かつて革命があった
アムルとトゥアーのための大物語
心より愛するアムル
我が光トゥアー
ウムールとトゥータへ1
この話は、大きくなってから読んで理解して欲しい。
学校の歴史の教科書でこの話を見るかもしれないし(お前たちの運が良くて、学校の責任ある人達が立派であるなら)、まったく見ないかもしれない(運が悪く、お前たちの過去が盗まれていら。丁度奥の人々が、その過去と未来を盗まれていたように)。
別の人が別の仕方で話すかもしれない。
そもそもそんなことなかった、と言う人もいるかもしれない!
でも絶対にこれは、僕がこの目で見た本当のお話だ。
そして間違いなく、お前たちはパパを信じてくれるだろう。歴史の教科書には反対のことが書いてあるかもしれないが、パパはどんな歴史の教科書より信用できる。
だからこのお話は、2011年の今読むためのものじゃない。お前たちのためのものだ。
アッラーがこのような運命を下されないといいが、もし誰かが2011年1月25日を悪く言ったら、あるいは2011年1月28日を、あるいは百万人のデモを、あるいはタハリール広場に行って歴史と政治を変え、かつては夢でしかなかった美しいイメージを祖国に抱き、体制を打倒した若者たちを悪く言ったら、お前たちには、この若者たちが誇り高き立派な人達だったと知ってもらいたいのだ。
彼らについて悪く言うどんな言葉も決して信じないでくれ。
エジプトのテレビで言われるかもしれないどんなことも信じないでくれ。
そもそもあれはテレビじゃないし、エジプトのものでもない。
あれは彼らのものだ。僕らのものじゃない。
お前たちが理解するために、お前たちの周りの者たちが、なぜそれが起こったのか理解するために、最初のところから話をしないといけない。
始まりの始まりからだ。
ご静聴あれ紳士淑女諸兄、物語の始まりだ。
語りまするは、パパのムハンマド・ファトヒーだ。
パパって誰だって、誰かが聞くかもしれない。なぜ彼が話すんだ、って。
僕が話すのは、それが僕の物語だからだ。それぞれがそれぞれの物語を語るだろう。
この物語は国全体の物語なんだ。
パパが誰なのか知りたいかい。お前たちくらいの歳の時に、どうやって暮らしていたか。
あるいはお前たちよりちょっと大きかったかもしれない。ちびっこちょっとだ、ウマル、分かるかい。
僕は1980年に産まれた若者の一人だ。
僕が一歳になり、何か声を出し、ちょっとした子供らしい動きをして、いかにもエジプトの子供らしく何にでもツバを吐くのを覚えた頃だ。「ほら、おじさんにツバを吐いてやれ」とか教えられるアレさ2。言葉を覚える前に、サーダート大統領が殺された。戦争と平和の英雄と言われた、1973年10月6日にエジプトがイスラエルに勝った時の大統領だ。
1981年の同じ日に殺された。
軍服を着ている時に、彼を不義の暴君ファラオだと思う人たちに殺されたんだ。
僕はサーダートを知らなかったけれど、大きくなって彼について読み、彼は立派で偉大な人物だったけれど、他のあらゆる人と同じく、権力に取り付かれてしまったのだと思った。自分が正しくて、反対するものは間違っていると思ったんだ。
そして多くの人を間違っていると思った。
当然のように、多くに人々が彼こそ間違っていると思った。
間違いは正されないといけない。
そして実際、その人々は、残念ながら、彼を殺してしまった。
それから副大統領が彼の代わりになった。
ムハンマド・ホスニー・ムバーラクが、エジプト・アラブ共和国大統領になったんだ。
まったく、エジプト大統領ってのがどんなものだか知っているかい?
