祖国を愛さなければならないと、誰もが信じているのが、どうしてなのか分からない。どうして祖国だけを愛するのか。祖国を愛し、その隣の国を愛し、そのまた隣の国も愛し、世界すべてを愛したら、どうなるというのだ。
そもそも、祖国というのは何なのだろう? 地図の上の点線のことだろうか? これは人間の作ったものだ。一つの国の民を互いに結びつけているのはなんなのだろう? 例えば歴史だろうか? この惑星のほとんどの住人は、人間はその源は一つだと考えている。アーダムとハウワーだ1。歴史の始まりの始まりに遡れば、一つの歴史しかない。一つの国の民を集めているものは、他になんだろうか。地理? それなら、なぜ地上全体が、地上の民の祖国にならないのか? もし敵が必要だというなら、宇宙人が別の人々になるだろう。彼らが敵だ。
他に何だろう? 例えば、一つの未来? 中国やインドやアメリカで多くの煤煙が上がり、南極のオゾン層に穴を開け、シベリアの氷がなくなり、オランダが沈む。株取引をする人がいて、月賦で買う人がいて、世界は現代史で最悪の経済危機に陥った。この通り、一つの運命ではないか。一つの未来だ。
国に向かう気持ちの裏には、政府がいるのかもしれない。これはすべて競争だ。人間は、その性質からして、他の人々と競争しているときに、一番努力し、一番自分を突き動かす。だがそれなら、人間の前に立ちはだかっている物事が沢山ある。互いや自分と競争するより、それらと競い合うこともできるではないか。時間との競争、自然との競争、オゾン、エイズ、癌、水不足、人口増加、森林の消滅、尽きるまで燃える石油、世界中にあふれる貧困、狂牛病、鳥インフルエンザ、豚インフルエンザ、それら全部か、次から次へか。始終そういう競争があるではないか。競争相手は、この通り沢山いる。加えて、そもそも、自分自身との競争がある。多く知り、多く理解し、問題を解決できるようにし、より良い暮らしをするのに。適意と憎悪に溢れた誇りなき競争に何の必要があろう。
例えば紅海の魚が運河を越えて地中海に行って、そこの魚に会ったら、ここに何しに来たんだ、と言われるのか。そう言っているわたしたちは、どうしたわけか。
ケニアの象や犀は、自分たちがケニアのものとは知らない。自分たちが象で、そこが生きている大地だ、とそれを知っているだけだ。
わたしは狂ったりしているわけではない。今のところは。人間が魚や象や犀よりずっと複雑な動物で、違う論理の感覚を備えており、より競争を好み、より大きなことを扱っている、ということは分かっている。それでもやはり、この考えが頭の中で響き、筋が通っているように思うのだ。
すべての地上の住人が、地上すべてが自らの祖国と考え、世界すべてを愛し、世界全体に属し、世界全体のために怒るとしたら、何が起こるのか? すべての人間は一つだと本当に考えたら、どうなるのか? すぐにでもより幸せになるのではないか?
誰にも分からないが、そういうことがいつか本当に起こるかもしれない。もしこの本がその時にまだあり、人々がアラビア語をまだ話していて、エジプト方言を知っていたら、こう言わせてもらおう。君たち、随分遅れて来たものだね。
- アダムとイブ [↩]