獰猛なる「見える化」と統計学的超自我、アルゴリズム化の誘惑

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 「目に見えない障害」を負った人がそれをわかるように提示する「ヘルプマーク」なるものがあるそうです。東京都の創案らしく、マタニティマークと同様、それによって「優先席に座る正当性」などを示すものらしいです。
 報道を見てまた暗澹たる気分になりました。
 念のためにおことわりしておけば、こうしたアイデアが悪意から来るなどとは全く思っていませんし、また実際的にポジティヴな効果をもたらす可能性も否定しません。総じて見てプラスなのかマイナスなのかは知りませんが、多少なりとも「良い」結果のいくらかくらい見せてくれるのでしょう。
 うんざりするのは、こうしてなにもかも「わかる」形で示させなければ気が済まなくなってきた世界に対してです。
 わかる形で見せる、可視化が無闇に称揚されることは、わからないものに対する無神経さと裏腹であり、またきちんと示さなければ自己責任、ということとも表裏一体なわけですが、より大きく言えば、見えないものは存在しないとでも言うかのように何もかも見える形にしなければ収まらず、なおかつ誰もが衒いもなく己の享楽をさらけ出し喧伝する、露出狂的世界に恐怖しているのです。隈なく照明と監視カメラが覆い、そこに映らないものは存在そのものを否定される世界にげっそりしているのです。
 障害を「見える化」する流れというのは、おそらくはスティグマの解除という思想の延長線上にあるものであり、ある種、リベラリズム的善意の帰結とも言えるでしょう。かつてであれば「恥ずかしい」「隠すべき」ものであったのが、「何ら恥じるところはない」「堂々と示して良い」ものへと、汚点を取り払われたわけです。これはこれで、大変結構なことではあります。「恥じらい」とスティグマによる家父長制的支配の解体という意味では、少なくとも左派的視点から言えば歓迎すべき事態かもわかりません。
 しかしこうして様々なものを明るみに出した結果、そこで見えるようになったものは多々ある一方、何か決定的なものが見えなくなっているようにも感じられます。そしてここで見えなくなったものは、もう本当に見えないもの、存在そのものを消し去られたもの、「抑圧という意味でも何も知ろうとしない」排除の対象となっているのです。見えないという前提、見えないというお約束の元、見通しの悪い形で社会の様々なところで機能する、というのではなく(裏稼業的!)、そこが世界そのものの臨界点になってしまう、ということです。
 たとえば優先席の問題で言うなら、優先席を老人や障害者に譲る、という「ルール」はあるにせよ、そのルールは少しでも違反すれば懲罰の対象となるといった種類のものではなく、あくまでおおよその指針としてあり、肝要なのは「弱い者に席を譲る」という、ただそれだけの精神性というか、心掛けのようなものであったはずです。それが一旦ルール化することで、どういうわけか「弱者」と「それ以外」の峻別を迫られることになり、座るなら座るで自らが「ふさわしい弱者」たることを検証可能な形で堂々と示さなければいけなくなる。そうでない場合は「ルール違反」(コンプライアンス違反!)になる、という、アルゴリズム化の欲望が透けて見えるのです(だから少なからぬ人々が「弱者の証し」を誰にでも見える形で高く掲げようとするし、「障害のカミングアウト」が称揚される)。
 アルゴリズムは逡巡しません。欲望は宙吊りにされず、果てしなく供給させる消費財によって絶え間なく即時的に満たされ、欠如を埋め合わせた享楽の状態が見る者すべてに対して積極的にアピールされることになります。SNSで「幸せな生活」を振りまくことなどが好例でしょう。「わたしは幸せです!」と「わたしは配慮されるに値する弱者です!」は等価なのです。
 その反転したものが、「十分な弱者券」を配布されなかった白人男性中間層などの鬱憤であり、レイシズム的手法で誇りを取り戻そうとする人々のやり場のない苛立ちでしょう。この人々もまた、排除の論理を振りかざすのでなければ、たとえば「弱者男性」のような形で「我々にも弱者券を!」とアピールするしかないのが、同じ露出世界の生み出した陰画に過ぎないことの証左であります。
 「幸せ券」と「弱者券」に人々が群がるのは、非人称化・非属人化された統計的「真理」が猛威を振るい、あたかもこれが物理法則であるかのように残忍に人々を支配しているからです。
 松本卓也はこうした世界を「現代では、もはや象徴界の論理や不在の<父>の存在を信じることそれ自体が不要となり、その代わりに享楽の「露出」と獰猛な超自我の命令が支配する時代が到来しているのである」と描写しています。

フロイトは、人間のセクシュアリティや欲望や症状は、幼児期の性欲がインセストのタブーによって断念された結果として生み出される欠如を通じて成立すると考えていた。つまり、欲望や症状を含む広義の性生活は、文明が私たちに強いる欠如の関数として生じるのである。しかし、このような欠如の論理は、現代では無効化されつつある。立木(2013)によれば、欠如によって規定されるセクシュアリティの代わりに現代に登場したのは、享楽の「露出」である。たとえば、いまや誰もが、手軽なSNSサービスのなかで自らの心情を吐露し、隠しておくべき内密な事柄をいとも簡単に外部に露出させている。

このような時代にあっては、ひとは症状や文化を究極的に決定づける象徴界の法に従う必要がない。すると、一切の禁止を知らない、自体愛的な享楽人間がこの世を自由に謳歌することになるのだろうか? そう単純にはことは進まない。かつてのような象徴界の<法>が無効化されたとしても、それでも社会は秩序を維持しようとするだろう。その際に、<父の名>の代わりに秩序維持装置として働くのが、獰猛な超自我であり、その現実的なアヴァターとしての統計学的管理である。