この世で最も美しく清らかで勇敢な国の大統領さ。
凄いことだよ。
名誉に栄光、そのまた栄光だ。
聖クルアーンでも語られている国だ。
預言者(彼に礼拝と平安を)が、地上最高の軍あるべしとそのご家族を任された国だ。
歴史のすべてのページで、野望を抱いたものの墓が溢れる国だ。
この美しい国の大統領が、ムハンマド・ホスニー・ムバーラクになった。
前アラブ人民の壮大な夢であった統一実現の英雄、ガマール・アブドゥンナーセル3のようになるだろうか。
あるいは戦争と平和の英雄、サーダートのようになるだろうか。
そう問われると、彼は驚くべき真理を答えた。
わたしの名はホスニー・ムバーラクだ。
偉大なるアッラーに国を守ることを誓った時、その右腕は銃撃を受けて包帯を巻かれていた。サーダートが撃たれた時、隣に座っていたからだ。
しかしサーダートを殺した銃弾は、その横にくっついて座っていたホスニー・ムバーラクを殺さなかった。殺した者がこう言ったとか。「お前じゃねえ! サーダートだ!」。
ムバーラクが彼らの仲間だった、と言う者もいる。
それでも、当時の人々にとってのムバーラクのイメージは英雄だった。そうだったし、そうした。
1973年10月の航空部隊隊長だった。
そして今度は大統領だ。
サーダートが投獄した公人たちやジャーナリスト、文学者やその他の多くの立派な人々を彼が釈放した時、皆は祝福し、偉い男だと言った。サーダートは彼らに悩まされるのがイヤで牢屋に入れていたのだ。
とりわけ皆が喜んだのは、彼らが解放された時、宮殿に迎え入れて慰労し、客としてもてなしたことだ。そして彼らに、平穏に暮らすよう言ったのだ。
それから、ニ任期以上は立候補しない、死に装束にポケットはない4、と言った。
なんと素晴らしい!
二期だけつとめて、その後は元大統領になるなんて、なんてこの男は禁欲的なんだろう。この言葉で人々が、どれほど他のすべての大統領たちとの違いを感じたことか。死ぬまで権力を手放さなかった者たちとは違う、と。
僕がもう少し大きくなってこの言葉を聞いた時には、僕らの大統領にとても満足したものだ。
僕はムハンマド・ホスニー・ムバーラク大統領の時代を生きているんだ、って。
僕はある時期、彼のことが好きだった。
大好きだった。
でも大きくなって、気がつくと30年間も彼の時代を生きていた。
多くのことが変わっていた。
ただ彼を除いて!
彼の時代に働いていた者は、30年経って年金生活に入った。
彼の時代の初めに結婚した者は、子供を産んで、その子が結婚して、孫ができた。でも彼はまだそのままだ。
アメリカ大統領が五回変わったけれど、彼はまだそのままだ。
世は移り変わり、ソ連は倒れ、ドイツは統一し、ベルリンの壁は崩れ、世界中で戦争が起こった。
でも彼はまだそのままだ。
彼の時代に産まれた者は、他の時代を知らないのだ。そして僕がこれを書き始めた時も、彼はまだそんままだった!
僕もまた彼の時代を生き、大きくなり、他の者を見ていない。
彼は陽気で、それが僕は気に入っていた。控えめな夏用のスーツで皆んなのところに来て話し、普通の人のように接した。
人々のところを訪問し、農民のところにもいって茶が飲みたいと言った。
一緒に食事すらしたかもしれない。
なんて謙遜なんだろう。さあ写真家は写真を撮り、テレビは映し、ジャーナリストは書いてくれ。
本当に嬉しいことだったし、間違いも少なかった。彼がサーダートの平和路線を継ぎ、タバ5も含めたシナイの完全返還を実現したことに、皆は喜んでいた。国際的な同意を取り付けたんだ。
占領されていたエジプトを、最後の一粒まで取り返したんだ。
また、サーダートと平和条約のせいで断交していたアラブ諸国との関係を回復した。
皆は本当に彼に喜んでいた。そして辛抱強かった。エジプト人はよく忍耐し、ラクダよりも男らしい。国のためならどんなことでも耐えられる。そして話している人間が好きで、そのやり方が良い感じだったら、何にでも納得できる。
エジプト人は美しい言葉が好きで、また彼の笑顔にも虜にされた。
これが当時、ホスニー・ムバーラクに起こったことだ。人々が彼を好きだったから。
それから何年かして、皆は歌い始めた。我らが彼を選んだ、我らは彼に従う。
おかしいのは、こんな風に10月の式典で歌うのだけれど、これでどれだけのお金が使われているかちょっと考えたら、大災難だって気付くってことだ。そのお金で工場を作るとか、何かの部門を増進するとか、少なくとも舗装されていない道路を舗装するとか、電灯のないところにつけるくらいはできた筈なんだから。
軍の式典とテレビの式典で莫大な額を使っていた。
この二つが、一つのイベントの為に、一週間行われた。
式典は民衆が10月の件を祝い思い出すために行われていた。
でもそのために何千、いや何万ものお金が使われていて、誰もそれがどこからどうやって来て、どこに消えていくのか知らなかった。そしてこの式典の大盤振る舞いが何のためなのか、誰も考えなかった。
それに、10月戦争の本当の英雄、真の勝利者は、エジプト民衆だ。
それなのに毎年、エジプト民衆の偉大な勝利が一人の人物に帰されて、我らが彼を選んだというのだ。
僕は自問した。選んだことと10月戦争に何の関係があるんだ?
それに彼を選んだというのは誰だ?
