい。
この世の多くの人々が、他の人々とマッチするよう望んでいる。人が見るように服を来て、人が求めるように話し、果ては人の好みに合うよう食べる。人が期待するように、許容するように、振舞うのだ。
誰かが、人を無視する権利について尋ねたなら、もし望まないなら、人に合うようにする必要は全くない、と答える。だが、自分自身に合うようにしなければならない。ただ自分だけに合うようにすれば、素晴らしくなろう。もしあなたが醜くても、その時、その醜さはあなた自身のものになる。素晴らしき醜さとなろう。
- リ」ル・ァル・ァル・韓ゥ 「俺に何の関係がある」を意味するリ」ル・ァ ル・ァル・鰍ニいう口語表現を抽象名詞化したもの。「関係ないね主義」のようなニュアンス [↩]