ムーサー(彼の上に平安あれ)

シェアする

 ヤアクーブはユースフを訪れてエジプトにとどまりました。ヤアクーブはイスラーイール・アッラーという名の預言者で、そのためその子孫はイスラーイールの民と呼ばれました。ヤアクーブに死が訪れた時、子孫たちを集めて尋ねました。
{わたしが亡き後、あなたがたは何に仕えるのか 2-133}
{かれらは、「わたしたちはあなたの神、イブラーヒーム、イスマーイール、イスハークの神、唯一の神(アッラー)に仕えます。かれに、わたしたちは服従、帰依します。」と言った 2-133}
 ヤアクーブは安心して亡くなり、パレスチナに埋葬するよう遺言を残しました。彼らは彼をパレスチナに埋葬しましたが、ユースフの元でエジプトで暮らすことを選びました。彼らは実りの多いエジプトでの暮らしに惹かれ、時が経ちました。結婚し子をもうけ、その数を増やしていきました。
 何年もの年月が流れました。
 父たちが亡くなり、子が亡くなり、孫が亡くなり、孫の孫がやって来ました。
 その数は多くなりましたが、ヤアクーブの教えを忘れ、アッラーを崇拝する者は数少なくなっていました。アッラーは彼らに暴君を据え、彼らの罪に対する罰とし、また試練としました。ユースフの恩恵を知る良きフィルアウンは去り、ユースフもその恩も知らぬ悪いフィルアウンがやって来ました。後にムーサーとぶつかることになる、暴君のフィルアウンが即位したのです。
 このような時勢に、ムーサーは信心深いイスラーイールの民の家に生まれました。
 この時のエジプトのフィルアウンは暴君で、エジプト人は彼に傅いていました。王はイスラーイールの民の数が増していると見ていました。そんなある日、ある知らせが舞い込みました。神官が、イスラーイールの民に生まれた子によって、やがて王が滅ぼされる、と予言したのです。王は、イスラーイールの民から一人の子も産ませないよう、命令を出しました。男の赤ん坊をすべて殺せ、というのです。
 この怪しい雲行きの中で、ムーサー(彼の上に平安あれ)は生まれました。
 彼の誕生を、母はとても恐れながら過ごしました。彼が殺されるのではないか、と心配し、こっそりと乳をやりました。それから、アッラーが彼女に啓示を与える偉大な夜が訪れたのです。
{そこでわれは、ムーサーの母に啓示して言った。「かれに乳を飲ませなさい。かれの(身の)上に危険を感じた時は、かれを川に投げ込み、恐れたり悲しんではならない。われは必ずかれをあなたに返し、使徒の一人とするであろう」 28-7}
 アッラーの啓示が終わるや否や、ムーサーの母はこの慈悲深い聖なる呼びかけに従いました。ムーサーのための小さな箱を作らせ、乳をやってから彼を箱の中に寝かせました。そしてナイル川のほとりへ赴き、流したのです。
 この世で最も慈しみ深い母の心は、息子をナイル川に投げ入れた痛みで一杯でした。しかし彼女は、ムーサーにとって、アッラーこそ自分より慈悲深いと分かっていました。本当にアッラーは、彼女以上にムーサーを愛しておられ、だからこそナイル川に流せと命じたのです。アッラーは彼の主であり、ナイルの主です。箱がナイルの水に触れるや否や、創造主は波に穏やかになるよう命じ、波は後に預言者となるこの乳飲み子を運びました。丁度、イブラーヒームの時に、アッラーが火に冷たく穏やかになるよう命じられたように、穏やかに丁寧に、フィルアウンの城まで送り届けるよう命令されたのです。ナイルの流れはこの立派な箱をフィルアウンの城まで運び、そこで波は箱を岸辺に預けました。
 箱の脇で眠る草に、風が語りかけました。「あまり動いてはいけません、ムーサーが寝ていますから」。草は風に従い、ムーサーは眠り続けました。

 朝になり、フィルアウンの城の夜が開けました。
 フィルアウンの妻は、毎日の習慣で、城の庭園を散歩していました。その日は、何故かいつもより長めに散歩していました。
 フィルアウンの妻は、フィルアウンとよく仲違いしていました。彼は不信仰者で、妻は信心深かったからです。夫は容赦なく、妻は慈悲深く、夫は暴君で、妻は優しく善良でした。また彼女は、子宝に恵まれないことで悲しみ、子を授かり育てたいと願っていました。
 散歩を続けていたフィルアウンの妻が、箱を見つけました。
「何と奇妙な箱でしょう。一体何が入っているのかしら」
 フィルアウンの妻は召使いに命じ、箱を運ばせました。そして箱を開いてみるように命じると、中にムーサーがいるのを見つけました。彼女は彼を息子のように好きになり、涙を流しながら彼を箱から取り上げ、キスの雨を降らせました。ムーサーが目を覚まし、泣き出しました。お腹が減っていて、朝の乳を飲ませて欲しかったのです。
 フィルアウンは朝食のテーブルで妻を待っていましたが、彼女が現れません。怒って外に出て妻を探すと、ムーサーを抱いた彼女が涙を流しながらキスをしているのに驚きました。
 フィルアウンは尋ねました。「この乳飲み子はどこからやって来たのだ?」。彼らは、川べりで箱を見つけたことを話しました。フィルアウンは愚かにも言いました。「ああ、これはイスラーイールの民の子だ。この子供を殺さなければならないのではないか」。
 妻はムーサーをきつく抱きしめて叫びました。
{(これは)わたしとあなたの目の喜びです。かれを殺してはいけません。わたしたちの役に立つこともありましょう。また養子にしてもよい 28-9}