僕個人としては、自分は選んでいないことに気づいた。
また誰にも従うことを誓っていない。
それなのに、なぜ他人が僕の名において語っているんだ。
確かにあの頃、僕は彼が好きだった。でも委任されたわけでも、許し得たわけでもないのに、僕の名において語るというのはどういうことだ。
それからうんざりしたのが、あの歌の歌詞だ。
「我らは彼と共に、アッラーの望む限り」。
アッラーの望む限りというのは、つまり永遠に、という意味だ。
でも主は2011年に彼に悪いことが起こることを望まれた訳だけれど。
偉大なるかなアッラー、僕は本当に彼のことが好きだったんだ。丁度どんな子供も、目の前にいる人に結びつきを感じて、他には感じないように。
要するに僕が彼を好きだったのは「無法者以外とは付き合いを大事にしろ」6というせいだったのかもしれない。
実際、「付き合い」はなくなった。
つまるところ平凡な話だ。
誤たない者の偉大なるかな。
僕はアブドゥンナーセルを知らない者の一人だ。
サーダートも見てない。
また10月戦争の勝利も見ていない。これはエジプト民衆のものだったけれど、ガマール・アブドゥンナーセルの作戦のお陰とされた。
そしてサーダートの時代には彼のお陰とされ、彼一人の天才性がもたらしたものとして、戦争と平和の英雄と言われた
ムバーラクの時代には、彼の航空攻撃のお陰とされた。この空襲こそが原因ということになった。
この勝利はエジプト民衆以外の何者のものでもないというのに、なんとまあ、多くの人々はお世辞の才能に恵まれているのだ。
ウマル、僕は戦争に言っていない。トゥアー、僕は生まれて以来、先人のような大きな困難にあったことはない。
ただ三つのことだけを除いては。
でもこれは大きなことだ。ちびっこちょっとじゃないぞ、ウマル。お前にも分かるだろう。
ぴったり三つ、それ以上でもそれ以下でもない。
貧困なるもの。
汚職なるもの。
抑圧なるもの。
抑圧とは何かと言ったら、それは汚職だ。抑圧なしの汚職って何だ、と即答する。
みみっちい汚職。
盗むけれど、バレない程度に盗む。
汚職も人を押し潰さない程度なら、まあいいか。
人を殺さないような汚職なら。
ちょっと取るけど苦しめない汚職なら。
いかなる場所、いかなる名のもとにおいても、汚職に手を汚す者に呪いあれ。
汚職は汚職よりマシ。
でもちょっとした汚職なんてものは、僕らのところにはなかった。
なぜなら、僕らのところにあった汚職は、ちょびっとなんかじゃなくて、溢れるほどだったから。輸出できるくらいだ。
そうすればエジプトの借金もどうにかできたろう。
僕は、この三つのものに苦しめられ踏みにじられる人々の一人だった。
貧困。なぜって、僕が物心ついた頃には、エジプトの人口は6000万だったから。
そのうち5900万は貧乏人だ。
そして残りの百万人に仕えている。
彼らのために働いている。
それで家族計画と言う。
キッチリしろと。
コントロールしろと。
大統領が演説で曰く、
「子供が一人か二人なら、靴下を買ってやれる。それ以上いたら、靴下に継ぎを充てることになってみっともない」!
ああ、まったくだ。
大統領は本当にこう言ったんだ。しかも一度の演説じゃない。
曰く、補助金のお陰で、よそでは1ギニーするエーシが5イルシュだって7!
アッラーにかけて、本当にこう言ったんだ。
僕らは言った。「何とありがたい、彼の手に接吻しなくちゃ、こりゃお恵みだ、贅沢言っちゃいけない」。
僕の父さんと母さん――お前たちのおじいちゃんとおばあちゃん――はそう言っていた。
父さんと母さんは借金で暮らしていた。お気に入りの諺は「身の丈にあわせて生きろ」「足るを知れ」だ。でも世の中は皆んな「慕うなら月を慕え、盗むならラクダを盗め」 と言っていたのだけれど。
つまりどうせならでっかく盗めってことだ。
本当に泥棒はがっつりと盗んでいった。
ラクダ一頭どころか、八千万頭盗んだ。
国全部を盗んだ。
でもアルハムドリッラー、僕は泥棒じゃないし、こういう風に育った。
一方僕らを苦しめていた汚職は、ほとんどの金持ちたちのせいだ。金持ちたちは、彼らの何百万倍も盗み揺すり巻き上げていた。
それだけじゃない。
この汚職には、死んだ後でも出くわすことになる。
今でもよく覚えているけれど、墓場の土を運ぶという馬鹿げた話しが、突然何の検討もなく決まったんだ。
また、相続しようと思ったら誰もが味合わされることになる面倒や問題について、僕らはよく知っていた。相続金を手にするまでに、沢山の方面に沢山の金、沢山の賄賂を渡さないといけない。これをどうやって相続金で支払うんだ?
