肌の露出の多い服装と少ない服装

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 このテーマについて書くべきかは迷った。なぜかは分からないが、おそらくは、似たようなダラダラした話が何度も同じことを言っていて、男も女も耳にタコができているからだろう。でも書くことにした。これは既に言われたことの記録、再度の新たなる意見表明だ(僕としてもバケツをひっくり返しておくというわけ1)。
 肌を露出した服装そのもののことを書きたいわけではない。実際のところ、そういう服装に対する態度について書く。
 この二十年ほど、エジプトは肌の露出問題に取り憑かれている。まったくどうかしている。娘のいるすべてのエジプト家庭では、娘が露出の少ない服装をすることに絶対的な優先順位が付けられている(そうすることで娘がすべての災厄から守られることを願っている)。片や若者、男たちは、この件に関して、基本的な二つのタイプに分かれている。一つは、恥知らずにも、また教育と道徳心と礼節の欠如を晒して、これをじろじろ見る、そして時々、破廉恥な言葉を発し、さらにしばしば、手まで伸ばして犯罪を犯す。もう一つのタイプの男たちは、こうした類の行いには出ないが、薬でも飲むみたいに一日三度はこの問題について話している(ちょっと大げさなのは分かっているが、本当に大げさな程度にまで行ってるのだ!)。思うに、この二十年で女性の服装についてエジプトで書かれた記事やら評論やら論説は、パレスチナ問題について書かれたものと同じくらいの数になっている。まったく、正気の沙汰じゃない。こうしたことの理由として、原理主義とかサラフィー主義を挙げるだけでは十分ではない。宗教というのは様々なテーマに溢れている。肌の露出問題に、他のすべてよりももっと忙殺されるとはどういうことだ。まるで宗教が地上に存在するのはまず何より女性の身体を覆うためで、それが済んでから他の話にとりかかるみたいだ。
 これから挙げる点について、読者諸兄が何万回も聞かされているということは分かっている。でもどうかご容赦頂きたい。人助けだと思って聞いて欲しい。エジプトは歴史を通じて信心深かった。しかしこの二十年に至るまでは、女性の外見というこの件に限って言うなら、人々はフレキシブルだった(これはややこしい問題だから)。かつては明らかに、エジプト人は皆、柔軟だった。ちょっと短い服を着る女性というのがいたし、また時にはすごく短いのを着る女性もいた。しかし、僕にとって重要なことには、かつてこれは女性の尊厳を傷つけたり、街での人々の尊敬に関わるようなことではなかった、ということだ。人々は短い服を着た女性を侮辱的な眼差しで見たりしなかったし、売女と罵しることもなかった。また同時に、女性たちも(それぞれの属する社会的階層に応じて)もっと恥じらいをもっていた。
 こうした状態は、個人的に、自然なものだと思う。ある人たちはあるやり方が心地よいと思い、別の人たちは別のやり方を心地よいと思う。喧嘩することもないし、片方がもう片方を「田舎者」と言ったり、あるいは「売女」とか「破廉恥」とか言うこともない。僕がこれを自然だと言うのは、世の中というものは、その成員皆が心地よいと感じられなければ「自然」とは成り得ないと考えるからだ(もちろん、本当に滅茶苦茶不自然だったりどうかしているようなものについては除く)。この観点からすれば、女性の服装に関するかつてのエジプトの状態は、自然なものであったと言えよう。西洋好きの人は西洋風の格好をするし、東洋風の伝統を重んじる人は、適切と考える程度に肌を隠すし、それも自由だ。ヒガーブ(一般に思われいるように形で頭を隠す衣装)が義務だと考えるムスリマたちはヒガーブをする、これも普通だ。まったく簡単なものだ。
 「自然であること」の一番大事な印は、それが女性たちだけでなく、街にいる男性たちにも現れるということだ。誰も下品な振る舞いをせず、「どんな格好してるか自分で分かってるのか」などと言わず、誰もからかったり痴漢したりしない。今街にいるほとんどの人たちが、果たしてどう振舞っているやら、見てみて欲しい。