 川べりで見つけた乳飲み子を胸に抱いている妻に、フィルアウンは大層驚きました。妻が喜びで泣いているので、ますます驚きました。嬉し泣きをしているところなど、前に見たことがなかったからです。フィルアウンは、妻がその子を息子のように抱いているのを見て、子供ができないためにこの子を欲しがっているのかもしれない、と考えました。
 とうとうフィルアウンは妻の言い分に折れ、彼女の望み通り、その子を城で育てることを許しました。
 フィルアウンが許しを洗えると、妻の顔に喜びで輝きました。
 これほどまでに妻が喜ぶのを、フィルアウンは見たことがありませんでした。贈り物や宝石や奴隷を贈っても、一度として微笑むことがなかったのです。微笑みの意味を知らないのではないか、と思っていたのが、今は微笑みで輝かんばかりなのです。
 ムーサーが泣いているのが空腹のためだと、フィルアウンの妻は気付きました。彼女がフィルアウンに言いました。
「この子はお腹が空いているのです」
 フィルアウンは言いました。「乳母を連れてこい」
 城から乳母がやって来て、乳をやろうとムーサーを抱きましたが、ムーサーは乳を飲もうとしませんでした。
「他の乳母を連れてこい」
 二人目の乳母、三人目、そして十人目の乳母がやって来ましたが、ムーサーは泣いて乳を飲もうとしませんでした。ムーサーが泣き止まないのでフィルアウンの妻はどうして良いかわからず、泣き始めてしまいました。
 悲しみで涙していたのは、フィルアウンの妻だけではありませんでした。ムーサーの母もまた、悲しみで泣いていました。ムーサーをナイル川に流すと、自分の心をナイルに流してしまったと感じました。箱は川の流れに消え、行方も知れなくなりました。翌朝になると、ムーサーの母の心は空っぽで、息子を想う悲しみで疲れきっていました。至高なるアッラーが彼女の心を繋ぎとめ魂を平安で満たし落ち着かせていなければ、フィルアウンの城へ赴き息子のことを伝えてしまいかねない程でした。彼女は起こったことをムーサーの姉に話しました。「そっとフィルアウンの城のそばまで行って、ムーサーがどうなったか様子を見てきて頂戴。彼らに気付かれないように」。
 ムーサーの姉がそっと近づくと、突然話し声が聞こえました。遠くからムーサーが見え、泣き声が聞こえました。そして、どの乳母も受け付けないので、どうやって乳を飲ませようか途方に暮れているのがわかりました。ムーサーの姉はフィルアウンの周りの人に言いました。
{あなたがたに、かれを育てる家族をお知らせしましょうか 28-12}
 ムーサーに乳をやり世話をして、お仕えする家族、ということです。フィルアウンの妻は言いました。
「この子が満足する乳母を連れてこられるなら、大層な褒美を用意しましょう。何でも望みのものを与えましょう」
 ムーサーの姉は戻って母親に知らせました。そして母が乳をやると、彼は乳を飲みました。フィルアウンの妻は喜び、言いました。「授乳期が終わるまで彼を預かり、その後で返して下さい。彼を養育してくれれば、莫大な報酬を与えましょう」
 こうして、至高なるアッラーはムーサーを母の元に返し、その心を満たしました。彼女の心は穏やかとなり悲しむこともなく、アッラーの約束は真実であり、その讃えある言葉はどんな場合でも実現されるのだ、と理解しました。
 ムーサーの母は彼の授乳を終え、フィルアウンの元に彼を返しました。フィルアウン家でのムーサーの養育が始まりました。この一家にはこの時代の最も優れた教師たちいました。この時代のエジプトは地上で最も偉大な国で、フィルアウンは地上で最も強い王でしたから、当然城には地上で最も偉大な教師たちや文化人たちがいたのです。こうして至高なるアッラーの叡智は、ムーサーに最高の教育を与え、最良の教師たちを宛てがったのです。これらはすべて、創造主のお望みによりやがて対立することとなる敵の元で行われたのでした。
 ムーサーはフィルアウン家で成長し、数学、工学、天文学、化学、生物学、語学を学びました。宗教の時間は眠ってしまいました。というのも、フィルアウンの神性を語る教師の空虚な言葉は、聞いていられなかったからです。フィルアウンは神だというのを、何度か聞きましたが、心の中でその言葉を侮蔑していました。というのも、彼はフィルアウンと一つの家で暮らしていて、彼がただの人間であり、邪まだということを、誰よりも知っていたからです。

 ムーサーは、自分がフィルアウンの息子ではなく、イスラーイールの民の一人だということを分かっていました。そして、どれほどフィルアウンの家臣たちがイスラーイールの民を迫害しているかも、わかっていました。
 ある日、ムーサーは町に散歩に出かけました。そこで彼は、フィルアウンの家臣たちがイスラーイールの民の者と争っているのに出くわしました。弱い方の男が助けを求めてきたので、ムーサーは割って入り、悪者の男を振り払おうとして、殺してしまいました。ムーサーは、一撃で人を殺してしまうほどに強い男だったのです。ムーサーに殺すつもりはなく、男が死んでしまったことに慌てました。
 ムーサーは言いました。
{これは悪魔の仕業である。本当にかれは、人を惑わす公然の敵である 28-15}
 ムーサーはアッラーに呼びかけて言いました。
{主よ、本当にわたしは自ら不義を犯しました。どうかわたしを御赦し下さい 28-16}
 至高なるアッラーは彼をお許しになりました。{本当にかれは寛容にして慈悲深くあられる 28-16}