世の中に溢れている麻薬のことを、治安当局が知っていて、そればかりか広めてすらいるのも周知のことだ。麻薬商人の手入れなんてのは、ほとんどが見せかけだけだった。残りの手入れも、到底麻薬の広がりを止めることなんてできなかった。
この頃の映画のテーマが、みんなヤク中の話になったくらいだ。
一方、僕らが味わっていた抑圧というのは、ここで僕が言ったようなことを言うヤツがいると、メディアは決まって、そいつを嘘つきだの分かっていないだの、恨みがましいだの犯罪者だの、外国のスパイだのと言うのだ。
そのメディアが言うことと言えば、自由だ。
これは特定の人のためのもので、すべての人のためのものじゃない。
どんな反対者にも大騒ぎして、スパイだのと言うから、皆はそういう人を気の毒に思ったくらいだ。たとえ本当にスパイだったとしても。
これが民主主義華やかなりし時代のメディアだ。
テレビも新聞も何もかも検閲。
そして、僕たち皆んなが味わっていたもう一つの抑圧が、警察によるものだ。警察が人々に尽くすのでなく、人々が警察に尽くす。
警察はほとんどの人のことを、泥棒かチンピラのように扱った。
誰にでも酷い罵りを浴びせ、馬鹿にし、拷問にかけた。
マシな方でも、顔なり頭なりをひっぱたかれる。それで皆は彼らのことを憎むようになり、まるで先代からの敵のように思うようになった。
警察は必要な時にはいない。調書をとって欲しいとか誰かについての苦情を訴えたいなら、話しを通してもらうのにお偉いさんを知っていないといけない。そうでなければ、警官に金を払う。正しいちゃんとした調書を書いてもらうために。そして誰かを逮捕するとかしょっぴくとかいう段になると、また別の警官に払う。そして三度目の金は、裁定実行の時に警官に支払う賄賂だ。判決が下された人間を収監するのに、また金を払う。
消防署も大抵は火事が消えてから到着する。国民カードだとか証明書とかで役所にいけば、こっぴどい目にあって、これまた賄賂を払う。運転免許を取るなら、何人かに金を払えば、テストなしでも免許が貰える。たとえ運転できなくてもだ。こういうのが町に出て運転して事故を起こして人を殺したら、資格のない人間に賄賂をもらって免許をやった警官の汚職のせいだ。
その警察が、喧嘩があると終わった頃に来る。頼りになるお偉いさんにコネがあり、色々口をきいてもらえるなら、皆んなの中で大きい顔がでいるし、好き放題できる。
八十年代の後半、僕が大きくなった頃、つまり言って良いことの分別がつくようになった頃、皆と一緒に出かけてカサブランカのアラブ・サミットから帰ってきた大統領の出迎えに行った。それまで断絶していたアラブ諸国から大歓迎を受けてきたんだ。
僕は大勢の出迎えの人たちと一緒に空港の道で待った。皆は歓声をあげていたけれど、一体なぜ何に歓声をあげているのか分かっていなかった。
その日は、食事と旗が支給された。
その時僕は理解した。こういうことが、選挙とか国民大会とか国民投票とか海外訪問からの帰国の度にあるんだって。
その時、僕が本当に彼のことが好きだったということは否定できない。
僕は子供で、出かけて歓声をあげ、大統領が車から手を振ってくれるのを見るのが嬉しかったんだ。何時間もまった挙句、一瞬見るだけだったけれど。
もちろん、食事と旗も嬉しかった。その旗はいつも、アッ=シャラビーヤ8の青年センターに帰ると、貸し出しているだけだと言って取り上げられてしまったけれど。でも本当は、取り上げたヤツらがそれを売っていた。
僕はその食事のお金がどこから来るのか、疑問だった。誰のお金なんだろう? でも誰も聞いてくれなかった。皆んな「黙れガキ」って言うだけだった。
僕は黙って、小賢しく尋ねるのをやめた。「もうお前は連れていかないぞ」って言われた。
でも親切な人が教えてくれた。国の予算から出ているんだって。
つまり国は皆んなから税金をとって、青年センターにお金をやって、それで皆んなが出て行って大統領に歓声をあげ、「我が魂、我が血をもって贖おう、おおムバーラク」とか言っているんだ。サンドイッチと旗で僕らをひっかけているんだ。
この奇妙な馬鹿騒ぎを見ればはっきりするだろう。あいつが個人的に国の金を使っていて、逆ではないんだって。
僕は大きくなると、なぜだか分からないけれど、人民議会の中継を見るのが好きになった。
その時の人民議会議長ラファアト・アル=ハグーブが、挙手の数も数えないで可決と言っているのを見た。内務大臣ザキー・バドルと彼に反対する人の間で起きた怒鳴り合いと罵り合いも見た。ワフド党の新聞に載った警察署での拷問の写真が、ワフド党アイマン・ヌールの捏造だって言うんだ。
