中国の素晴らしく聡明で天才的な諺にこういうものがある。「知恵の始まりは正しく名付けることである」。
この言葉にはいつも考えさせられる。知恵はそれを正しく名付けることから始まる。それを知り、扱っているそれがズバリ何なのか理解するために。一人のムスリム(あるいは十五億のムスリムでも)について語りながら、イスラームを語っているつもりにならないように。一人の外国人のことを考えながら「西洋」を語らないように。相対的で変わりゆくものを扱いながら、それを変わらぬ真理と考えないように。公と私の区別を知り、聖なるものと簡単に代わりのきくものの区別を知るように。自分がそうあって欲しいことと、そうあるべきことを区別する線を知るために。有益なことと好きなことの区別を知り、意見と感情の区別を知り、本物と偽物の区別を知るために。あるいは価値と値段の区別を知るためにも。正しく名付けることで、他にも多くのこうした素晴らしい利点に達することができる。
これらがすべて知恵の始まりだとしたら、始まりの後には何があるのだろう? この問いについて考えないでいられない(別に知恵者を自称する訳ではない)。もしすべてに正しい名を与えられたら、その続きはどうなるのだろう? どちらに向かうのだろう?
必要なもの、大事なもの、美しいもの、有害なもの、馬鹿げたもの、些細なもの、多くの性質を有するもの、それらをすべて名付けたら、それをよく見るために、皮をむいてみるのではないかと思う。それをあるがままに見るために。ある考えをそれが来た方に戻し、その使われ方や、使われ方に対する感情から離れて、考えを評価する。そうすればある人を好いているのか信じているのか、その人の考えが好きなのか方法が好きなのか、その個人的な形が嫌いなのか彼自身が嫌いなのか、あるいはその人が象徴しているものが嫌いなのか、知ることができる。本当にエジプトが好きなのか、好きではないのか、好きなのは国民としてか、場所として好きなのか。物事を名づけ、それらを区別できるようになったら、僕は自分の考えを本当に信じているのか、それともその形が気に入っているのか、知ることができる。僕は僕自身に相応しいのか、あるいは他のことを言ったりやったりすべきなのか、知ることができる。僕自身を知ることができる。
僕の個人的な考えを評価すれば、それが特別なものなのか知る。自分とは違う人々の考えを理解しようとすることができる。それらの考えが、その考えのままに自分の中に入ってくることを許すことができ、違う人々の考えを本当に見ることができる。ただ聞くのではなく、理解するのだ。これは、その考えについて考えているその人の場に自分を置くことができるからかもしれない。彼がそのように理解しているのはなぜなのか、どのようにしてなのかを、理解しようとするからかもしれない。人の言っている意見を口にするのは簡単なことだが、その考えを否定しながら、同時によく考え理解するというのは簡単ではない。考えを右から左に投げてよこすほど簡単なことはない。口で言っているだけだ。しかし、他人の異なる考えを「理解する」のは、一定の知恵に達していなければ能わぬことに見える。
こうしたことが起きたら(もし起きれば)、人は知恵を探し始め、非常に狭い範囲でなければ、唯一の真理とか絶対の真理などというものはないと納得する(たとえば人々の権利、祖国への純真、尊厳の庇護など。ただこれはもちろん、女性が処女でいなければいけないとか夫を尊重するとかいったことよりずっと深い意味でだ)。こうしたことは、地上のすべての場所のすべての人々において、相違のないものだろう。しかしこの範囲を越えれば、正しいことにも間違ったところがあり、間違いにももちろん正しいところがある。
この真理に人が気づいた時、自分の持っている考えというのは(本当にそれを持っているなら)総て変わり得る、ということを理解する。時とともに変わるのであれ、新しくなるのであれ。なぜなら彼は、多くの人がしているように、その考えに鍵をかけて鍵を投げ捨ててしまったりはしていないからだ。ここにある違いというのは、生きて目覚めた考え、よく考え知り見た後に形を新たにする考え、動いて元々の場所とは違うところに達することのできる考えと、死んでミイラ化し化石化し博物館行きになり、頑迷と固執と傲慢故に、たとえ最初は正しかったとしても価値を失ってしまった考えとの違いだ。
知恵の果てというものは、まったく僕の考えているだけだが、「寛大さ」と言われるものになると思う。考えとその主に対する寛大さ。その過ちを含めての寛大さ。寛大さがなければ、間違いなく知恵もない。なぜなら、寛大さがなければ、聞き理解し、他人の場に身をおいてみるということができないからだ。寛大さがなければ、間違いなく真理は遠い。寛大さがなければ、近視眼的で愚かなままだ。寛大さがなければ、砂上の楼閣を築くだけだ。寛大さがなければ、知恵が生きることはない。
知恵というのは、その果てにおいて、あらゆる異なるものを受け入れ認めるものに見える。総ての人が見るがままに見ることを可能にし、違いと共にその存在を受け入れさせ、同時にそれについて考えることができる。そして「真理の一部」を手にすることができるかもしれない。
もちろん、知恵の高い段階に達するには才能が必要だ。これは、すべての人々が本能や自然や以前からの見方によって眺めているものを、異なった視点で見る能力だ。才能があり条件が満たされた上で、大変な努力があり、魂は本当に広く煌めく。知恵は贈り物のように与えられ、すべてのものをその本当の大きさで見られるようにする。客観的知性的な仕方で批判する考えがあっても、これに敵対するのではなく、感情と意見を別に持つ。味方をしてくれるどんな考えにも従うのではなく、その後ろをただ付き従うのではなく、手を携え共に歩く。出来る時にはその考えを変え、必要な時には変化を許す。
はっきりとした形ですべてのものの名、その本性、状況、世界におけるその位置、周りのものとの関係を見ることができれば、自分自身をその本当の場、本当の大きさ、本当の価値をもって見られる。そうすれば、その真の役割、真のもk的、真の目指すところを理解する。
まだとてもとても大事な問いに答えていない。そもそもなぜこの大騒ぎすべてが必要なのか? なぜ知恵が必要なのか? 何のために? まだまだだ。こんな哲学は、やることのない暇人のためのもので、僕たちがそれでどうするというのか?