 ムーサーは{町で、あたりを警戒し、恐れを抱きながら 28-18}朝を迎えました。彼が人を殺したということを知る者は、誰もいませんでした。突然ムーサーは、昨日助けた同じ男が、また助けを求めてくるのに出会いました。男は一人のエジプト人ともみ合っているところでした。ムーサーが彼らに近寄ると、彼らはイスラーイールの民への怒りを顕にしています。男はムーサーに殺されるのではないかと恐れ、こう言いました。
{あなたは昨日人を殺したように、わたしをも殺そうとするのですか 28-19}
 ムーサーは彼をおいて立ち去りました。フィルアウンの民は急いで民に、昨日は誰だかわからなかった殺人者がムーサーであると知らせに行きました。フィルアウンはムーサーを殺すよう命じました。{その時一人の者が町の一番はずれから走って来 28-20}ました。この信心深いエジプト人の男は、ムーサーに言いました。
「ムーサーよ、あなたを殺そうという企みが進められています。エジプトから出なさい」
{わたしはあなたの誠実な忠告者です 28-20}
 ムーサーは{恐れながら(あたりを)見回し、そこから逃げ出し、(祈って)「不義の民からわたしを御救い下さい。」と言った 28-21}
 ムーサーは急いでエジプトを出ました。フィルアウンの城に行くことなく、服を着替えることもなく、道すがら食事を摂ることもなく、旅の用意をすることもありませんでした。荷物を背に預けたり乗るための家畜もなく、仲間もいませんでした。信心深いがやって来てフィルアウンについて警告したすぐ後に、出かけたのです。
 恐れながら出発し、砂漠を横切ってマドヤンに向かいました。
 とうとうムーサーはマドヤンに到着しました。
 大きな井戸のところで座って休んでいると、人々がそこから家畜に水をやっていました。
 彼には木の葉しか食べ物がありませんでした。道の途中で見つけた井戸から水を飲んだだけでした。フィルアウンの追手に捕まるのではないか、と、ずっと恐れていたのです。
 マドヤンに着くや否や、身を木陰に投げ出し、くつろいでいたのです。彼は空腹と疲れを感じていました。困難な旅でボロボロになった靴を逆さにしてると、砂と土くずが出てくるだけでした。新しい靴を買うお金も、食べ物や飲み物を買うお金もありませんでした。
 ムーサーは、羊飼いたちが家畜に水をやっているのを見ました。飢えと乾きを感じ、食べ物を買うお金を手にするまでは、水で腹を満たそう、と思いました。水場に赴くと、二人の女性が、自分の家畜が他の人の家畜と混ざらないよう、抑えているのに気付きました。ムーサーは、二人が助けを必要としているのでは、と思いつき、乾きも忘れて、助けが要らないか彼女たちに尋ねました。年上の方の女性が言いました。
「羊飼いたちが、彼らの家畜に水をやり終えるのを待っているのです」
 ムーサーは尋ねました。
「なぜあなたがたは水をやらないのですか」
 年下の女性が言いました。
「男たちと争うことはできません」
 ムーサーは、彼女たちが羊の世話をしているということに驚きました。羊飼いは男の仕事で、骨の折れる注意の要る仕事だからです。
 年下の女性が言いました。
「わたしたちの父は高齢で身体も悪く、毎日羊飼いに出ることができないのです」
 ムーサーは言いました。
「ではわたしが水をやりましょう」
 ムーサーが水場に行くと、羊飼いたちが井戸の口に大きな岩を乗せてしまっているのに気付きました。とても大きくて、男十人がかりでも動かせないようなものでした。ムーサーは岩を抱え、それを井戸からどけました。首と手の血管が浮かび上がらせながら、岩をどけたのです。ムーサーはとても力持ちでした。彼女たちの家畜に水をやり、岩を元に戻してから、また木陰に戻って座りました。
 その時になって、自分が水を飲むのを忘れていたことに気付きました。空腹でお腹が背中にくっつきそうでした。
 彼はアッラーを想い、呼びかけました。
{主よ、あなたがわたしに御授けになる、何か善いものが欲しいのです 28-24}
 その頃、二人の女性は彼女たちの年老いた父の元に帰っていました。
 父は尋ねました。
「なぜ今日は、いつもと違って早く帰ってこれたのかね」
 年上の女性が言いました。
「今日はとても運が良かったのです、お父様。心広き男性にお会いし、羊飼いが水をやる前にわたしたちの家畜に水をやってくれたのです」
 父は言いました。
「アルハムドリッラー」
 年下の娘が言いました。
「お父様、彼は長旅をして来て、お腹をすかせていると思います。彼は強い男ですが、疲れ果てた顔つきをしていました」
 父は娘に言いました。
「彼のところに行ってこう言いなさい。{わたしたちのために水をやって下さったので、父があなたを御招きして、御礼したいそうです 28-25}」
 娘は、胸を高鳴らせながらムーサーの元に急ぎました。
 ムーサーを前にし、彼女は父からの伝言を伝えました。ムーサーは微笑んで立ち上がりました。彼は代償を受け取ろうと彼女たちの家畜に水をやったわけではありません。アッラーのために彼女たちを助けたのであり、彼はアッラーが彼の内で行動を起こさせてくれた、と感じていました。娘がムーサーの前に進み出ました。風が吹き、彼女の服がはためきました。ムーサーは恥じらいから視線を落としまし、言いました。
「それではわたしがあなたの前を歩きましょう。道を教えてください」