ザキー・バドルは、公開会議でこの人を罵り宗教すら罵倒して、退場させられた。ある新聞(たしか人民新聞だったと思う)が、その下品な罵り言葉を一面で載せた。その息子のアフマドは、二十年後にアイン・シャムス大学の学長になって、学内デモを解散させるためにチンピラを中に入れた。教育省を掌握していたから。その親父は品性がアレなせいで追い出されたんだけど。アレってのが何なのかはご想像にお任せする。
それからしばらくして、アイマン・ヌールはスパイだと言われた。国の治安筋から命令を受けていて、内務省の犬なんだって。それがしばらくすると、立派な反対者ということになった。さらにしばらくすると、明日党党首になった。オレンジ革命があった。それから形だけ大統領選挙で50万票を取って第二位になったけれど、不正があったということで投獄された。それが濡れ衣だって皆んな知っていた。投獄されて、ネルソン・マンデラみたいな抵抗者ということになって、それから釈放されたけれど、ビザ停止処分になった。
僕がまたちょっと大きくなって、この国の住宅問題の話を聞いた。馬鹿みたいに高くて誰もフラットを手に入れられないって。それから二十年経って、土地は沢山あったのに、国が投資家に二束三文で売ってしまったのだと分かった。投資家はそれをバカ高く売りさばいたのだけれど。
つまり国が危機の時には、土地もフラットもあるのに解決せず、ちょっと余裕ができると人々を騙して絞りとったのだ。汚職に走るものたちが彼らを助けて国を独占し、国の土地を自分のものにした。犯罪的なのは政治で、それを行なっているのは大臣だ。それを任命した者の名が、ホスニー・ムバーラク大統領だ。つまりこの国のすべての責任者がホスニー・ムバーラクなのだ。もしこの国が素晴らしければ、それはムバーラクのお陰だし、もし国がクソッタレだったら、議論の余地なくムバーラクのせいだ。
僕はまた、資産運用会社というもののことを聞いた。これは皆からお金を集めて運用し、銀行よりずっと良い利回りで返す、というものだった。
テレビにも新聞にもこれらの会社の宣伝が溢れ、政治家たちや責任ある人々、シェイフたちも褒めたたえていた。
皆がこれを信頼していた。政府がするにまかせていて、どんどん大きくなり、誰も文句をつけていなかったから。
ところが突然、これらの会社はコソ泥野郎だと分かった。皆の金を盗んで、そのほとんどがエジプトの外に金を持って逃げた。大勢の人が目を回し、一生かけて貯めてきた貯金がパーになり、声もなく崩れ落ちてしまった。
この問題が解決するには長い時間がかかった。会社の連中を捕まえるか、借金の支払計画を立てるか。大勢の人が損失を被ったのだから。国の経済には大打撃だった。その経済の立て直しに僕らはうんざりしていて、多分ダメだろうとも思っているわけだけれど。
僕が十歳になった時、選挙で不正があった。小学5年生の時だ。
誰が当選して誰が落選するか、皆んな分かっていた。
誰が金を払って票を買い当選し、誰が払わずに落選するか。誰が大統領の側で、誰がテロリスト、その名もムスリム同胞団の側なのか。
誰に警察が味方し守り、誰が選挙前に捕まったり、テロをかけられたりして落選することになるのが。
90年代のはじめに、テロの波が始まった。
多くのイスラーム過激派が現れ、沢山の暗殺を行い、あちこちが爆破された。彼らは町を支配し、大臣たちの車列を爆破することを計画し始めた。
この時期、僕は、ある爆破の犠牲になったシャイマーゥという子を想って泣いた。その前だったか後だったかよく覚えていないけれど、アル=マフグーブが殺されて、報道大臣のサフゥワト・アッ=シャリーフと内務大臣ムハンマド・ハサン・アル=アルフィーは、暗殺にあったけれど奇跡的に生き延びた。この頃の僕は悩み深く、思い出も暗く惨憺たるものだ。
僕は暗殺をする連中に怒ったが、同時に、このテロという名の化物に対して手を携えて立ち向かった人々に喜びを覚えた。
一体このテロリストたちが何者で、なぜ国はここまで悪くなるまで彼らを放っておいたのか、そもそもなぜここまで悪くなったのか、僕は自問した。
しかし残念なことに、愚かなメデイアは、髭を伸ばしているヤツはみんな過激派のテロリストだ、というようなことを始めた。そのせいで人々は正しい理解ができなくなり、未だにできていない。これを助長したのが、報道相の委任を受けて制作された家族ドラマの監督ワヒード・ハーミド、それからテロの映画を作ったアーディル・イマームだ。宗教や敬虔さに関してからかい馬鹿にする映画は尽きることがない。過激派テロリストか、そうでなければどうしようもない間抜けとして描くのだ。
内務省もこの時期に愚かなことをやった。
ファジュルの礼拝に行ったから、という理由で捕まった人たちがいたのだ9。ファジュルの礼拝が容疑だって?
