忍耐

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 それが誰なのか正確なところ分からないのだが、わたしたちが子供の頃から、忍耐こそ成功の鍵、と教える人たちがいる。これはまるで間違いというわけではない。しかしことは、それよりはずっと複雑だ。なぜか? この言葉は、例えばバスを待っている時や、数ヵ月後に帰ってくる夫を待っている時などには、とても簡単だからだ。好きな女の子と結婚するために残った年が過ぎるのを待っているとか、そういう類の時だ。しかし「忍耐こそ成功の鍵」という言葉の問題は、何が終わってないと考えるか、ということにある。わたしが災難とか問題とか危機にあるとして、耐えて耐えて耐え続けても、成功はやって来ない。わたしの鍵がどこにあるというのだ?
 考えて欲しい。例えば、死ぬほど結婚したい子がいるとする。「すべては運命」とか「主こそが善き事の在り処をご存知」とか言って、何もしなければ、毎年チャンスが増えたり減ったりするだけで、結婚には至らない。どうしたら解決するのか? 確かに忍耐だ。だが、わたしたちの話している忍耐ではない。なぜなら、そんなことは皆さんよくお分かりだからだ。忘れたり、問題が終わったり、危機が解消されたりするまでの忍耐ではない。少し違う種類の忍耐だ。
 例えば、癌がみつかったとする。アッラーがわたしたちとあなたたちを癒されますように。末期で見つかって、手の施しようがないとする。痛み、恐怖、死が近づいてくる。これらは全部厳しいもので、行って「あとちょっとの辛抱だ」と言ってもどうしようもない。「気にするな」と言ってもどうしようもない。忍耐は成功の鍵、と言ってもどうしようもない。ただ死を待っているのだ。しかしそれでも、忍耐は役に立つ。何もできることのないことを、アッラーのお望みに任せよう、と忍耐するのは役に立つ。「死こそが最大のもの」と勇気をお任せしようと忍耐するのは役に立つ。生への愛をお任せしようと耐えることすら、役に立つ。もう残っていないと分かっているのだから。我ら主へ、たとえ運命が厳しく過酷で痛み多きものだとしても。
 真剣な忍耐は待つことではない。待つのは待つことであって、忍耐ではない。待っていて、待っていることに不安でも辛くもないのだろうか。それも忍耐かもしれないが、そんなことならよく耳にする。あまり聞かないのは、この忍耐とは、待つことでは全くない、ということだ。耐えているそのことを、自分の一部、自分の人生の一部分、あなたの物語の一章だと考えることだ。地上の人間たちの物語は、最後には皆が幸せになる子供の物語ではない。この世には悲劇が沢山あり、わたしたちは誰でも、残念ながら、あっという間に悲劇の主人公になってしまうのだ。珍しいことではない。災難は、新聞に出てくる人々に起こるものではない。
 もし災難に襲われたら、忍耐することだ。それを生き、飲み、すすり、満腹するように、忍耐するのだ。忍耐するが、終わるのを待ってはいけない。それを好きになるよう、忍耐するのだ。自分自身を愛さなければならないように。災難は喜びのようなものだ。災難は自身から来る。自分自身だ。何であれ、終わるのを待ってはいけない。待っていてはいけないのだ。変えられるものなら、それを変え、変えられないものなら、それを生きるのだ。
 忍耐は成功の鍵ではない。忍耐は人間の鍵だ。