好ましからざるものの開く未来

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新型コロナウイルス自体はもちろん好ましくないが、それへの対策として行われているものには、どこか好ましく見えるものもある。
少なくとも気候変動や大気汚染等、環境に関する問題は一時的に軽減されているであろうし、リモートワークの推奨も社会変革として望ましい面はある。また古典的な「道徳」(もちろん括弧付きの)により教えられてきた慎ましさや、無駄話への諌めなど、古くからの大衆的な教えに割合に合致する部分もある。
ここから「やはり昔のやり方が正しかった」と軽々に反動化するのはまた別の呪術思考であり非常に危険だが、わたしたちが「外の世界」に対して持つ適切な態度を探り当てる目安にはなる。「外の世界」に対する態度とは、ミーアキャットが穴から出てきてひょこっと背伸びするようなもので、見晴らしを得るためには立ち上がるが、ずっと立っていては目立って危険であるし、身動きも取れない。臆病な動物はすぐ穴に戻るし、大胆な動物は果敢に立ち上がる。調子に乗っていてはすぐ死ぬし、臆病すぎても生き残れない。そういう塩梅のことである。
新型コロナウイルスは「外の世界」であり、わたしたちが少し大胆になりすぎていたところで、高空から襲いかかってきた猛禽類のようなものかと思う。
それはまた、資本主義に対する外部であり、また象徴経済に対する外部でもある。
そのような外部があるからこそ資本主義も言語も成立するが、わたしたちはしばしば、外部をなきものとしてしまう。コンピュータの中のロジック自体は無時間的だが、実際の処理には時間がかかるし、電源が落ちれば計算もできない。有限で聴覚的・時間的なものから無限で視覚的・空間的なものへと組み替えていくのが、リスト・カテゴリ的、識字的で知的な思考であり(※1)、また精神分析における肛門的な吝嗇とも連なっているが、これを極めたところで外部それ自体が消滅するわけではない。ただ見えなくなるだけだ。
獰猛なる「見える化」と統計学的超自我、アルゴリズム化の誘惑で、露出狂化する世界、前提となる問いが問われないままパズルのように概念や事物が操作される自閉症スペクトラム近似的な世界について触れたが、そうした思考様式は、正に外部をなきものとするものだ。

たとえば「自由」について考えてみると、現代ではネオリベラリズムに代表されるように、人間が自由であることはもはや証明など不要な前提となっている。そこでは、もはや「自由とはそもそも何か」「自由は可能か」という根源的な問いは決して問い返されることがない。このような「手前の問い」が不在であるような風景は、自閉症圏、とくにアスペルガー症候群の臨床風景とよく似ていると鈴木は指摘する。(『享楽社会論』松本卓也)

こうしたのっぺりとしたパズル的な閉鎖空間は、ここ20年ほどで高度に完成されてきたものだろう。1989年のソ連崩壊を受け、日本ではおおよそ1995年という年が節目になっていると速水健朗などにより指摘されているが、麻原彰晃が逮捕され阪神大震災が起きたこの年には、携帯電話とインターネットという、現代の世界にとってなくてはならないものが既に一般の手の届くところに登場してきている。おおよそこれくらいの時期から、(共産圏という外部を打倒し)世界は閉じた系の中での合理性に向かって邁進してきたのではないかと思う。
そうして出来上がった世界とは、「比較優位」を追求し、ストックよりはフロー、ミニマリズムで絶え間なくグローバルな交換を回していくことが良しとされる世界である。この機械は順調に回っている時は最も「合理的」でスマートだが、一つ歯車が噛み合わなくなると一気に共倒れとなるリスクを孕む。モノカルチャーの持つ脆さにも似たそうした危険性が、知的理解以前に直観的にわかるから、少なからぬ人々の抵抗を呼び起こしもしてきたが、大きな流れを変えるには十分ではなかった。それが、新型コロナという「外部」の介入により、一気に変動している、変動し始めているようにも見える。
繰り返すが、ここでまたナイーヴに「やはり昔の教えは正しかった」と付和雷同に叫ぶだけでは、大胆になりすぎた動物のように外部を恐れず邁進する資本主義と同じ愚である。東日本大震災による津波に見舞われた際、「ここより先に家を作ってはならない」と伝えられた神社のところまで津波が来た、といった話が伝えられた。この「教え」は実際に正しかったのだろう。しかしその手の「教え」が例外なく正しいわけではない。そして重要なことに、「教え」の背後にあるものを知的に理解すれば良い、という、容易に想像される回答では済まされない。その背後にある知とは、しばしば「外部」と同じく手の届かないもので、そのすべてをわたしたちが了解することはできないのだ。自然はわたしたちの知性よりも速く早い。
ではどうするのか、という問いに対する端的な答えは、もちろんない。最初に記した通り、簡単に言ってしまえば「塩梅」でしかない。軽くジャブを出して距離を測るしかない。むしろ簡単な答えのなさ自体に希望がある。それは、一つの知によっては捉えきれない世界の実相、真の細部が、無数の人々の営為により少しずつ時間をかけてとらえられていく、その営みの総体、ほとんど「自然の答え」のような全体が、答えであるということだ。わたしたち個々人はその全体を知り得ない。知り得ない巨大な何かがそこにはある、という敬意をもった留保だけが、わたしたちをかろうじて生きながらえさせるだろう。
最後につまらない蛇足を付け加えれば、これこそ「呪術的」な勘として、おおよそ30年周期ほどで日本におけるパラダイム・シフトが起きている、という「教え」を自分は少し信じていて、上で記した1995年の前の1965年とはテレビの普及がほぼ完了した年で、つまりは皆が一つの番組を見るという戦後的な「国民的」一体感がおおよそ出来上がった年である。この直後、1968年は革命の年であり、この時代の若者の空気が、同時点ではまだ新しすぎた価値観が、その後の世界の標準として定着していく。階級的ではないカジュアルな大学、ベトナム反戦、反差別に続く大衆的なリベラリズム、個人主義的な価値観等がそれである。そして1995年の節目で、オルタナティヴ的な幻想が最終的に瓦解し、世界は「その他」を認めない閉じた系へと舵を切った。この調子で行くと、2025年くらいにまた節目が来るのだろう、とぼんやりと予想していたが、おそらくは今回の新型コロナが端緒となり、今後5年ほどで新たな世界の礎となるものが出来上がるのだろう。世代とは揺り戻しつつ反復するもので、おそらくはかつての米ソ対立のような、不安な多極性の時代がやってくるのだと予想している。現代リベラル層には「多様性」をオルタナティヴ的に持ち上げる向きがあるが、真に機能する「多様性」とは個々人のレベルにとっては決して心地良いものではない。居心地が悪く不安で一触即発な「多様性」こそが、総体としての複雑性を担保し、モノカルチャー的な脆さから人類全体を守るのではないか。ここでは、個々人の「自由」なるものだけを唯一の出発点とするリベラリズムは機能しなくなる。宗教的な不気味さ、ファシズム的な危うさと紙一重のものが、個々人の不安や憤りと一体となりながら、ヒトの未来を導くのではないかと考えている。

※1
カテゴリー的思考への固執、識字能力と思想変化の速度
『声の文化と文字の文化』ウォルター・J. オング
音読すべき聖典、カルトと識字能力



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