 彼が老父の元に着くと、老父は食べ物を差し出し、どこから来て、どこへ行くのかと尋ねました。ムーサーが経緯を語ると、老父は言いました。{心配なさるな。あなたは不義の民から逃れたのです 28-25}。その土地はエジプトのものではなく、彼らもそこまでは彼を追って来ません。ムーサーは安心し、帰ろうと腰を上げました。
 年下の娘が父にささやきました。
{かれを御雇いなさいませ。あなたのために雇って一番善いのは、強健で誠実(な人物)です 28-26}
 父が尋ねました。「どうして彼が強健だとわかるかね」
 彼女は言いました。「十人でもどけられない岩を一人で持ち上げたのです」
 彼は尋ねました。「どうして彼が誠実だとわかるかね」
 彼女は言いました。「わたしが歩いている姿を見ないように、わたしの後ろを歩くのを拒んだのです。わたしと話す時は、常に恥じらいと礼節をもって目を伏せていました」
 老父はムーサーの元に戻り、言いました。
「ムーサーよ、八年間家畜の世話をしてくれれば、娘の一人と結婚させよう。もし十年がよければ、それでもよい。無理強いをするつもりはない。{アッラーが御好みなら、わたしが正しい人間であることが、あなたにも分るでしょう 28-27}」
 ムーサーは言いました。
「わかりました。アッラーがこの約束を証すでしょう。八年にせよ十年にせよ、その後はわたしは自由となります」
 ムーサーは老父の年下の娘と結婚しまし、十年間を家畜の世話をして過ごしました。毎日夜明けと共に出かけ、日の入りと共に戻りました。この十年間は、ムーサーはアッラーについて、その慈悲と優しさと偉大さと寛大さについて思索した偉大な期間でした。そして、旅立ちの日がやって来ました。
 ムーサーは妻に言いました。
「明日、エジプトに戻ろう」
 ムーサーはエジプト帰還の秘密を知りませんでした。十年前に、ムーサーはエジプトから逃げ出したのです。なぜそこへ今日戻るというのでしょう。母や兄弟が恋しいからでしょうか。母のように彼を育て愛してくれたフィルアウンの妻を尋ねようと考えたのでしょうか。
 なぜムーサーがエジプトに戻ろうとしたのか、誰にも分かりません。分かっていることは、ある日かれが決めて、エジプトに戻ったということです。
 高貴なる運命が、これ以上なく大切で、大変に危険な道へと彼を進めたのです。

 ムーサーは家族と共に出発しました。夜は月も出ず、闇が支配しました。稲光がして雨が降り、寒さと闇が増していきました。ムーサーは道を見失ってしまいました。道を探すために、彼は小石を二つ拾い、打ち付けて火を起こそうとしましたが、うまくいきませんでした。風が強くて、小さな火花はすぐに消えてしまったのです。ムーサーは、家族の中で寒さに震えながら、途方に暮れました。ふと顔を上げると、遠くに何かが見えました。
 遠くの方で、火が燃えているのが見えたのです。
 突然、喜びが心を満たしました。彼は家族に言いました。「あそこに火が見える」。彼は家族に、そこにいるよう命じました。火を取ってくるか、誰かに道を尋ねるか、暖をとるために火を起こすだけの薪を取ってこられると思ったのです。
 家族はムーサーの示す方を見ましたが、何もそこには見えませんでした。しかし、彼に従い、待つことにしました。ムーサーは火の方に向かいました。
 身体を温めようと、ムーサーは道を急ぎました。右手には杖を握っていました。身体は雨に濡れています。トワーという涸れ川のところまでやって来ました。この涸れ川で、彼は奇妙なことに気付きました。稲光も風も止んでいたのです。ただ深い静寂だけがありました。ムーサーは火に近づきました。近づくや否や、{声があった。「火の中にいる者、そしてその廻りの者に祝福あれ。万有の主、アッラーに讃えあれ」 27-8}
 ムーサーは立ち止まり、震えました。声はすべての場所から響いていました。
 火を見て、ムーサーはまた震えました。刺のある緑の木が燃えていて、火が燃えれば燃えるほど緑が増していたのです。燃えているなら、木は黄色く色が変わらなければおかしいです。しかし、火は燃え上がり緑は増えていました。暖かくて汗をかいているのに、ムーサーは震えていました。右手に西の山の木があり、彼はトワーの涸れ川にいました。ムーサーは、畏れの余り、手で目を覆い、自問しました。
「これは火か、あるいは光か」
 すると大地が恭順と畏れを示して揺れ、強大にして偉大なるアッラーが呼びかけました。
{ムーサーよ 20-11}
 ムーサーは顔を上げ、言いました。
「はい・・」
 強大にして偉大なるアッラーは仰いました。
{本当にわれはあなたの主である 20-12}
 ムーサーは益々震え、言いました。
「はい、我が主よ」
 強大にして偉大なるアッラーは仰いました。
{だから靴を脱げ。今あなたは、トワーの聖谷にいるのである 20-12}
 ムーサーは頭を下げルクアし、靴を脱ぎました。
 讃えある至高なる真理者はまた仰いました。
{われはあなたを選んだ。だから(あなたに)啓示することを聞け/本当にわれはアッラーである。われの外に神はない。だからわれに仕え、われを心に抱いて礼拝の務めを守れ/確かに(終末の)時は来るのであるが、それを秘めて置きたいのは、各人が努力したところに応じ、報いを受けさせるためである/だから、これを信じないで自分の欲望に従う者たちから遠ざかり、あなたを破滅から救え 20-13 – 20-16}
 神聖なる啓示を受けムーサーの身体はますます震え、彼は主が語りかける言葉を聞きました。
 慈悲深く慈愛遍き者はお話になりました。
{あなたの右手にあるそれは何か、ムーサーよ 20-17}1
