ある手紙について

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 今日、フェイスブックでこんなメッセージを受け取った。

 わたしはパレスチナのガザに住んでいるハニーンと言います。何日か前に本屋さんで、地下トンネルがガザで不足している唯一のものを遂に思い出してくれたのに気づきました。本です。わたしに不足している、ということかもしれません。もう電子文書を読むのに飽き飽きしていたんです。当然のことながら、わたしの魂には禁じられている本の血を飲む権利が、わたしにもあります。
 あなたの「名前のない本」を手に取ったのは、素晴らしい偶然でした。テレビで見てとても気に入っていたその人が、本屋さんにやってきたのですから。素晴らしい一歩です。かつてわたしは、行動においては制限付きの自由、思想においては制限なき全くの自由、という女でありたかったのですが、ここガザでは、もし女性が冒険的で自由で文学的なものを書いたら、一番良くても組織に粛清されることになります。出すぎた真似をしたと思われるのです。わたしは本当にそう思われています。あなたに祝福を。(これが初めてアーミーヤで書いた手紙です)1
ハニーンより

 本当にこの手紙には、色々な形で影響され、様々なことを考えさせられた。その多くのもののうちいくつかは、以下のようなものだ。

その1:トンネルの本

 もちろん、僕の本だけがパレスチナに行った訳ではないのはわかっている。他の本と一緒だ。でも正直、僕の本の束が地面の下をくぐり、塀や鉄条網や検問を越えてエジプトからガザに渡ったことを考えると、心が震えるような気持ちになる。

その2:アーミーヤ

 僕はいつもアーミーヤで書いている。それには多くの理由があり、これについては様々な場面で説明しているが、もう一度考えをまとめてみたい。第一に、僕はエジプトのアーミーヤが心から愛している。これが僕の母語なのだ(僕の方言、ではない、言語だ。僕は本気でそう思っている)。第二に、その輝ける豊かさ。それから、この言語と心から結びついていて、完璧に使いこなせることが第三。そしてこれらすべてより大事なのが、これが「僕の」だという感覚だ。僕の感覚は、現代フスハーよりもアーミーヤによる書記に結びついている。そういう種類の書き言葉で僕は書いているし、読者も読んでいる。僕は、読者や視聴者により近くなりたい。そこにたどり着きたい。
 多くの人が、アーミーヤで書くという考えに罵声を浴びせる。別段、ひどいことやどうでもいいことを書いているわけでもないのに。アーミーヤで書くことが、フスハーの害になると考えているからだ。そのフスハーを守り、消えてなくならないよう次の世代へと受け渡すことに、僕は大いに心を砕いているのだけれど。僕はこの二つが矛盾するとはまったく考えていない。どうして書き言葉の形式を一つにしたのだろう。十通りあったっていいじゃないか。どうしてフスハーで人に訴えかけられる人が、