これが本当なんだ。警察は、モスクによく通って礼拝している人たちを疑うよう仕向けたのだ。
ウマル、そしてトゥアー、僕がこれを話すのは、歴史には書いていないからだ。学校にもそんな教科はない。誰が書き誰が書かないことになるのか、アッラーのみぞ知るところだ。
僕が書くのは、僕自身が、多くの人々と同じく忘れてしまいがちだかだ。皆んな、何が起きたのか、屈辱、侮辱、汚職のことをすぐに忘れてしまう。人が良いせいで、例え悪いヤツでも親父は親父だろう、みたいに考えてしまうのだ。
もしホスニー・ムバーラクはいいヤツと言う人たちがいても、その人たちを尊重して欲しい。でも彼ら経験したのだということを考えて欲しい。
そのせいで泣いた人たちがいるのだから、考えないといけない。
多分皆んな、僕の言っているようなことは分かっているのだけれど、忘れているのだ。
僕自身も――まだ分別もつかない子供だったけれど――90年代には、大統領のことが大好きだった。今言ったような酷いことがありはしたけれど。
あるいはその前、イラクとクウェートの戦争があった時にも。
彼がクウェートを支持し、会議や会談をしきりに持っていたのをよく覚えている。
イラク大統領サッダーム・フセインは、立場を変えてくれるよう、32回も請願書を送ってきた。
その時に広まったサッダームについての噂をまだ覚えている。サッダームがムバーラクに、サプライズのプレゼントを贈ってきたというものだ。
エジプトがリーダーシップをとっていることに浮かれて、国内のゴタゴタを忘れていた。
1992年10月12日の地震が起きた時、この国にある建物のほとんどが、見せかけだけだということが分かった。
多くの建物が中にいる人ごと崩れ落ちた。他の建物は壊れて修理が必要になった。病院や学校もだ。
おかしなことに、その多くの建物が新しい建物だった。まだ11年しか経っていなかったムバーラクの時代に建てられたものだ。
つまり彼の時代の建物は弱くて、どんな地震でも崩れてしまったということだ。
覚えているけれど、余震でも建物がまた崩れていた。
要するに、人々が死んだ最大の原因は地震じゃない、人の上に崩れてくるような新しい建物を作らせた汚職だ。
良心なき建物のオーナーが、賄賂で建築許可をとりつけた。その許可を与えた地域の建築技師は、また腐敗した地区長に監督されている。それを監督しているのが何も分かっていない知事。それを監督しているのが人の道を踏み外した大臣。それを監督しているのが総理大臣で、周りで人が死んでいるのに、インフラとか五カ年計画の話しかしない。それを監督しているのが共和国大統領だ。彼がこいつら全部を好きなように任命したのだ。こいつら皆んなが存在し、存在し続けることを許し、間違いを正すこともしなかったのだ。
よく覚えているけれど、地震のこの日、通信網が落ちて、安否確認の電話もできなくなった。
つまり、権力の座について11年、建築も経済も通信もダメだったということだ。
考えてみてくれ、この11年間は何だったんだ?