 ムーサーはいよいよ驚きました。語りかけているのは、讃えある至高なるアッラーが語りかけられているのです。アッラーは、彼以上に彼が杖を持っていることをご存知です。では、一体なぜアッラーは本人以上に知っていることをお尋ねになったのでしょう。そこには、高き叡智があったに違いありません。
 ムーサーは震える声で答えました。
{これは杖です。わたしはこれに凭れ、また羊のためにこれで(木の葉を)打ち落し、また、その外の用に供します 20-18}
 強大にして偉大なるアッラーは仰いました。
{ムーサーよ、それを投げよ 20-19}
 ムーサーは杖を投げてみて驚きました。突然その杖が大きな蛇に変わったのです。蛇が素早く動き始めました。ムーサーは恐怖に抗することができませんでした。恐ろしさで身体がガクガクし、踵を返して逃げ出しました。二歩も行かないうちに、アッラーが呼びかけられました。
{ムーサーよ、あなたは恐れてはならない。本当に使徒たる者は、われの前で恐れてはならない 27-10}
{近寄れ。そして恐れるな。本当にあなたは、堅く守護されている者である 28-31}
 ムーサーは振り返って立ち止まりました。
 杖はまだ動いていました。蛇はまだ動いていました。
 至高なるアッラーはムーサーに仰いました。
{それを押えよ。恐れてはならない。われはそれを元のように返すであろう 20-21}
 ムーサーが震えながら蛇に手を伸ばすと、手を触れるや否や、手の中で蛇が杖に戻りました。神聖な命令がまた下りました。
{あなたの手を懐に入れなさい。何の触りもないのにそれは白くなろう。恐の念があるならば、腕を(両脇に)締め付け(れば落付くだろう) 28-32}
 ムーサーが手を懐に入れて出すと、月のように輝いていました。ムーサーは気持ちが高ぶり、その手をアッラーに命じられたように胸に置くと、恐れは完全に静まりました。
 ムーサーは安心し、落ち着きを取り戻しました。杖の奇跡と手の奇跡、この二つの奇跡の後、アッラーはムーサーに、フィルアウンの元へ行き、優しく丁寧に彼をアッラーへと呼びかけるよう、命じられました。また、イスラーイールの民をエジプトから脱出させるよう、命じられました。
 ムーサーはフィルアウンへの恐れを表しました。彼らの仲間を殺したので、殺されるかもしれない、と。そしてアッラーに、兄のハールーンを一緒に遣わされるよう、お願いしました。アッラーは、彼らと共に聞きまた見ていること、フィルアウンは容赦なく横暴ですが、彼らに害を及ぼすことはできないだろう、と伝え、彼を安心させました。アッラーは、ムーサーが勝利することを理解させました。
 ムーサーはドゥアーし、アッラーが彼の荷を軽くし、使命を容易にして下さったことを、そして彼への呼びかけの力を与えて下さったことを、喜びました。
 アッラーは彼の望みに応じて下さったのです。
 アッラーはムーサーをフィルアウンへの使徒にお選びになった後、家族の元へ返しました。

 ムーサーはフィルアウンの元に向かい、二人の間に争いが起こりました。
 フィルアウンはムーサーに尋ねました。
「何が望みなのだ」
 ムーサーは言いました。
{わたしたちは、万有の主から遣わされた使徒であるから、/イスラエルの子孫を、わたしたちと一緒に行かせて下さい 26-16 – 26-17}
 フィルアウンは尋ねました。
「お前はわたしたちがこの城で育てたムーサーか。エジプト人を殺したムーサーか」
 ムーサーは言いました。
「いかにも、わたしはこの城で育ったムーサーです。万有の主の使徒です」
 フィルアウンは尋ねました。
{万有の主とは、何ですか 26-23}
 ムーサーは言いました。
{天と地、そしてその間の凡ての有の主であられます。あなたがたがもし(これを)悟ったならば 26-24}
 フィルアウンは周りの者たちを振り向き、鼻で笑いながら言いました。
{あなたがたは聞きましたか 26-25}
 ムーサーは言いました。
{あなたがたの主、また昔からのあなたがたの祖先の主でもあられます 26-26}
 フィルアウンは周りの者に言いました。
{あなたがたに遣わされたこの使徒は、本当に気違いです 26-27}
 ムーサーは言いました。
{東と西、またその間にある万有の主であられます。あなたがたがもし理解するのであれば 26-28}
 フィルアウンは言いました。
「アッラーへの呼びかけにやって来たこの貧しい男を見よ。どうして敢えて、我以外を崇拝しようなどとする。我以外の神が存在するか」
 ムーサーは言いました。
「いかにも、唯一の存在する神がおられます。万有の主アッラーです。わたしは、アッラーへの信仰を呼びかけております」
 フィルアウンは腹を立てて言いました。
「我以外を神とするなら、牢に入ることになるだろう」
 ムーサーは微笑みながら言いました。
「印や奇跡があってもでしょうか」
 フィルアウンは言いました。
「本当なら、奇跡を見せて見るがよい」
 ムーサーが城の大広間に杖を投げると、杖は素早く動く大蛇に変わり、フィルアウンは驚きました。フィルアウンの顔は恐怖に青ざめ、じっと蛇を見つめています。ムーサーが手を懐に入れて出すと、月のように輝いていました。この新しい光の前で、城のすべての灯りとろうそくは霞んで見えました。フィルアウンは恐怖で青ざめました。
 城を静寂が支配し、皆が驚きをもって二つの奇跡を見つめていました。
