「コミュニケーション」のための言語という(アングロサクソン的な)茶番に付き合えるのは、言語がモノに張り付いているような幻想に深く参画している場合だけで、すなわち、母語に対し正確に去勢されている場合のみだ。つまり、母語において無理やりに作り出された解れに対し、自らの<存在>を投じ同一化を果たしていないといけない。
母語とは文字通り母-語、mother tongueであり、<おかあさん>とその他者の関係に、演者としてではなく物質として加わることが、言語経済に平伏し参画する定常発達者の作法である。
そうでない者にとって、母-語における「メッセージ」の交換は、端的に可能的な嘘が飛び交う風景でしかない。だから彼彼女らは、常にメタメッセージのみを受領しようとし、なおかつメタメッセージは常に象徴の網の目に補足され切らない。だから外部の神を信じるか、あるいは世界全体が「敵」となる。
あるいは、<おかあさん>そのものを丸ごと拒絶することもできる。すると言語そのものを受け入れないのかというと、実際このような人々は「言葉が遅れ」ることが多いが、母-語以外にも言語はある。「母ならぬ言語」を、時に複数操作することで、<おかあさん>に(張り子に身をやつして)取り込まれることなく、反撃・回避・関係することができる。
<おかあさん>と「母ならぬ言語」は決してパラレルな関係にはならない。メタ言語はない。だから<おかあさん>における神、あるいは神として機能する何か(世間でも山河でも!)と、「母ならぬ言語」における神も同等ではない。<おかあさん>の神は、ある意味、「コミュニケーション」の奴隷であり、わたしたちがそれとして取り出すことのない法を司り、不可視のまま潤滑油のように機能する。一方で「母ならぬ言語」の神とは<おかあさん>の拒絶、または排除であるが(両者は同一ではない)、必ずしもナイーヴな敵対を意味するわけではなく、自身を人身御供とすることのない言語を通じて「嘘のないコミュニケーション」を図ろうという方策でもある。それゆえに治癒の一過程と言うこともできるだろう。
<おかあさん>を排除したとしても、「母ならぬ言語」を経由することで、母-語の内部における神との合わせ鏡的な袋小路を脱する可能性がある。母-語の神は回答し婢として迎え入れるか、世界全体として裏切るか、の二者択一しかないし、なおかつ、神は回答しない。早晩、「早発性痴呆」へと行き止まる。
ある種の人々にとって、「母ならぬ言語」が様々な局面で隘路を切り抜ける大きな助けとなってきたことは間違いないだろう。もっと言えば、それは単に遠い言語ではなく、死んだ言語でもあり得る。そしてもちろん、死んだ言語にも神はいる。逆説的にも、死んだ言語の神だけが、生きて機能し、共同体を越え、<おかあさん>に食いつくされることからわたしたちを救うのだ。
「母ならぬ言語」として、必ずしも外国語のようなものを想起する必要はない。例えば書記は、「母ならぬ言語」の最も穏当なヴァリアントだ。書記は常に死んだ言語であり、多くの時代において、数百年数千年前には死んだ言語だった。そのような言葉は、決して<おかあさん>ではない。それがあることで、人々は犠牲獣として<おかあさん>に捧げられる以外に、生きる道を見つけることができた。
やがて書記を<おかあさん>に近づけようという試みが起こり、神の言葉すら<おかあさん>の口を借りようという倒錯が始まったが、もちろん、いかなる時間的近接をもっても、死んだ言語が生き返ることはない。そこで今度は、死んだ言語を生きているかのように語るファンタジーが編まれた。言文一致がそれだが、表音文字という幻想も、これを下支えしている。これが偶像崇拝でなくて何だろうか(もちろん、特殊現代的な意味でより問題視すべき「偶像崇拝」は他にも色々あるが)。
このファンタジーを梃子としてさらに、世界言語的な「コミュニケーション」という物語が(グローバルに!)展開されつつあるが、これは死んだ言語の生きた神に対し、<おかあさん>が抵抗しているものだろう。そもそも、「母ならぬ言語」を経由したからといって、必ずしも<おかあさん>を害するものではないのだが、<おかあさん>は過度に外部を恐れているか、生み出したすべてを食い尽くしたいのかもしれない。もちろん、チャット的な書記使用という偶像崇拝が、この戦略の一翼を担っている。
彼らが理解していないのは、そもそも<おかあさん>に乗れなかった人々が、飛び交うメッセージにどれほどの恐怖を与えられてきたかだが、そもそも彼らは、ある意味メッセージをまともに被弾し既に死んでいるのだから、痛みなど感じないのである。定常発達とは、<おかあさん>に食われてゾンビとなることで、ゾンビはそれ以上死なないし痛みも感じない(死ぬのだろうか?)。
ゾンビたちがコミュニケーションを求めてくるが、彼らにメッセージの銃弾は効かない。そもそも、ゾンビとならなかった人々はメッセージをこそ恐れたのであり、銃など好まない。ここから逃れるのに、必ずしも「選ばれし者」(婢)となる必要はないし、またCIAが裏から支配する世界と戦う必要もない。「母ならぬ言語」は一つならずあり、まさに<おかあさん>の数だけある。たとえ世界が一つの<おかあさん>だけになったとしても、死んだ言語には事欠かない。その神は、ゾンビとならなかった人々を安らがせるだろうし、必要とあらば銃以上の力を与える。