「器は中身によって熟す」について

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(訳注:本章タイトルは「器は中身に応じて熟する」という諺で、「名は体を表す」のように、内面は自ずと外見に表れる、ということを意味している)

 この諺がとても気に入っている 。人間社会はすべからく「中身によって熟す」だ。この世のどこの通りでも、歩いて周りにいる人達を眺めてみれば、自ずと彼らについて知れるものだ。「中身によって熟す」。だが今は通りのことはおいて、個人について考えよう。
 それが正しいことなのか知らないが、この諺は大抵、人を罵ったりバカにしたりする時に使われる。誰かがくだらないことをすると、それは彼がそもそもくだらない人間だからだ、というわけだ。しかし僕としては、これと相似的ではあるものの、違う方面から考えてみたい。例えば、愛の入った器は自ずと愛が表れる。優しく育てられた人間からは優しさがにじみ出るし、教育ある人間からは教養が、力あるものからはその力が、敬虔な者はその態度に信心が表れる。賢く進取の気風があれば、その考えに表れる。その他もろもろ、自ずと明らかになるものだ。
 この言葉について考えるのは、もし何も喋らず何も行わず、態度にも出さなければ、「熟する」ものは何もない、ということだ。すべては内面にこもったままで、誰にも知ることができない。だが一度口を聞き、あるいは身振りを示すだけでも、器はいっぱいになり、「中身によって熟す」。必ずしも他人にとってあからさまである必要はない。自分自身について、自分が発見するかもしれない。ある状況である仕方で振る舞うことで、自分自身が発見される。よくよく眺めてみれば、自分について知らなかったことが明らかになる。
 これは凄い考えだ。これに気をつけていれば、自分を拡大して映す虫眼鏡を手にしたようなものだ。よく観察して、何事につけ良し悪しを見分ける。いわば外にある良心だ。良心と同じ働きをするのだ1
 もちろん、「熟して」いるものを誤魔化す人というのもいる。腐ったトマトでいっぱいなのに、新鮮で綺麗な柘榴のように振る舞う。最高に抜け目ない人でも騙されてしまうことがあるだろう。すべて丸見えのガラスの器のように振る舞う人もいる。よく見えているようで、近づいてみてみると違って見える人もいる。その他様々な人たちがいる。
 また、物事をどう受け止めるかによっても、人となりが知れる。良く受け止める人は、良い人だということだ。いつでも善意を汲もうとする人は、善意の人だ。学問の値打ちが分かる人は、賢い人だ。芸術を愛する人は、芸術家だ。
 人がいつもある角度から世の中を眺めているからといって、色盲のように、真のものごとを見ることができていない、と言いたいのではない。僕が言いたいのは、あなたの目がそもそも何を見て、何に興味を持ち、何を探しているか、そういうものすべてが、あなたがどう振る舞う人なのか、あなたが誰なのかを表している、ということだ。二人の人がある人に会って、それから別れた後、一人は「立派な人だね」と言い、もう一人が「暗い人だね」と言い、また一人は「立派だけど暗くて、でも頭がいい」と言う。それぞれがそれぞれの振る舞いに応じて、自分とは違う振る舞いをする人について、違った見方をする。
 どこの天才の言ったことか知らないが、これこそが自分の認識、物事の見方、好み、知性を映し出すものだ。
 今日の教訓は、誰でも常に、その内にあるものによって「熟する」ということだが、僕の考えとしては、他人がどう「熟して」いるかは放っておいたらいい。自分がどう「熟して」いるのかしっかり見ているならば。自分が実際のところどう振舞っているのか、簡単に知ることができる。

  1. 良心は内面にあるものだが、自分の態度を自分で見つめ直せば、それが第二の外なる良心になる、ということ。この考え方は「恥」という概念に通じる []