この両者が競合すると唱える人たちは、どうしてこれらが互いに補いあうものと見られないのだろう。それにアーミーヤにも段階があって、一つだけではない。例えば、三分の一をフスハーで、同じくらいアーミーヤで、と書くこともできる。しかし同時に、ラジオで「あのパーティーはマジで最高だった」とか「マジでやべー」とか言っているのを聞くと、僕はあんまり嬉しくない2。僕は単にアーミーヤの支持者なのではなく、これにこだわりを持っているのだ。肝心なのは、僕が言葉を届ける多くの人々に近いレベルの書き言葉を使うことと、丁寧なアーミーヤ書き言葉を使うことの間で、バランスを取ることだ。しかし僕が「バス」と言う代わりに「ファカット」と言ったとしても3、それは別にアラビア語を救うとか、その方が知的だからとか、そんな話ではない。単にその状況、文脈では、僕にとってそっちが適当だったというだけだ。あるいは、「バス」の方が豊かで色々な使い方ができ、音が気に入っているから、という理由でそちらを使いもするだろう。両者はいがみ合っている訳ではない。両方とも「僕の」だし、両方とも使う権利がある。
 加えて、エジプトのアーミーヤは僕の母国語で、僕の一部で、慣れている。もしこれが使えなかったら(例えば外国人と話すときなど)、大事なものが欠けてしまう。例えばバァリィルほ〟Aハーガリュリァリャリゥ、バルドゥリィリアリカル〟Aヤアニィル韓ケル・梶Aケダル・ッル〟Aビターアリィリェリァリケ。豆売りリィリェリァリケ リァル・・異пAアラビア語の先生リァル・・ッリアリウ リィリェリァリケ リァル・ケリアリィル梶Aこのこれリァル・ィリェリァリケ リッル〟Aこれのこれリァル・ィリェリァリケリゥ リィリェリァリケ ル・ーリァ、なんでそんなことしたいんだリケリァル韓イ ル・ッル蜀 リィリェリァリケ リァル館蜀 ル韓ケル・韓氈Aこれらがなかったらどうしたらいいんだ? レッサル・ウル№ネしでどうやりくりするんだ? まだちょっとル・ウル蜀 リエル異韓ゥ、終わったところル・ウル蜀 ル・ョル・オ、まだ行ってないル・ウル蜀 ル・ァリアリュリェリエ、またこれ全部やるわけ?ル・ウル蜀 リュリケル・關€ リッル蜀 ル・・蜀 リェリァル・韓歃r
 アーディーリケリァリッル鰍窿сAニィル韓ケル・鰍フような言葉といったら、何かあるだろうか。この二つについては、それの博士号を作ってもいいくらいだ。『なめらかな手』のハッターリュリェル奄フように4
 もう一度言うけれど、これは競合する問題じゃない。言語はそもそも伝達の道具で、道具がその持ち主に近くなればなるほど、その考えをより良くより明瞭に伝えることができる。フスハーもまた僕の道具で、それを使っているように。どんな道具にも、それぞれの時と使い方、仕事がある。
 こう語っているのは、もちろん、ハニーンが手紙で書いてきたことがあるからだ。彼女が手紙の最後で書いていたことだ。彼女は初めてアーミーヤで書き、語りかけてくれたのだ、僕のために。彼女は僕の本を読み、それより前から僕をテレビで見ていて、それが僕により近いと感じてくれたのだ。それで僕により近い形で手紙を書いてくれたのだ。なんて聡明で、感受性豊かなのだろう。彼女はパレスチナ人で、彼女のアーミーヤは僕のそれとは違う。でも両方のアーミーヤを一緒にして、僕の言葉により近い形で語りかけてくれたのだ。心を開き、こだわりを捨て、意味に気を払う。素晴らしいことだ。ハニーンを心から祝福したい。

その3:出る杭となること

 この件については、次のこと以上に何も言う気はない。つまり、考えそれを表現することを人々が恐れているような社会、他の人々と違ってしまうことを恐れているような社会(残念なことに、ほとんどのアラブ社会がそうだ)は、腐敗した不毛で実りない社会だ。耕せばガンとなり、子を産めば不具となる。このガンと不具からは、主の召された者しか逃れられない。そういう社会だ。