 そしてムーサーが蛇に手を伸ばすと、それは杖に戻り、手を懐に入れると、元通りになりました。
 ムーサーは振り返り、城を出ました。
 フィルアウンは呆然としていました。
 恐ろしくて震えていました。
 この知らせは、エジプト中に広がりました。
 皆がムーサーとハールーンのことを話しました。いかにフィルアウンの元に赴き、アッラーへと呼びかけたか。いかにフィルアウンがその呼びかけを疑い、怒りを示したか。いかにムーサーが杖を投げ、手を取り出したか。どれほどフィルアウンが驚き、黙りこんでしまったか。
 知らせがエジプト中に広がり、誰もがそのことを話し、そのことはフィルアウンの耳にも入りました。宮殿ではフィルアウンの元で会議が開かれ、これにどう対処するか話し合われました。
 ムーサーがフィルアウンに立ち向かうや、争いが巻き起こりました。
 ムーサーはフィルアウンが簡単には降参しないことを分かった。彼は、自分を神としエジプト人に崇拝させることで、その王権を保ち、支配し、搾取していたのですから。こうして築き上げたものを、ムーサーは揺るがしに来たのです。
 神は一人しかいない、というのは、ムーサーの簡単なひと言でした。
 それが意味することは、フィルアウンは嘘つきだということです。
 歴史的な会議の席で、フィルアウンは大臣の一人ハームーンを振り向き言いました。
「ハームーンよ、我は嘘つきか」
 ハームーンは、世のおべっか使いが皆するように立礼し、言いました。
「閣下、誰がそのようなことを言うのですか」
 フィルアウンは言いました。
「ムーサーだ。天に神がいると言ったではないか」
 ハームーンは言いました。
「閣下、ムーサーは嘘を言っているのです」
 フィルアウンは言いました。
「奴が嘘つきなのはわかっている。だから、ムーサーの神を探しに天にまで届く階段を作ることを、汝らに命じる」{わたしには、どうもかれは虚言の徒であると思われる 28-38}
 天にも届く階段を作るなど不可能なので、ハーマーンはうやうやしく言いました。
「閣下、そこには何者もおりませぬ。あなた様以外に神はおりません」
 フィルアウンは大臣たちと軍隊の司令官たち、そして神官たちに語りかけました。
{長老たちよ。わたし以外に、あなたがたに神がある筈がない 28-38}
 皆はこれに同意して頭を垂れました。
 そこには二人か三人、まだ理性のあるものがあり、彼らはフィルアウンが嘘つきだということをわかっていました。しかし、何も言わずに同意したのです。このことは、エジプトの民衆に高いツケを払わせることになります。大臣らと神官らが同意したせいで、エジプトの軍隊は血の代償を払うことになるのです。
 フィルアウンは、諮問官らに尋ねました。
「ムーサーについて何か言うことがあるか」
 諮問官らは恐怖とへつらいで黙り、それからオウムのように口にのぼる言葉をただ繰り返しました。
 フィルアウンは周りの者に言いました。
{本当にこれは、老練な魔術師である/かれはその魔術で、あなたがたをこの国から追い出そうとしている。それであなたがたはどうしようというのか 26-34 – 26-35}
 フィルアウンの問いかけに対し、諮問官らは言いました。
「フィルアウンの仰せの通りです。まことムーサーは魔術師で、災いをもってきました。我らはムーサーとその兄を呼びつけ、フィルアウンの命によりエジプト中の魔術師を連れてきます。魔術師がやって来てムーサーと対峙すれば、奴が魔術師だとはっきりして、敗れ去るでしょう。エジプト人とそうでない者すべての前で、明らかにしましょう」
 この歴史的会議はこのような結論に達し、フィルアウンの城から十人の男が馬にまたがり出発し、エジプト中に散りました。次の日、エジプトのすべての市場で、全エジプトの手練の魔術師はフィルアウンの城に向かうことが急務であると、告げられました。
 フィルアウンはムーサーを呼びつけ、脅し、恐れさせようとしましたが、ムーサーはアッラーを信じる者で、何者も恐れませんでした。
 フィルアウンはムーサーに言いました。
「ムーサーよ、お前は魔術師だ。我は皆の前でお前の正体を暴くことに決めた。近いうちに魔術師たちが現れ、お前らと対決することになろう」
 ムーサーは尋ねました。
「いつわたしたちと対決するのでしょう」
 フィルアウンは言いました。
「祭りの日だ。シャンム・ナシームの日だ。春の訪れを大地が祝う日だ」
 ムーサーは言いました。
「その約束で結構です」
 フィルアウンは尋ねました。
「お前らは何時に参るのか」
 ムーサーは言いました。
「アッラーがお望みになれば、午前中の、昼近くに。わたしたちとあなたの魔術師らの対決に、すべての人が集まるでしょう」
 ムーサーは心穏やかに立ち去りました。
 魔術師らの代表団が、フィルアウンの城に到着しました。
 皆が集まると、フィルアウンは彼らの参上を命じました。魔術師たちはフィルアウンの前に現れると、彼にサジダしました。
 フィルアウンは彼らに立っているよう命じ、彼らの間を歩き、その顔や服をよく眺め、黙って考え込みました。それから突然立ち止まり、言いました。
「魔術師たちよ。我らはちょっとした問題を抱えている。その解決のために、汝らを呼びつけた」
 魔術師らは頭を垂れて聞いていました。
 フィルアウンは話を続けます。
「アッラーの使徒だと言うムーサーという男が、兄のハールーンとやって来たのだ。このムーサーは、ちょっとした魔術を使う。なかなかの魔術師だ。しかし、汝らは汝らの方が匠で秀でていることをはっきりさせねばならぬ。頭も上げられないほど、徹底してやりこめなければならぬ」
