目の欺き

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 疑いようもなく、わたしたちエジプト人は、地上で最も敬虔な人々に入る。これは、歴史的社会的にわたしたちに植えつけられた性質なのかもしれない。もちろん、現在多数派の宗教はイスラームだが、エジプトは、その長い歴史の中で、常に宗教を重んじ、神聖化してきた。
 これが本当に唯一の理由なのであれ、他に敬虔である理由があるのであれ、エジプト人には明白なことだ。経済状況から、教育方法、政治的状況、(驚くべき)社会的性質、宗教的説教の種類や、その他のものに至るまで。本当にあらゆる状況において、エジプトには敬虔さが見られる。人に「おはよう」と言えば、「アライクムッサラーム」と返され、「使徒」と言えば「彼の上に祈りと平安を」と返され、喧嘩すれば「ラーイラーハイッラッラー」と言い、仲直りすれば「スブハーナッラー」と言い、新しいものを手に入れたら「マーシャーアッラー」と言い、エレベーターに乗ったら乗り物に乗るドゥアーを詠み、店に行けばクルアーンが聞こえ、タクシーに乗ってもクルアーンが聞こえ、誰かと電話で話していて保留にされたらまたクルアーンが聞こえ、怒ったら「サッリーアンナビー」と言われ「アスタグフィルッラーフルアジーム」と言い、モスクは人で溢れ、いつもそこには沢山の祈る人々がおり、ラマダーンのタラーウィーフにはもっと沢山の人々を見ることになる。宗教番組ばかりか、宗教チャンネルも沢山ある。アッラー、アッラー、アッラー、この言葉はとても美しい。もし外からわたしたちを見る者がいたら、この人々は天国に列をなして入る、と言うだろう。
 敬虔な人に溢れたこの社会が、一度通りに目を移せば、同じその社会で、女性が人の見ている前でからかわれ嫌がらせを受けているのに、誰一人非難するものもいない。同じその社会で、ほとんどの人々が仕事に行っては、働くでもなく時間が経つのを数えている。「まことアッラーは、汝らが習熟を目指し働くのを好まれる」。これは宗教ではなく、楽しみか何かではないのか。「汝の兄弟に微笑めば、それはサダカ1である」。これも宗教ではなく、ビドア2なのか? 「アッラーは売るときに心寛く、買うときに心寛き者に慈悲をかける」。これは宗教のものか、それともそうではないのか? 「まこと我は品性の心寛さを完成させるべく遣わされた」は宗教か、そうではないのか。わたしたちに品性の心寛さがあるだろうか?3
 近くの大学を訪れて、マイクの音が大きくて迷惑だから下げてくれ、と言ってみれば、失われたイスラーム文明を守っているかのように振舞われるだろう。彼らの守っているのは、醜く卑しい行為で、宗教とは何の関係もないのだが。イスラームには、マイクも巨大スピーカーもないし、時にはロバの鳴き声より忌まわしいのに自分ではナクシュバンディーだと思っている声もない。
 死に際しどう振舞っているか見てみよう4。敬虔に見える人のほとんどが、エジプト家庭の大半でどう振舞っているかご存知だろう。あなたに賄賂を求める人は、礼拝していないだろうか。あなたが最近頼んだ仕事で手抜きをした人に、礼拝ダコがなかっただろうか。どれほどの人が古いものを新しと言って売っているか。人々が互いにどんな風に喋っているか。どんな風に運転しているか。どれほど物事を誤って伝えているか。どれほど不正の前に沈黙しているか。どれほど不正を行っているか。どれほど為すべきことを行っていないか。どれほど人を恐れ、創造者を畏れていないか。誰でもいいが、上のようなことを行っている、あるいはそれ以上にやっている者たちが、礼拝したり斎戒したりしていないだろうか。わたしたちは、美しく心寛く広大な宗教の、ほんの皮の部分しか為していないのだ。もし、この宗教が望まれる形で理解されたならば、わたしたちがいるのとはまったく異なる社会となるだろう。敬虔さが、その後ろにわたしたちの醜さ、嘘、欠点、我侭、仕事や他人や国や世の中に対する気遣いのなさを隠すカーテンとなってはならない。だが彼らが巧みなのは、歓声をあげることとスローガン、アッサラームアライクム・ワラフマトゥッラーヒワバラカート5なのだ!
 人々が自分の望むことしか見も聞きもしないのには慣れている。最初に戻って一文字ずつ読みなおしてもらいたい。わたしが敬虔さも宗教そのものも決して批判していないのが分かるだろう。空っぽで意味も価値もない方法を批判しているのだ。残念ながら、現実には、これがわたしたちの大半の信仰における方法なのだが。
 ところで、ここでキリスト教徒たちについては触れていない。エジプトのコプト教徒たちが皆天使のようだから、というのではない。微妙な問題を避けたいからだ。お前には関係ないことだろう、と言われないために。
 しかし、ムスリムのことだけを言いたいわけではない。言いたいのは、どんな人間でも、主を知りたいと望んでいるように振る舞いながら、そうではないことばかりをしている者、人に主を知っていると見せる者は、間違いなく何一つ知らないということだ。
 アッラーこそ全知であり、わたしは物事を分かっていない。しかし、こんなことが心に浮かぶ。確かに宗教はすべて、主への信仰が目的だが、同時に、どんな歴史上の宗教でも、人間が作った宗教ですら、――信仰のすぐ次、あるいはそれ以前に――行いを正すものであり、倫理性を高めるものであり、ことを尊び地上を栄さすものだ。
 それだけだ。

  1. 任意の喜捨 []
  2. イスラームに後世付け加えられた逸脱 []
  3. ここに挙げられたいくつかの文句はハディースからの引用で、人々はこれらの言葉を好むが、口先だけで実行しないことを指摘している []
  4. 神の使徒リオは、近親者の死を前にした時こそ敬神が分かる、と仰った。悲しむことは不自然ではないが、取り乱し喚き、主に問いただすものは不敬である。まこと我らはアッラーのもの、アッラーの元へ帰るもの。ここでは、人々の実際の敬神を確かめてみよう、という意味で使われている []
  5. 丁寧な挨拶の言葉 []