アメリカだったら、任期が6年だから、大体二期分だ。
それなのに、国の中身はボロボロ。
腐りきってる。
汚職だらけ。
僕の頭の中を疑問符が回るようになった。そして僕が読書を始めたその頃は、「全員に読み書きを」計画の頃だった。
この計画は、皆がよく本を読むようにし、世代すべてが読書を愛するようにしよう、というものだった。あちこちに沢山本屋ができて、教養を得る手助けをしてくれた。
この計画は大統領夫人が監督していた。
子供たちはいつも、「スーザーン・ママ」と言わされた。
もちろん、どうしてママなのか分からない。ママは家にいるのに。エジプトそのものだって、一度も彼女のことをママなんて言っていないのに。アファーフ・ラーディーによれば、エジプトは我が母ということだけれど10。
でもまぁ、よくあることだ。ママ・ナグワも彼女の番組ではいつも彼女をママと呼ぶブゥルズと一緒だったし11。
子供向け番組のアナウンサー、故サミヤ・シャラービーもママだった。皆んな彼女のことをママと呼んでいた。
大統領夫人をママと呼んだって構わない。彼女の息子のアラーゥとガマールは、この時のどんなエジプトの子供よりも大きかったけれど。
大統領夫人は――イギリス系で、修士論文のテーマは貧困tスラムだったそうだ――テレビに沢山出ていて、自分の出番を探してるみたいだった。
ある大きな世代は、一時期彼女が監督していた子供の日のお祭りに、子供時代の思い出を負っている。彼女の興味がなくなって、突然終わりになてしまったけれど。これは僕らに、この時代のエジプトの子供たちのための歌を残してくれた。
ちなみにこれは、とても素敵な歌だった。僕や僕の世代の思い出になっている。この時代の良いこと、国への愛を思い出させるものだ。「落書き」とか「怪我をチューチュー」じゃないぞ12。
子供のための愛国歌だ。
国を好きにさせるための歌で、こんなのだ。「この世のどんな国にも美しさがある、でも僕らの国より美しい国、そんなものはない」。それから、音階を教えてくれるのもあった。「音楽は語るよ、なんと言っているかはアッラーのみぞ御存知、ドレミファソラシド、音楽は皆タララララー」。また、歯磨きの重要性を教える歌もあった。「前歯を上から下、下の歯を下から上、これでもう歯が汚れない、虫歯にならない」。
この時代の子供たちは、本当にこの婦人に多くを負っている。それから、これらの歌を書いたシャウィー・ヒガーブとナーディル・アブ=アル=フィトゥーフ、最も有名な子供向け歌手サファーゥ・アブー=アル=サウードにもだ。
この頃のスーザーン・ムバーラクは美しかった。
素晴らしい計画をやっていた。
「全員に読み書きを」もそうだ。
地震の後には、「100校の学校を建てる」計画もあった。すべて寄付でだ。歴史上はじめてだろう。ニュースでは100校が1000校になっていた。
でも、これが本当に建てられたのかは分からない。どこに建てたのかも分からない。その寄付が本当に支払われたのかも分からない。
時と共に、ファーストレディことママ・スーザーンの出番は増していった。
障害者の心の母となり、恵まれない子供たちの養育者となり、総合養育協会の会長となり、赤新月協会の会長となり、家族文庫の会長になって、すべての出版物に彼女の写真が載せられ、彼女への謝辞が記された。僕の記憶では、世界人口協会の名誉会長にもなり、彼女が関わってから、女子割礼廃絶の活動に傾注するようになった。
本当にいろんなものの長になっていた。
実に色んなものを始めて、たとえば母子国民会議といったものがあった。でもその役割が何なのか僕は知らない。何をやっているんだ? そこで働いている人たちはどこから給料を貰ってるんだ? 何の仕事だか分からず、一時的なもので、多くの人々はそんなものを会議だのマアーディのナイル沿いにある本部だのなしでやっている訳だけれど13。
それから、女性国民会議というのもあった。これも何をやっているのか分からない。これは彼女の個人的なものなのか、それとも政治的なものなのだろうか?
その前に総合養育協会というのも、その真の役割も国に対する影響も分からない。こうしたものはすべて、夫人の友達とか知り合い、あるいは隣人らによって握られていた。考えられるか?