 その唱導者たちが、女性を保護するためだと称するこの「肌を覆う狂い」こそが、エジプトの道を歩いているうち恐ろしい率の人々が、女性たちをまるで肉か何かのように見ていることの原因だ。そのうちの更に大きな割合の人々が、この肉を狂犬のような目で見ている。ちょっと気に入ってとか目を惹かれてなんてものじゃない。僕自身、男たちが、まったく普通のまるで人目をひくようなところのない服装をした女性を、見ているこっちが恐ろしくなるような目線で見ているのを目にしている。単に自分の妻や友人、まだ小さな娘やその友達が大きくなってからのことを心配しているだけではない。僕がこの人々と同じ国に属しているということが恐ろしい。この人たちが選挙で票を入れることができて、エジプトの命運を握りうるということが恐ろしい。こんな態度をとれる魂の腐った人間が、これ以上どう醜くなれるのか想像もつかない。
 これは、この件に関する社会の狂気による当然の帰結だと思う。この社会が自然な状態から狂気の状態へと変わってしまったのだから。もう一つ証左を挙げるなら、他のアラブ社会のいくつかにも、同じ狂気があり、若者たちにまったく同じ影響をもたらしている。多くの人々が相も変わらずこのセンシティヴな問題を、まったくどうかしている乱痴気騒ぎな勢いえ、愚かな怒りと適切な方法に対する酷い無知をもって、語り続けている。彼らはこれを扱う聡明さや意識が足りていない。その結果として、肌を覆っているばかりかヒガーブをして、長いゆったりとした服を着ていても、ただの一人として安心して道を歩けなくなっている。
 こうしたことにはもちろん、多くの理由がある。無知、無教育、無教養、憎悪、頑迷、非寛容、などなど。しかし、性に対する禁忌や、経済的理由による結婚の難しさといった、散々繰り返されているよく知られた要因は、この理由の中に入っていないと思う。この同じエジプト人たちが、もう三十年も四十年も、豊かではないのだ。それでもかつては、もっと誇り高く、より文明化されていて、自分にも女性にも他人にももっと敬意を抱いていた。一番大事なことには、彼らは性と肌を覆ったり露出したりすることについて、こんなに狂ってはいなかった。
 加えて、こういった行動を取るのは、まだ若い少年たちで、それほど性の抑圧というものを被ってはいない。問題は彼らの養育の仕方だ。少年でない人達は、社会の低層階級で、そのほとんどはそもそも結婚している。それでもこういう行動を取る(大抵の場合は、酷い目つきでジロジロ見て目で犯罪を犯したり、一言二言口にして自分のチンピラぶりを開陳するだけだが)。
 それに、抑制されていようがいまいが、僕たちは獣ではないのだ。自然な人間が、道で女性が歩いているのを見たからといって、例え目によってであれ性的な嫌がらせをすることはないだろう。たとえ性の禁忌があり抑圧されていたとしてもだ。またたとえその女性が、その道を歩くには相応しくない服装をしていたとしても。念のために言っておけば、ここで話しているのは極少数の人々のことではない。こういうことが、僕たちの新たな自然になってしまったのだ。
 肌を露出した服装の問題は、他の多くの社会的問題と同様、二つの基本的な側面を持っている。宗教的側面と政治的側面だ。これに関する宗教的側面とはもちろん、諸宗教は慎みを求め、女性の露出を控えるよう命じる、ということだ。これについては異論はない。イスラームでも――エジプトの多数派宗教――この件については異論はない。しかし僕にとって非常に重要なのは、この法というものは、そもそも女性の保護の問題であって、女性を中世の戦争捕虜のように扱う為ではない、ということだ。慎みの法を守らない女性がいたとしても、別に彼女は犯罪者ではないし、どんな名の元にも彼女を罰することなどできない。
 どんな人のどんな行いにも承服しない権利はあるし、批判する権利もある。それを真似しない権利もあるし、自分の子供や家族を、不適切だと思う行動をとらないように教育する権利もある。しかしこれらはすべて、自分の反対する行動をとる人を拒否し憎悪することとは別の話だ。たとえそれが、宗教的観点からして誤りだったとしても。自分自身について気をつければいい。誰もが自分のやっている誤りを探しそれを変えるようにすればいい。人が間違ったことをしていたとしても、それが何の関係がある? あんたの知ったことか? 彼女が自分に向けられた言葉に耳を貸さないならその子は良くない子なんだろう、結構、それならあなたは自分に向けられた言葉に耳を傾け、慎みをもって目を伏せればいい。クルアーンで慎みをもって目を伏せよと言われているのは、すべての女性が肌を覆っていることが前提なのか? それなら何に対して目を伏せるというんだ?
