有名であるのは、奇妙で豊かで楽しい経験だが、非常な害にも成り得る。正直なところ、正確に評価することができない。お話するので、評価して頂きたい。
最初にテレビに出たとき、ことは驚くべきものだった。どこかに行って誰かに挨拶されると、とても嬉しかった。道を歩いていると、一緒に写真を撮る人がいて、有頂天になった。それからしばらくして、とても嫌なことが起こり始めた。どこかに行くとわたしのことを知っている人を探して、誰も挨拶に来ないと嫌な気分になり、それを心のなかに隠していたのだ。最初にそのことに気づくと、わたしは馬鹿げた病だと思った。これを心から取り除こうと、努力し始めた。これは実に時間のかかる骨の折れることだったが、アルハムドリッラー、すっかりマシになった。
いい加減な格好や髭が伸びたままや格好が今ひとつなまま、家から出られなかったのが、気にせず普通に出られるようになった。気に食わないなら見ないだろう。
ただ人が挨拶だけしにくるというのが、好きでなくなった。わたしのことを好いてくれて、挨拶に来てくれた時だけ、嬉しくなるようになった。有名である、というそのこと自体には、気持よくなくなった。しかし、誰かがわたしをその目で本当に見たことで大喜びし、それがわたしがテレビに出ているからでなく(テレビの箱の中にいる誰にでもただ挨拶する、という人が沢山いるようだから)、本当にわたしのことが好きで、わたしの努力を気に入ってくれて、わたしの考えにインスパイアされたからだった時は、どれほど満たされた気持ちになるか、言いようもない。会ったことさえない人間に、影響を与えることができたのだ。人間に、だ。
こうした驚くべき現象がとても喜ばしいのに、自分のことを「マシになった」というのは、こうした賞賛が自分で得たものではないからだ。仕事のせいだ。わたしの頭が得たものだ。わたしではない。頭でのことで、心ではない。信じて欲しいが、この違いはとても大きいのだ。
また、同じく有名であることによるもので、いくつか気の利いたことを認めないといけない。有名であると、通りでの激しい喧嘩に割って入ることができる。喧嘩している二人か、あるいは一人だけでも、あなたのことを知っていれば。魔法のようだ。これについては、本当に素晴らしい気持ちになる。
また細い通りで、道路がつかえてどうにもならなくなってしまったとき、有名だと、ボランティアの交通警官の役をこなすことができる。皆言うことを聞くのだ(ボランティアではない交通警官とは反対に)。これはわたしのとても気に入っていることだ。というのも、警官になりたいと思っていたから。
内緒だが、政府関係でも、有名であると人間として扱ってもらえる。特別なサービスをしてもらえる、という意味ではない。単に普通の人間として扱われる、ということだ。誰もが値する程度に(率直に、時には本当につまらないことだ)。だが、特別役に立つ人間でもなければ、これは公正とは言えない。嘘をつくわけにはいかない。わたしは、正直なところ、どこに何をしに行くのでも、わたしを知っている人がいるように祈っている。わたしのことを好きだったら、なおのこと素晴らしい。女性職員の一人が、娘がわたしの大ファンだったりすると、何でも言うことを聞いてくれる(笑)。1
政府関係以外では、違いがあってはならない。つまり、誰もがよく扱われなければならない。しかしやはり、大抵の場合、少なからぬオマケがある。
つまり、色々合わせるとこんなところになる。
第一:テレビに出ている人々は、テレビにいる間は、確かに皆さんの話を聞かない。しかし、隣にいる時は、普通に聞いてくれる。
第二:確かに、あらゆる有名人は、その分野で成功している。しかし忘れないで頂きたいのは、彼らもまた人間だということだ。彼にも問題や辛いことや考え事や、混乱させられることがある。つまり、色々ある、ということだ。
第三:成功と大衆からの人気、これはよろしい。しかし頂上、これは違う。大衆というのは、簡単に人を天高く持ち上げ、価値がないとするとどん底まで落とすものだ。それよりは大分値打ちがあるとしても。この点に関しては、他人のことは関係ない。しかし自分については、親愛なる皆さん、もしただ自分の聞きたい言葉だけをわたしに言わせたいなら、知ったことじゃない、それを言うことはない。いつでもわたしの思ったことを言う。そう言う必要があるのだから。信じて欲しいが、自分の聞きたいことだけを聞き、他のことに耳をかさないというのは、わたしたちのためにはならない。真理のためには多くの意見が要る2。
第四:わたしの仕事について誰かが言ってくれた、どんな美しい言葉も、決して忘れない。わたしの心と記憶に刻まれているのだ。彼らこそ真の糧だと思っている。そのお陰で仕事ができている。彼らに感謝したい。