何と言われるであろうか、この愚かしく厚かましく嫌われ者の、いつも都合を無視する客について。
この客は客でも何でもない。客はわたしたちの方だ。
死の苦悩については何も言いたくない。というのも、皆さんはすべて、それについてはよくご存知だから。だから、別の視点に目を向けさせたい。
まず、何人たりとも、死には素晴らしい長所があるということを決して決して否定はできまい。突然、人間のすべての責任が終わりになるのだ。恐れていたこの世のすべてのものが、不安だったすべてのことが、やらなければならないのやらないままでいた、できそうもないことのすべてが。突然、二度と難しい決定をする必要がなくなる。突然、何を言うべきか、またどう振舞うべきかを知るべく努力する必要がなくなる。突然、人が何を考えているのかがどうでもよくなる。突然、過去も未来も一緒になる。
突然、選択がなくなり、悩みがなくなり、これが良いかこちらが良いかということもなくなり、これをすべきかせざるべきかということもなくなり、正しいか間違っているかもなくなり、お話が終わりになる。この感覚に一番近いのは、試験が終わって答案を提出した時だ。少し不安でも、終わっていない問題があったとしても、重要ではない。大事なのは、この重荷が今終わったということで、それでもう全部終了なのだ。
このわたしの言葉に対する、筋の通った返答はこういうものだろう。「しかし、そう言えるのは、落第しないと分かっているか、欲しい点数がとれたと思っている時だろう」。これは正しい。試験は、大嫌いだった。しかし、わたしは優秀で賢く、落第を怖がったりはしなかった。
アッラーのみぞ知るところだが、わたしは自分が現世で優秀で賢いと思っているし、主が愛して下さっており、わたしの罪を赦して下さり、お怒りに触れるようなことはしていない、と感じている。主が美しく優しく、わたしのことをご存知である、とわたしは分かっている。わたしは自分が良い人間だと感じるし、時には良い人間だとはっきり思う。だからわたしは、死が怖くないのかもしれない。もちろん、知らないから、この目で見たことがないから、無知ゆえにこう言えるのかもしれない。ただの感覚だ。
そもそも、何が起こるのだろう? こちらの世界の主は、あちらの世界の主だ。こちらでの方がより恐ろしい。それから、わたしたちは元いた場所に帰るのかもしれない。魂というのはエネルギーではないか? 物理学者あ、エネルギーは創造されず、消えることもない、と言う。つまり、わたしたちの魂は、身体に住む前はどこかにいて、また同じ場所に帰る、ということは大いにありそうではないか。あちら側にあっては、間違いなく、恐ろしいものは何もないだろう。それから、わたしは一人で死ぬのだろうか? わたしが死ぬ時にわたしの身に起こるであろうことは、以前に死んだ無数の人々の身に起こったことで、その誰も戻ってきて不平を言ったりしていないではないか。そうだろう?(笑)((ここには:)という顔文字が書かれている))
死はまた、わたしの考えでは、好奇心を満たす重要な考えをもたらしてくれる。わたしたちは、自分の人生すべてを生きてはいないし、死について知らないし、まったく何も知らない。それが分かるのだ。なぜこの死の瞬間が、光の時でないだろうか。真の知識の光、唯一の神たる主の知の光だ。現世で主を信じていなかった者でも、信じることになる。信じていた者は確かめることになる。その瞬間、彼に至福を与える者が、明らかにされるのだ。その確信に喜ぶ瞬間がやって来るのだ。
確かに、こういう恐ろしいイメージが語られている。つまり、墓場で死人が「お前の主は誰か」と、膝が震えるような声で言われる、というものだ1。しかし、この人物が恐ろしい人だと、誰が言ったのだろうか? なぜ、低く美しい声で、優しく問われるのではないのだろう? なぜ、元よりわたしたちの知っている質問が、問われないということがないのだろう? アッラーはわたしたちについて、わたしたち自身よりご存知なのだ。
よろしい、嘘はつけない。わたしは、本当に死を恐れていないかもしれないし、本当に生に執着していないかもしれないが、娘がこの世にやってきた時から、主にこうドゥアーするようになった。「主よ、彼女が強くなり、わたしなしで生きていけるまで、どうかわたしの寿命を長らえて下さい。彼女に教えうることをすべて教えるまで、どうかわたしの寿命を長らえて下さい」。
それから、この文章を書いている時、涙が流れて目が痛むほどになった。余りに感じるところが多く、何が原因なのかわからない。もう十分だ。
長く沈黙しよう。
- イスラームにおいて、死者は墓場で天使に「お前の主は誰か」と問われ、アッラーに帰依する者は優しい天使が審判の日まで付き添ってくれる、と言われる [↩]