 魔術師たちは頭を垂れて黙っていました。
 フィルアウンは言いました。
「なぜ、汝らの誰一人として、ムーサーの魔術について尋ねないのだ」
 一人の魔術師が静かに答えました。
「偉大なるフィルアウン自らお話になるのをお待ちしているのです。閣下、我らはお話を妨げとうございません」
 フィルアウンは怒って言った。
{(ムーサー)は杖を投げた。見るがいい。それは明らかに蛇となる/またかれの手を差し伸べると、見るがいい。それは誰が見ても真っ白である 26-32 – 26-33}
 魔術師らの顔に微笑みが浮かびました。彼らの一人が言いました。
「ご安心下さいませ、フィルアウン様。杖が蛇に変わるというのは、昔ながらの仕掛けです。本当のところ、蛇に変わったりなどしないのです。動きもしないのに、動いていると人に信じさせているのです」
 フィルアウンは言いました。
「魔術師の技術の話に口を挟む気はない。ただムーサーを打ち負かして欲しいだけだ。祭りの日に対決することで約束してある。エジプト中の民が集まり、汝らが打ち負かすのを見るのだ。必ず勝たなければならない」
 フィルアウンは話し終わり、魔術師らが立ち去るのを待ちましたが、彼らは動きませんでした。一人が尋ねました。
「ムーサーに勝つなら、一番大事なことをお話になっておりません、フィルアウン閣下」
 フィルアウンは訝しげに尋ねました。
「一番大事なこととは何だ」
 一人の魔術師が言いました。
{わたしたちが勝てば 26-41}「褒美はあるのでしょうか」
 フィルアウンは笑いながら言った。
「汝らの満ち足りるようにし、近くの者としてやろう。城に魔術師のための新しい職を用意しよう。褒美については安心しておくがよい」
 魔術師らが自信ありげなのを見て、フィルアウンは微笑み、退出を命じました。彼らが立ち去ると、彼は昼食のテーブルにつきました。
 くつろいで食事を始め、太った羊のもも肉を前にこう言いました。
「ムーサーが来て以来、食が進まぬ。いずれにせよ、もうすぐそれも終わりだろう」

 祭りの日がやって来ました。
 人々は家から出て、ムーサーとフィルアウンの対決について語り合いました。朝早くから、人々は祭りの会場に向かいました。この挑戦と対決の話を知らない者は、エジプトに一人といませんでした。
 魔術師らが到着すると、人々は歓声をあげました。フィルアウンが現れると、また声があがりました。そして、ムーサーとハールーンが到着した時には、あたりが静まり返りました。
 祭りの会場は、フィルアウンを太陽の暑さから守る木陰以外、吹きさらしでした。フィルアウンは金と宝石を見にまとい、栄光と支配の中にありました。ムーサーはうつむいて小声でアッラーを唱念していました。声がやみ、魔術師らがムーサーの方に歩み出ました。
 魔術師らがムーサーに言いました。
{あなたが投げるか、それともわたしたちが先に投げようか 20-65}
 ムーサーは言いました。
{いや、あなたがたが先に投げなさい 20-66}
 魔術師らが彼らの杖と縄を投げると、周り中が突然蛇で一杯になりました。
{そこでかれらは投げて人々の目を惑わし、かれらを恐れさせ、大魔術を演出した 7-116}
 エジプト人は喝采し、フィルアウンは満面の笑みをたたえ、小声で言いました。
「もうムーサーに判定は下された。彼の奇跡は杖を手の中で蛇に変えることだ。フィルアウンの手の者は、杖を蛇に変える魔術師を何十と連れてきたのだ」
 フィルアウンはますます微笑みました。
 ムーサー(彼の上に平安あれ)は、魔術師の縄と杖を見て、恐れを感じました。{それでムーサーは、少し心に恐れを感じた 20-67}丁度ふっと光が消えて、闇が支配するように、ムーサーは感じました。大勢のフィルアウンの近衛兵や兵隊に囲まれ、ムーサーは兄と共に粗末な服で立っていて、誰も彼の心の内を知りませんでした。ムーサーの恐れは長くは続かず、讃えある至高なるアッラーがこうおっしゃって、光が再び彼の内を照らしました。
{恐れるには及ばない。本当にあなたが上手である/あなたの右手にあるものを投げなさい。かれらが作ったものを呑み込め。魔術師の誤魔化しに過ぎない。魔術師は何処から来ても、(何事も)成功しない 20-68 – 20-69}
 万有の主が彼を落ち着かせるのを聞いて、ムーサーは安心しました。手の震えが止まり、ムーサーは杖をかざすと、それを突然投げました。
 ムーサーの杖が地に届くや否や、奇跡が起こりました。
 人々が、魔術師たちが、フィルアウンとその兵らが、かつて目にしたことのないものを見ました。魔術師たちが人々の目を欺き、動かない杖や蛇を動いているように見せることができきるのは、知られたことです。
 しかし、その時起こったことは、まったく違うことでした。
 杖が地につくや、巨大な蛇に変わりました。この蛇が魔術師の動く縄と杖に向かっていき、次々と食べ始めたのです。ムーサーの杖は、驚くべき速さで魔術師の縄と杖を食べていきました。
 数秒も経たないうちに、広場には魔術師の縄も杖もなくなりました。縄も杖も、ムーサーの杖に飲み込まれてしまったのです。巨大な蛇はムーサーの方にやってきて、ムーサーが手を伸ばすと、杖に戻りました。
 魔術師たちは、自分たちが前にしているのが魔術師ではないことを悟りました。
