最も偉大な芸術

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 芸術は皆、本当にわたしを幻惑する。創作する、無からアイデアを創りだす、声もなく語れる言葉もなく、アイデアから絵を創りだす能力。紙と少しの絵の具、そして芸術家が何か言いたいことがあれば、絵ができあがる。ここで起こったことは、街ではほとんどの人に無視される。しかし少しの人たちは心を留め、ある人はそこから詩を書き、あるいは物語を綴り、別の者は彫像を掘ったり、他のことをしたりする。芸術の眩さだ。
 芸術の眩さは、わたしにとっては、人間のことでもある。なぜなら、創作と創意はただ人間だけの能力だからだ。他の被造物も実際芸術を行い、ダンスや音楽や複雑な工学を為すが、他の被造物は、意図して芸術や創意を為したりはしない。わたしたちだけだ。
 芸術は、絵や音楽や彫刻といったものだけではない。製造機械も芸術だ。考えてみた欲しい。人が機械にものを入れると、別のところから別のものが出てくるのだ。もちろん芸術だ。しかも複雑で正確で、本当に細かいところまで気を配られた芸術だ。
 もし、細部に至る理解とそれを正確に扱うことが芸術なら、讃えある至高なる我らが主は、疑いなく最も偉大な芸術家だ。存在をよく観察し、その細部と、被造物と創造の詳らかなるを見つめれば、主の無限のお力に驚かされる。地と蝶とキリン、ペンギン、そして人間自身、花、果物、星々、銀河、宇宙、創造されたすべてのもの、これら自然の美しさについて考えれば、主が、お創りになった美を愛する類まれなる芸術家であり、作り出した芸術を誰かに見られることを必要としない、至高にして崇高なる最も偉大で力ある芸術家だ。主が存在の創造において最も独創的なのは、それが出来るからで、その偉大さを評価されたり認められたりすることを必要とされない。
 存在の秩序の正確さを見ると、知悉される創造主があらゆるものを絶妙な計画により創造されたのだ、と確信する。しかし、創造のこの美的側面について考えると、少し奇妙な問いが頭に浮かぶ。率直にいって、これを考えないでいられない。主は、存在を創られた時、例えば28,000種の異なる蝶を創ろうと決められたと思うだろうか?(これは色のついた蝶だけだ。蝶すべてだと、150,000種類になる) 主は、ただ一度の決定で、240,000種類の異なる花を地上に創られたのだろうか? それとも、芸術が創作されるようだったのだろうか? アイデアからアイデアが、またアイデアが、そこからアイデアが、という具合だったのだろうか? そもそも、主は、猿とキリンとライオンと蛸と蛙とアメーバと猫と犬と、数えきれないすべての被造物を、一緒に創造されたのか、それとも別々のアイデアから創られたのだろうか?
 わたしは個人的には、この世には、絵画のように、一筆一筆といった具合に創られた美はない、と感じる。もちろん、この問いに対する答えを知ることは不可能だが、それでも、問うことは過ちではないだろう。愛ゆえに、というのもあるし、主の偉大さに対する当惑ゆえに、というもあり得る。単に問いが頭に浮かんだから、ということすら。どうしていけないことがあろう。
 こうしたことを言う目的は、本当のところ、問うことはハラームでも何でもない、ということだ。主は、例えばこの問いのような問いを、問うことのできないように創造されることもできた。しかし、偉大にして至高なる御方は、それができるように創られたのだ。確かに、このような問いに答えられるようには創られなかった。しかし問うことは出来るようにされた。もちろん、これもまた、何故なのかは知らない。しかし、問いが好ましいことだから、というのはあり得ることだ。