 ジロジロ見ることに始まり、攻撃的な言葉、果ては痴漢に至るまで、性的嫌がらせというものは、倫理的・社会的・宗教的・人間的犯罪であり、懲罰に値するものだ。残念ながら多くの人々が考えているように、これを女性の誤りとして考える前に、例えば、自分のお金をきちんと隠しておかなかったからといって、決して投獄されることなどない、というとを考えて欲しい。しかし、たとえキチンとしまわれていなかったお金であっても、それを盗んだら罰せられる。この話の中で、懲罰に値する社会的逸脱を犯している者がいるとすれば、それは間違いなく、慎み深い服装をしなかった女性たちではなく、いかなる形であれ、彼女たちに攻撃的態度をとった者の方だ。彼らこそが値する。
 宗教的観点から言えば、正しいことは正しく、間違っていることは間違っている。それは別の話だ。主が彼女にお尋ねになろう。だが例え彼女が間違っていたとしても、他人の権利を侵したわけではない。だがどういう形であれ彼女に対して攻撃的にふるまった者は、犯罪を犯している。
 ここで言っておかなければならないのは、自分に問題が解決できると思っている人々、主に女性がいて、例えば道を歩いている知らない人のところにいって、アドバイスして差し上げる、ということがある。「どうしてそんな格好してるの?」「どうしてヒガーブをしないの? これこれこうだって知らないの?」。こうした言葉が、礼節をもって笑顔で言われても、無礼な調子で言われても、そもそも間違った行動だ。手または舌で善行を勧め悪行を禁じよ2、というのは、自分の支配の及ぶ範囲でのみ許されることだ(フィクフの専門家に尋ねてみればいい、これはシャリーアに沿ったことだ)。こうしたことは、妹であるとか(もし彼女に対して責任のある立場なら)、妻とか娘とかに言えばいい。もちろん、その場合も優しく丁寧にだ。
 この件についてであれ他のことであれ、自分の支配圏の外にいる人に助言したいとか、どうやって話を聞いてもらうか知りたいというなら、姪とか友達とか隣人とか、あるいは子供が同じクラブにいるとか、共通の友達がいるとか、何でもいいから助言の許されるような関係作って、それからことに入ればいい。できる最も簡単なことは、メトロで隣に座った人に話しかけて友達になり、適切だと思ったならば助言したらいい。しかし、男でも女でも、何のつながりもない知らない人のところにいって、あなたはこれこれだから地獄に落ちる、などと言う権利はない。
 道路にゴミを捨てるな、という権利はある。確かに。車をホースで洗うなとか、電気を全部つけるなとか、車が駐車できないからレンガをここに置くなとか、歩道で商売するなとか、そういったことなら言う権利がある。それはあなた自身の関係することだからだ。
 誰かが人を害していたり、攻撃したりしていたら、そこに介入して止める権利があるし、義務でもある。しかし個人的な振る舞いについては、それを禁じるけんりはないし、禁じること自体が禁じられている。またまったく甲斐もないことだ。なぜなら、あなたの言うことなど聞きはしないだろうから。さらに、その話しかけられた人が個人的領域を侵害されたと感じますます頑固になり敵対するだろうから、有害ですらある。
 自分の娘たちが見て真似をするかもしれないから、自分にも関係ある、と考える人がいるなら、子供の教育はその人の仕事であって、道に入る人たちの仕事ではない。不道徳な地に生きている多くのムスリムたちは、その倫理性についても信仰へのコミットメントについても敬虔についても、一点の曇もない。どういうことだろう。彼らは子供たちをよく教育しているのだろう。彼らから教育の仕方を学び、彼らの真似をできるかもしれない。自分のやっていることを正しいと信じ、アッラーのお創りになったものの中で窮屈さを感じたりしているのではなく。
 もう一つの側面を見てみよう。政治的な側面だ。例えば、着用の許される衣類というものを法的な力で強制する国というのがある。イランやサウジアラビアのように露出した服装を禁じるもの然り、フランスのように覆う服装を禁じるもの然り。また将来これらの国々のようになるものも同様だ。
 どちらにもまったく同じ振る舞いが現れる。体制が(あっちは民主主義、こっちは独裁だが)、何を着てよくて何を着てはいけないか、強制する権利があると思っていることだ。こっちは強制により徳を実現できるからという理由で、あっちは差別や偏見につながるという理由で(イスラームに最低なことをとってつけている多くの人々のせいでもある。アッラーが彼らをお許しになるように)。