すべてではないにせよ多くの人々が、教育こそが諸問題の唯一の解決だと考えている。なぜなら、簡単に言って、良い教育を受ければ良い選択ができるようになるからだ。学があり、啓蒙されているのだから。
僕もまた学問とその消えることなき重要性を信じているが、学問それ自体すら、哲学がなければ、ただますますの学問、ますますの建築、ますますの知識という以外は手に入れられないと考えている。しかし人間の真の進歩は、哲学と学問が混ざり合い、結婚し、健やかな子らを産み、よく見、よく聞き、よく理解し、よく感じない限り不可能だ。ただ行うだけではなく、行ったことの影響を評価し、やったことについて考えることだ。
加えて、学問というのは時間のかかるものだ。学校や大学がなければいけないし、教育を望む世代、教育の可能な世代がなければならず、学ぶものたちに機会がなければならない。お金が要るし、国はこれに心を砕かなければならないし、それができなければならない。必要なことが沢山ある。
しかし哲学という面から見れば、それが社会の中に生まれ、そこに生きる人々の種類を向上させるのに、これらすべてが必要という訳ではない。求められている哲学とは、すべての人々に可能なものだ。少し考え、少し黙考し、少しの人間性、少しだけ鏡を見ること、行ったことを少し評価すること、その周りのものや人に対する影響を少し理解しようとすること。少しの理解、これはすべての人間知性に可能なことだと思う。適切な状況があれば。
人間は簡単に、日々の生活の中に閉じ込められる。実際この世は過酷なものだ。運の良い人達がいて、辛さを感じないとしても、この世が娯楽となる。学問すらも学者を虜囚とするし、宗教もまた人々を虜囚とするかもしれない。人々の種類や生活や状況という違いはあっても、皆が何かから目を離せなくなっていて、他のものを見ていないのだ。そして一つのものしか見ていなかったら、決して知恵にたどり着くことはない。
知恵がなければ、例え小器用でも人間は愚かなままだし、小賢しくても愚昧だ。愚かな人々に喝采を浴びてもやはり愚かだ。
学問によって人間はいろいろなものを発明できる。しかし哲学によって人間は何を発明するのだろう。学問は人間に筋肉をもたらすが、哲学はいかにその筋肉を使うか、何に使うかを教える。学問は街は塔、橋や工場や研究上を作るが、哲学は公正と正義と善を実現する。
学問は確かに無知を啓蒙する。しかし醜悪や狂信、頑迷や貪欲や利己主義や無関心についてはどうすることもできない。しかし哲学にはできる。
ちょっとお喋りすると知識が得られるがお喋りしすぎると大変なことになる、ということが言いたいのではない1。言いたいのは、哲学はそもそも真の成功の機会をつくる、ということだ。なぜなら哲学により、本当に周りのことや、自分の周りの世界について考えるようになるからだ。それを見るようにさせるのだ。
残念ながら、哲学は宗教とは関係ないと思っている人たちがいる。だが世界と歴史は、哲学なしの宗教がいかに無知となり、視野を狭め蒙昧に陥っていったか、という例に満ち溢れている。宗教自身すら、哲学を必要としているのだ。理解することが望まれているのだから。哲学なしでも礼拝し斎戒することはできるが、礼拝したり斎戒したりしている時に自分が何をしているのかを理解することはできない。宗教の命令に従うことはできるが、道徳を備えることはできない。髭をはやしヒガーブを被ることはできるし、宗教的なことを子供のように繰り返せば見た目は良いかもしれないが、文明性を備えることは決してできない。
哲学こそが世界を築いたのであり、哲学こそが社会と政府と帝国と共同体を築き、哲学こそが法律と憲法と諸国家を作り、哲学によってこそ人は公正を求め、哲学によってこそ人は道徳を求めた。さらにまた、哲学を用いてこそ、神そのものを求めた。哲学こそが未来への道を導いた。哲学の欠如は滅亡へと至る。もしロボットが僕たちの変わりに暮らしていたら、僕たちよりもよく築き多く発見し、僕たちにできないことができただろう。だが思うに、哲学こそが人間が地上に真に生み出したものだ。それなしでは決して至りつくことができない。礎石なしで、いかにして生や魂の価値を測るというのか。
これは皆さんに、哲学に注意を払うよう呼びかけているのだ。哲学を学び、読み、考え、分析し、議論し、熟考し、強靭で自由な本当の意見を構築しようとし、知恵の一端に達することへと。哲学こそが、正しいことに至る唯一の道だと僕は考えている。それだけが、自身の場所を知る唯一の手段なのだから。
哲学なしに知恵はなく、そして知恵がない、あるいはわずかしかないなら、ヒトは単に他の動物より少し賢いだけの生き物だろう。人間になることはできない。
- ル・・ウル・ゥ哲学とル・・・ウお喋りするという単語でかけている [↩]