確かに、この時スーザーン・ムバーラクの握っていたほとんどのものは、慈善系のものだ。ただ気になるのは、彼女が非常に有名になり、多くの閣僚たちが何かにつけ彼女の手助けをしてたということだ。つまり仕事を投げ出して、彼女のことに時間を奪われるということだ。それよりも重要なのは、普通の人が、提案とか計画を報道大臣、あるいは他のどんな大臣のところに持って行ことしようが、そもそも会うこともできないということだ。
僕はよく覚えているけれど、当時「若者」誌のジャーナリストが素晴らしい調査をやった。大臣に会いたい国民として、省庁に行って、アポイントを取ろうとしたのだ。身分を明らかにしてしつこく尋ねたのだけれど、誰一人として大臣は会ってくれなかった。ただ一人、当時の電気大臣(マーヘル・アバーザ)が、彼を普通の国民だと思って会ってくれた。でもジャーナリストだと分かると、少しイヤな顔をして、それから賞賛と謝辞を残して仕事に戻ってしまった。
開いていた門が、人々の前で閉まり始めた。国を支配している一握りの人間だけが、バラ色の世界を好きなままにした。彼らこそがすべてだ。誰も彼らと話すこてゃできないし、例え客観的にであっても批判できない。
報道大臣サフゥワト・アッ=シャリーフと、人民議会諮問議会大臣カマール・アッ=シャズリーの影響力が非常に強くなり始めた。二人とも与党国民民主党の幹部で、不正で選挙に勝った。彼らが聞くのは党首の言葉だが、その党首とは――偶然にも――エジプト・アラブ共和国大統領と同じ人物で、ホスニー・ムバーラクという。
尊敬できる人は皆いつも、ホスニー・ムバーラクに、国民党の長を退き権限を少し減らすように求めていた。でもすべて無視された。国民党というたかが一つの党の党首で、同時に国民党に反対する山ほどの党に溢れた国全体の長でもあるとは、どういうことだ。
共和国大統領で、最高裁判所長官で、国民党党首で、警察庁長官で、軍総司令官であるとは、どういうことだ。
まったく、多すぎる。尊敬できる人々はいつも彼にそう言っていた。だが彼は自分にこう言うのだ。「ほっとけ、大統領、好きなことを言ってるだけだ」。
この時期、僕は自分に問いかけた。僕らはどうしてあの大統領が好きなんだ? そもそも僕たちは好きなのか? 大体、僕らの関係が好きとか嫌いってことで成り立っているのはどういう訳だ?
僕にとって、大統領について大事なのは一つだけだ。僕と子供たちが安全に暮らし、僕の国が汚職や不正や抑圧のないこの世で一番良い国の一つになること。しかし、そんなものは全く実現されていなかった。
それでも皆は彼のことが本当に好きで、僕もその一人だっていうのか。
沢山考えて、僕は遂に納得のいく結論に達した。
僕らは情に厚い民で、災難の周りに集まってくるのだ。ムバーラク統治の時代は、しょっちゅう災厄とか危機とか歴史的事態があって、その周りに僕らは集っていた。
サーダートを殺した過激派イスラーム組織と言われれば、集い待っていた。今度は世界がイスラエルとの条約締結を待っている、そうでなければ戦争すると言われた。今度はシナイの完全返還を待て、と言われた。今度は国を良くしたいけど状況が厳しくて、重要なのはインフラ整備だと言われた。今度はアラブ諸国との関係改善を待て、と言われた。今度は経済状況が厳しいので経済を改善しないといけない、と言われた。今度はテロ、今度はエジプトの敵が付け狙っている、今度はイラク・クウェート戦争にエジプト人が行って戦わないといけない、今度は地震、今度は洪水、今度は今度は今度は。
じゃあ本当の国内改革はどこにあるんだ?
給料が上がっても、本当に上がったとどこで感じられるんだ。物価上昇の後で上がるとか、あるいは物価が上がっても給料そのままとかじゃなくて。
問題が解決するのはどこでなんだ。大きな山のてっぺんから石が転がり落ちて脳天に直撃するような有様じゃなくて。
これらは全部、答えの見つからない問いだった。
皆はかつて、大統領がイスラエルのテレビに出るのが好きだった。インタビュアーに対してどんと構えて冗談をかましていた。でもイスラエルがムバーラクを友人とみなしていて、彼がイスラエルの安全を守っており、彼の存在が地域にとって重要なのだ、と考えていることは、分かっていなかった。ムバーラク自身、イスラエルの大臣や歴代首相に友人がいて、誕生日を祝い合ったりしていた。僕たちは知らなかったのだ。衛星放送とインターネットと通信革命によって世界の扉が開かれるまでは。
- ウムールとトゥータはそれぞれアムルとトゥアーの渾名 [↩]
- 冗談で子供に「ほら、そのおじさんにツバを吐いてやりな」などと言う [↩]
- ナセル [↩]
- リァル・・・陂 ル・ァル・・畏エ リャル館畏ィ 金も死んだらあの世へは持っていけない、という意味 [↩]
- シナイ半島のイスラエルとの国境の村。最後に返還された [↩]
- エジプトの諺 [↩]
- ギニーはおよそ16円。イルシュはギニーの100分の1。エーシはエジプトの伝統的なパンで、主食 [↩]
- カイロの地区名 [↩]
- ファジュルは夜明け前の一番最初の礼拝 [↩]
- アファーフ・ラーディーは歌手で、彼女の歌の歌詞にエジプトを我が母と呼ぶものがある [↩]
- ナグワはアナウンサー、タレント。ブゥルズは彼女の番組に出ていたマンガのキャラクター名 [↩]
- 共に子供向けの歌 [↩]
- マアーディはカイロの高級地区。とりわけナイル沿いは一等地 [↩]