 彼らは本当に、その時代の最も優れた魔術師たちだったのです。彼らが目にしているのは魔術ではありませんでした。それh本当に、アッラーの奇跡だったのです。
 魔術師たちは、身を地に投げ出してサジダしました。
{「わたしたちは、ムーサーとハールーンの主を信仰します」と言った 20-70}
 エジプト人とイスラーイールの民は、この驚くべき奇跡を目の当たりにしました。魔術師たちがムーサーとハールーンにサジダするのを見たのです。
 フィルアウンは、ことが不利になったのを感じ、立ち上がって魔術師らに叫びました。
「許しもなく信仰するとは、何事だ」
 魔術師たちは言いました。
「信仰に許しはいりませぬ」
 フィルアウンは言いました。
「これは明らかな企みだ。{本当にかれは、あなたがたに魔術を教えたあなたがたの頭目であろう 20-71}。手足を切り落としてナツメヤシの幹に磔にしてくれようぞ。{あなたがたはどちらの懲罰がより厳重で、永続するか必ず分るであろう 20-71}」
 魔術師たちは言いました。
「フィルアウンよ、お好きなようになさるがよい。この神聖なる奇跡があなたのお気に召すことはありますまい。{本当にわたしたちが主を信仰するのは、わたしたちの誤ちの御赦しを請い、またあなたが無理じいでした魔術に対して、御赦しを請うためであります。アッラーは至善にして永久に生きられる方であられます 20-73}。もし我らを罰し殺し磔にしても、それはこの生の中で罰するだけのもの。来世に比べれば何でもありません。我らはアッラーの許しを得て天国に入りたいのです」
 フィルアウンは魔術師を皆、磔にするよう、命令しました。
 この出来事を、人々は見守っていました。真実は明らかでしたが、人々は一時の安楽に甘んじていました。もしすべてのエジプト人が地にかがみ、一欠片のレンガを手にし、フィルアウンに投げつけていたら、フィルアウンは没落し、エジプトの歴史は変わっていたでしょう。しかし実際は、誰ひとりとしてその場を動かず、安楽に甘んじ、これが後に人々に大きな代償を払わせることになるのです。
 ある一日の臆病が、人々に大きなツケとなって返るのです。
 この偉大な一日の幕は降りました。ムーサーとハールーンは立ち去りました。フィルアウンは城に戻りました。
 数日が過ぎました。
 ムーサーの印は続き、フィルアウンは強情なままでした。
 アッラーはムーサーに、その下僕の弱き者たちを連れ、紅海に向い渡るよう啓示を下されました。ムーサーはアッラーの命令を実行に移しました。
 知らせがフィルアウンに届きました。ムーサーが弱者たちと共に出発した、と。フィルアウンは命令を発し、王国の諸都市から大勢の兵隊を集めました。
 フィルアウンは、徴兵の訳をこのように語りました。
「これは小さな集団だが、フィルアウンの怒りに触れた。彼らを打ち負かし滅ぼし、心安らかとなるのだ」
 この嘘を人々は信じました。誰も反対しませんでした。兵の招集が完了し、フィルアウンを先頭に出発しました。ムーサー追撃が始まりました。

 ムーサーは紅海の手前で立ち止まりました。
 遠くにフィルアウンの軍旗が見えました。ムーサーの民は恐れて言いました。
「フィルアウンに追いつかれます」
 ムーサーは言いました。
{決して、決して。本当に主はわたしと共におられます。直ぐに御導きがあるでしょう 26-62}
 状況は危険な戦いの様相を示していました。前には海、後ろには敵、そして彼らは、フィルアウンを打ち倒すには弱すぎました。その時、アッラーがムーサーに啓示を下されました。{あなたの杖で海を打て 26-63}。すると海が割れ、左右の波の間に乾いた道が現れました。
 ムーサーはその民を進め、海を渡り切るまで進みました。素晴らしい奇跡でした。荒れ狂う波が、道のところまで来ると、見えない手に阻まれるようにそこを避け、彼は溺れることはおろか濡れることすらなかったのです。
 ムーサーは民と共に海を渡りきりました。
 フィルアウンが海にたどり着き、この奇跡を目の当たりにしました。二つに割れた海の中に乾いた道があるのを見たのです。フィルアウンは恐れを感じましたが、頑なにも馬車に前進を命じ、どんどん前に進みました。軍隊もそれに続きました。
 軍隊みなが道半ばに来た時です。至高なるアッラーが、元通りになるよう海に命じられ、フィルアウンとその軍隊の上に覆いかぶさったのです。
 フィルアウンとその軍隊は、溺れてしまいました。
 強情な者は溺れ、アッラーへの信仰が生き延びました。
 フィルアウンの圧政に幕が下ろされました。海の波が彼らの亡骸を浜辺に打ち上げ、人々は、かつて神だと言っていた男がいかに死んだかを目の当たりにしたのです。
 誰も逆らえなかった男が・・。

 ムーサーは民と共に砂漠を進みました。
 そこで彼に、タウラー(トーラー)が下されました。
 アッラーへの信仰と正義と信頼を呼びかける十の命令が下りました。ムーサーのイスラーイールの民が見たすべての奇跡にも関わらず、彼らは堕落していました。ムーサーが彼らをおいてアッラーに会い、タウラーを受け取り、戻ってみると、金の仔牛を崇拝していたのです。
 フィルアウンが彼らの性質を腐敗させ、心を内側からねじ曲げていたのです。ムーサーは頑迷と無知に対し厳しい罰を下しました。
 しかし彼は、アッラーへの呼びかけを続け、ただアッラーのみへの崇拝を遺言し、亡くなりました。

  1. 原文ではこの箇所が抜けているが、明らかに誤植のため補う []