テクニカラー

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 (ところでこのタイトルは、最後まで読まないと意図が分からないだろう1
 わたしたちはタイトルが大好きだ。簡単だから。なんて名前、それはいいね、なんて名前、そりゃダメだ。ファールーク王はこうだった、ガマール・アブドゥナーセルはこうだった、サーダートはこうだった、ムバーラクはこうだった、ハサン・ナスルッラーはこうだった、その他にも勿論沢山ある。
 タイトルは簡単だ。心地良いから。そのことを勉強しないでよいような気分になる。良いか悪いか、最低か最高か、それで話は終わり、というわけだ。まるで、言葉一つで大統領や王が果たした重要な役割が分かるかのようだ。これが歴史に書かれ、未来に影響し、その過ちの代償を人々に払わせたり、あるいはその統治の元で幸せにしたりするものなのに。
 勿論、こうした考え方には、際限のないほど沢山の問題がある。その最も重要なものは、人間は、こうしたタイトルのつけ方に慣れてしまうと、考え方一般に影響し、原因ではなく結果を求め、本当の姿ではなく印象だけを受け取り、物事を外面だけから見るようになる、ということだ。これはあらゆる物の考え方や問題解決能力、気に食わないことに対する批判能力に影響する。最も危険なのは、未来を予測し備える能力への影響だ。簡単に言って、勉強しなくなるから。タイトルしか読まないのだ。こうしてある種の近視眼に至るが、残念ながら、これにかけるメガネはない。
 本当のところ、まったく個人的な考えだが、すべてのことは、二度三度、あるいは十度でも考える必要がある。タイトルではまったくダメだ。タイトルはおおよその印象を与えるだけで、これはすべての詳細に一致するものではないからだ。客観的に見て、タイトルでは役に立たない。それより多くのものがあるに違いないのだ。
 加えて、タイトルというものは、物事の相対性というものを目に入れないと、非常に有害なものになる。この世のほとんどすべてのものは、相対的だ。例えば、もしある人をただ殺したら、殺人者だ。しかし戦争で殺せば、英雄になる。もしこの戦争が、そもそも名誉ある戦争でなかったら? 例えば国が他の国を正当性なく侵略したら、これは何という名前になる? 勇猛か、あるいは例えば、戦わないというのを恐れたり、言う勇気がないのか? あるいはまた、この戦争が卑しい戦いであるということに対する無知か? あるいはその他のものか? 正しい呼び名には大いに至り得るが、学び考えなければならない。タイトルを付けて終わり、というのではダメだ。
 このことは、人々が宗教教育を与えるやり方についても、考えさせる。というのも、これは、論理的分析と物事を客観的に見る能力の欠如を招いている、最も重要なものの一つと思われるからだ。人々は、それがハラールなのかハラームなのか知りたがる。これは確かに、多くの物事に適用されるものだが、だがすべてに適用できるということは決してない。確かに嘘はハラームだ。だが、濡れ衣を着せられた人を助けるために嘘をつくとしたら? これは罪なきことだと、わたしは確信している。これはハラームか、あるいはハラールか? わたしが警官だとして、人殺しを自分の目で見たのに、証拠がないとしたら。証拠をでっち上げるのに嘘をつくか、それとも放免するのか? 誰が正しいのか? 例はこれだけだが、何を言いたいかはお分かり頂けるだろう。
 要するに、この世は真っ白とか真っ黒ではない、ということだ。この世は色とりどりで、その色を見るには、よく観察しないといけない。よく見るにしても、七色あって終わり、とはならない。コンピュータの画面は1700万色表示できる。それだけではない。そもそも目そのものは、1000万色しか見られないのだ!
 それだけだ。

  1. テクニカラーは「極彩色」「色とりどり」といった意味で、今時のファッションなどの形容に使われる外来語 []