幸福

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 幸福の問題で最大のものは、この世には多くの幸福の源泉があるのに、残念ながら、多くの人間は幸せではない、ということだ。
 ほとんどの人間が幸福でないのは、多くの理由によると思うが、それらの理由は境遇とは関係ない。ほとんどの人間が幸福でないのは、今日の世界が、いかに幸せになるかを人々に教えていないからだ。
 例えば、多くを知り、明晰に考えるために学び、そうすれば幸福になる、と人が考えるのは、筋の通ったことだ。自分の重要性、成果を出す能力を感じるために働く、あるいはのんびり過ごすために金を稼ぐ、あるいはその両方で、幸せになるだろう。誰かを好きになり結婚し、家庭を築く。幸せになるために。何人かの子供をもうけ、喜び、そこに連綿と続くものを見て、幸せになる。
 直接的で筋の通った目的は、この世で行うすべては、幸福になるために行う、というものだが、これが変わってしまう。変わってしまうと、一日十八時間も好きでもない仕事をするもいる。お金が欲しいのだ。喜ばせるために。結局、この人物が終始絶望しているのを目にすることになる。何というか、彼はそもそも幸福を求めて働いていたはずなのに。
 非常に多くの人々が、結婚しているか否かを問わず、互いに愛し合っている。その中で互いを幸せにできるの者は少ない。ほとんどの関係は、喧嘩と議論と不幸から成っている。妄想の戦争で誰が誰に勝つのか。誰も決して勝つことなどできない。彼らはそもそもの始まりには、本質的に、幸福になるために恋に落ちたというのに。
 こうしたことがどうやって起こるのだろう? 些事に囚われて本質を見失ってしまうのだ。やっているすべてのことが、幸せになり楽しむためなのだという、そもそもの目的を忘れてしまうのだ。忘れてしまうと、父は子供たちとまるで一緒に過ごさず、働き詰めになるかもしれない。金を手に入れて、彼らを幸せにするために! 金は彼らを幸せにしない。父が自分の選択で一緒にいてくれない子供が、どうやって幸せになるというのか。人間は忘れてしまうと、家で男女で交わす美しい言葉もなくなってしまう。それなら、どうして一緒に暮らしているのだろう? 互いに幸せではなく、幸せになろうとすらしていないなら、何を続けているのか?
 皆さんが方の中には、こう考えて言う人がいるだろう。やあイシーリーさん、なんだいこの問いは。家計を考えて、子供たちを育てようとしてるんじゃないか、と。いやいや、子供たちは育ちはしない、ただ餌をやられるだけだ。この家は家ではない。自分たちを忘れてしまった家で、彼らはそもそも何をするというのか。どう家であるというのか。愛のない家、それが彼の家なのか?
 皆さんは見たことがないだろうか。見た目はとても敬虔で、主に近く、礼拝、斎戒、敬神、だけれどいつも仏頂面で、この世のすべてを背負っているようで、喚きちらし、ほんの些細なことで怒り出す、とういような人達を。それでいながら、主を愛し信じて、仕え続けるとは、どういうことだろう。信仰は人の心に創られたのは、安心させ導き幸せにするためなのだ。
 何が言いたいかと言うと、わたしが心より信じている考えでは、幸せではなければ馬鹿だということだ。細かいことはさておき、あなたが何をするにせよしないにせよ。わたしたちは皆、この世にいる者は皆、そのもっとも高尚な目的と言えば、アッラーの御満悦ということを除けば、幸せであることだ、ということをいつも考えなければならない。もし幸せではないなら、何か間違ったことをしているか、していることがすべて間違っているかだ。わたしたちの幸せの秘密は、わたしたちの中にある。外じゃない。なぜなら、あなたこそが何を見て何を見ないか決めるのであり、あなたこそが、知性をもって何を見るか決定し、それをどう解釈するか決めるのだから。幸せになり満足するか、惨めに苦しむか、わたしたちが自身の中で決めるのだ。
 主すらも、アーダムをお創りになった時は、彼を慈しまれ、美味しい食べ物を食べれば、幸せになるようにされた。たとえ、豆に何かつけたものと二切れの田舎パンという食事であったとしても。誰かが美しい言葉をかけたなら、幸せとなるようにされた。恋人の手を握れば、幸せとなるようにされた。かぐわしい香りを嗅いだら、幸せになるようにされた。美しい映画を見たら、幸せになるようにされた。美しい音楽を聴いたら、幸せになるようにされた。笑い話を聞いて笑ったら、幸せになるようにされた。幸せはすべて一瞬のものだが、それでも幸せだ。幸せとは、始終満面の笑みをたたえていることだ、などと誰が言ったのか。そんなことは不可能だ。大いなる幸せという言葉は、小さな幸せの積み重ねであるか、より重要なことに、そもそものわたしの考えでは、幸せたろうと望むものは、その生において幸せである、ということだ。
 わたしはもちろん、これをすればすぐ幸せになる、などという処方箋は持ち合わせていない。幸せと至福は、良心と心の満足と安らぎである、ということとは、違うことを言わなければならない、と思っただけだ。