現代とは、いわば存在しない<父>への信頼を前提とした包摂のシステムをご破算にし、全員を日常的な排除のシステムのなかに位置づける時代にほかならない。

 統計学的超自我が残忍に支配する世界とは、DSM的な思想、「見えるものしか見ようとしない」透明性が猛威を振るう世界であり、主体という契機(主体の入り込む隙間、ですがその隙間=時間差自体が主体である)を失った世界でもあります。

ゼロ年代以降、世界は自閉症化(発達障害化)しているのではないかという時代診断が、幾人かの精神病理学者によって唱えられてきたのである。たとえば内海健(2012)は、現代の心的システムを、在る種の自閉症者にもみられるような「リアルなものの裏打ちを失った合理性」として考えている。それは単なるデータベースに従った計算機としての合理性であって、そこには決断の契機がなく、近代的な意味での自己がうまく形成されていないというのである。
また鈴木國文(2011)は、2000年代後半の言説が、「たしかに正しいのだけれども、何かがおかしい」「その言説が可能になる「手前の問い」が問われないままに言説が流通する」という特徴をもっていることを指摘している。たとえば「自由」について考えてみると、現代ではネオリベラリズムに代表されるように、人間が自由であることはもはや証明など不要な前提となっている。そこでは、もはや「自由とはそもそも何か」「自由は可能か」という根源的な問いは決して問い返されることがない。このような「手前の問い」が不在であるような風景は、自閉症圏、とくにアスペルガー症候群の臨床風景とよく似ていると鈴木は指摘する。

 当然ながら、松本もことわっている通り、自閉症やアスペルガー症候群自体は決して否定的な意味での「障害」ではありませんが、社会全体が「手前の問い」を不問とし、統計学的帰結やアルゴリズムを絶対の真理であるかのように扱い、その外部を「見ようともしない」のだとしたら、それは前近代的な抑圧構造を取り払って得られた利得以上の何かを失っていることにはならないでしょうか。
 このような精神性をわたしは、「だってそうでしょ」というフレーズにしばしば見出します。「だってそうじゃないですか」「だってそうだもん」という文句が、時折会話の中で顔を出します。このフレーズは単なるトートロジーというか、内容として何も言っていないのですが、何らかの事実と見なされているもの、そのもの自体の前提を問おうとした時、「そこから先はありませんよ」「それは定義の問題ですから」と塞ぐ言葉なのです。「だってそうでしょ」で囲われた箱庭の内部だけでルールに従ってゲームを進めましょう、それ以外はナシです、そこから先は存在しません、という心性が、広く人々の間に染み付いていっているように感じます。
 言うまでもなくわたしたちは、ルールや秩序の内側で生きているわけで、これらの枠組みがどうでもいい、いつでも解体して良い、などということはありません。しかし秩序はわたしたちが生きるために作り出されたものであって、物理法則でもなければ岩か大地のように最初からそこにあるものでもありません。常に前提に立ち返り問い直されることがなければ、秩序は秩序を越えて支配者となり、かえってわたしたちの生を脅かす存在となるではないでしょうか。
 重要なことに、この秩序の暴走、統計学的超自我の猛威を少なからぬ人々が薄々感じていて、息苦しさに悩んでいるにも関わらず、誰一人としてこれに抗うことができない、抗おうともしないのです(鬱憤を晴らすとしたら、同様の排除の論理を外に向けて、たとえばレイシズムのような形で発散する)。人々は「知らない」から支配されているのではありません。誰かに騙されているわけでも、一方的に搾取されているのでもありません。知っているにも関わらず知らないかのように振る舞う、「世の中はそういうものだから」というシニシズムこそが、新たなイデオロギー支配の構造となっているのです。
 これに対し、デモをしろとか声をあげろとか、言うわけではありませんし、おそらく大文字のイデオロギーや固定化された名をただただ叩くやり方では釈迦の掌にしかならないでしょう。ルールに対しルールの修正やら新たなルールを提示するのでは、結局アルゴリズム化の誘惑には抗せないのです。
 ではどうするのか、などと問われるとそれこそシニカルな気分にもなりそうになるのですが、松本卓也は『享楽社会論』の最後で「ポスト基礎付け主義」というオリヴァー・マーチャートや山本圭の視点を取り上げています。

「ポスト基礎付け主義」は、社会や政治の基礎付けを無批判に前提としているわけではない。その点において、「ポスト基礎付け主義」は基礎付けの不在を認めている。だが、「ポスト基礎付け主義」は、その基礎付けの不在という事実に居直るのではなく、むしろ基礎付けの不在という事実を、社会がなんらかの基礎を必要としており、さらにはその基礎は最終的なものではなく、堅固さをもたない暫定的な基礎であることを意味するものとして捉えるのである。

 こういうものを、大昔に「暫定性一般」というワードで呼んでいたのですが、常に問い直されるもの、という主体の契機をわたしたちは手放してはいけないのではないでしょうか。このアルゴリズム化した世界で、執拗に問い直す主体は病的で滑稽なものとも映るわけですが、「恥じらい」を捨てられない主体は、笑われることできちんと恥をかき、露出狂的に「おいしい」思いをすることもなく、身悶え語り続ける倫理的責務を帯びているようにも考えています。


享楽社会論: 現代ラカン派の展開



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