その4:何が「死に値する」だ

 この話の気のきいているところは、これほど簡単なものはない、ということだ。ある人が何か宗教的なこと、あるいは宗教に関係すること、あるいは宗教に関係していると思うこと、とにかくそういうことを話す。するとどうだろう。それを気に食わないヤツが、あらゆる手段を駆使して、不信仰だの主にすがるしかないだのと言い出す。それからどうなる。もしコイツに支持者だとか追従者だと支援者だとかがいると、そいつらのところに行って、これこれというものがこういうことを言っている、これは死に値する、とかぶちまける。その人を殺すのは良いことだ、というわけだ。なんだこれは。死に値するって、どういう話だ。死に値するなんてのは、誰かに攻撃されて身を守る時でもなければ、どこにも絶対ない。死の制裁なんて話がどこから出てきたんだ。イスラームの預言者は、ムスリムとユダヤ人と多神教徒たちの間で二十三年間暮らしていたのだ。そして生涯、誰も「死に値する」などとしなかった。アラビア半島で最強の軍隊を引き連れてマッカ入城し(そこでは人殺しほど簡単なことがなかったのだが)、まさに最大の解放劇だったのだが、彼やムスリムたちを呪ってきた不信仰者や多神教徒の捕虜たちに向かってこう言ったのだ。「汝らは自由なり、去るがよい」。天よりその偽善と嘘を暴く啓示のおりた偽善者たちについてすら、殺しはしなかった。同じ預言者の宗教と道に従うと称するものたちが、どういう了見で誰彼構わず「死に値する、不信仰を語るものを殺せ」などと言うのか。どうしてそれが、この宗教につながるのか。
 さらにおかしいことがある。そもそもこうした話の出所というのは、ムスリムの宗教を守る者たちがでっち上げた、とかいうのでは全然ない、ということだ。彼らがよりこの宗教に心を砕き、必死になっている、などというのでは全くない。この世のどんな宗教にも、その中のいくらか、神の名において気に食わない相手を殺したいヤツらがいる。しかし啓典宗教が下り、それを信じ従っていくなら、もうちょっと違ったものの見方ができても良いのではないか。
 しかし残念ながら、啓典宗教の信徒たち皆がそうなったわけではなかった。ムスリムにもキリスト教徒にもユダヤ教徒にも、その始まりから今日に至るまで、自分と信仰を異にする者たちを焼き滅ぼそうとする者たちがいた。宗教だけではない。宗派が違うとか、やり方が違うとか、どんなことでもだ。確かに現在では、実際にことを起このではなく、緊張状態が続く方が多くなったが、この世の歴史は殺戮に満ちている。そしてそれを犯すのは、人間性を踏みにじる犯罪者たちだけなのだ。酷いことに、それを神の名のもとに行う。彼らは剣や拷問道具や爆弾を片手にし、そしてもう片方に旗を掲げているのだ。
 これらの人々や、その他の「主を守る者」たちは、自分たちが選ばれし者だと思ってる。自分たちこそ真理を知り、防護壁となり真理を実現する勇敢な者なのだと。自分を地上におけるアッラーの言葉だと思っている。だが彼らの行いや態度は、尊く慈悲深く心広き神から一番遠いところにいることを証している。
 加えて、こういうことをした人々、している人々、これからしたいと思っている人々は、自分たちの信仰を疑う者たちを殺したいわけだが(大抵の場合、そもそも信仰についての正しい知識など持ちあわせていないのだが)、それで一体何を守るつもりなのだろう。これらの宗教はすべてアッラーのものではないのか。すべてはアッラーに帰するのだろう。するとアッラーを守るとでも言うのか。すべてを創造された神が、僕たちに守ってもらう必要があるとでも言うのか。
 なぜ主は、死は死をもって贖われるしかない、とされたと思っているのだろう。僕の思うに、人の命は命でしか贖えないからだ。それに値するものなど他に何もないのだ。人の命の価値が分からなくても、自分の命が心配なら、人を殺そうなどとは思わないだろう。だが「こいつは不信仰者だ、殺せ」というのはどこから来たのだ。どうなっているのだ。
 主はクルアーンで仰っている。{アッラーは、宗教上のことであなたがたに戦いを仕掛けたり、またあなたがたを家から追放しなかった者たちに親切を尽し、公正に待遇することを禁じられない}。ひどい事をしてきたヤツとか、気に食わない言葉を言うヤツとか、違うことを信じている者とか、あなたを嫌っている者とかではない。(そしてこの文脈で言えば)何か他の理由で戦いを仕掛けてきた者たちですらない。{宗教上のことであなたがたに戦いを仕掛けたり}、つまり宗教上の理由で戦いを挑んできたり、家から追いだそうとした者たちだ。アッラーは禁じられていない。宗教やその他のことで殺したり嫌がらせをしたりしてきた者でなければ、ただ彼らを受け入れるばかりでなく、尊重し親切にし、公正に扱うのだ。僕が言っているんじゃない、主が仰っているのだ。例の連中は、同じ宗教の名のもと、同じクルアーンのもと、同じ神のもとで、何を言っているのだ。
 ハニーン、君の血は他の者達の血と同様に尊い。たとえ嘘つきたちが何を言っても。

「もし誰かが、百の不信仰と一の信仰を含む言葉を語ったなら、信仰の方を受け止めなさい。不信仰を受け取ってはならない」
ムハンマド・アブドゥフ師
(『科学と文明の間のイスラーム』より)

  1. 原文はパレスチナのアーミーヤで書かれており、パレスチナ方言の単語がいくつか混ざっているが、大枠ではエジプト方言書記と大差ないため、訳文には特に反映していない []
  2. 若者言葉的なアーミーヤのことを言っている。リァル・ュル・・ゥ ル・ァル・ェ リュル・畏ゥ リ「リョリア リュリァリャリゥ、リュル・畏ゥ リキリュル陂€ []
  3. 両方共「しかし」という意味の接続詞だが、バスリィリウはアーミーヤ、ファカットル・ぺキはフスハー []
  4. 同映画作品の登場人物が、自分は「ハッター(~まで)」の博士号を持っていると嘘をつく場面がある []

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