 だが、この世のどんな社会でも、法や強制や暴力を用いずこうしたことをを行なっている。人々が自分自身で、良くないと思ったり間違っていると思う服を拒んでいるのだ。だが、これでは十分ではなく、禁止や強制を好み、意見や思想を法律で押し付けたい人々がいる(たとえこうした考えが宗教を源泉とし、その適用が宗教と結びついているとしても)。
 一緒に想像して欲しいのだけれど、実際に様々な程度の肌の露出に晒されている社会を考えてみる。この社会で暮らす女性が、他の人から外れた格好をしていて、道を歩くたびに人々が視線を伏せ、誰かに話しかけるたびに相手が目線を落としていたら、間違いなく彼女は居心地が悪くなって、道を歩くのに自分で相応しい服装をするようになるだろう。これは彼女の選択であり、無理やりそうさせたのでも、自由を抑圧する法律や無礼な辱めのためではないし、まして人々が彼女の目の前で大きな声で主に赦しを求めたからでもない(彼女を見てしまったことで赦しを求めたいなら、黙ってすればいい。そこで主に赦しを求めるのは、「あなたの」犯した過ちのためだろう。どうしてそんなものを聞かされなきゃいけないんだ。赦しを求めるのはあなたの問題だ、それで人に嫌がらせするものじゃない)。
 ここでの問いは、自分に好きなようにする権利がある限りにおいて、他人にも自分の好きなようにする権利があるんじゃないか、ということだ(もちろん、誰もいかなる形でも他人を侵害せず、かつ公共のではなく個人的な問題において、ということだが)。
 今ここを読んでいる人たちの中に、僕の目的が肌を露出した服装を奨励することにあるんじゃないか、と思っている人がいるなら、全く本意ではない。僕は、誰であれ望んで着る総ての服装を応援したいだけだ。
 僕がいつでも自分の好みの服を着たいなら(この世のすべての人と同様に)、すべての人が着たい服を着られる権利を守ることしか、これに対する保証というものはない。もし一人のムスリムたる僕が、すべての女性にヒガーブを強制する法律を求めるなら、状況が変わってフランスで暮らすことになったら、フランス人が法律の力でヒガーブの着用を禁じることに怒ることはできない。それが筋というものだろう。誰もが自分の見方だけで見て、それが正しいか間違っているかということは考えない。方法や目的ややり方の違いというものがあるのに、自分のことをいつも正しいと思っているからだ。
 ここで、市民社会におけるニカーブについて言及しない訳にはいくまい。だがこれには特殊な事情がある。というのも、市民社会というものは、人を顔と名前に結びつけて認識しなければならないからだ。そのため、ニカーブはいつも問題になる。僕が空港の税関職員だったら、目の前にいる女性の顔を見ないといけない。交通警官で車を停めたら、免許証を見て顔を確かめないといけない。銀行とか会社とか団体とかなら、何百何千という人が毎日訪れる。誰が入って誰が出ていったのか知らないといけない。世界は犯罪やテロや不埒な行いに道散る。この世のどんな組織も、公の場所・時間では、誰が何をしているのか知らないといけない。監視カメラが設置されているのは、すべての人を撮影するためだ。どれが誰だか知る必要があるからだ。
 カメラやら警察やらは置くとしても、僕は一人の道を歩いている人間として、自分の横を歩いている人間を見る権利がある。もし盗まれたり車ではねられたりしたら、あるいは他の何が起きても、人に知らせることができるように。加えて、男性がニカーブを着て女性のフリをする、ということはあり得ないか(実際のところ沢山あるのだが)。ニカーブを着て泥棒や犯罪や誘拐をすることはあり得ないか。もちろん、あり得る。それなら、どうして皆がこの問題に目をつぶっていられるのか。理解に苦しむ。
 誰にでも、隣を歩いている人、横に座っている人、周りにいる人を見る権利がある。ちなみに、本当にしっかり心に留めておいて欲しいのだが、僕としてはそれでもやはり、女性のニカーブ着用を禁じる法律には断固反対だ。これは彼女の自由を侵害するものであり、法律にニカーブを着るなとか着ろとかいう権利はない。法律がやって良いのは、社会の防衛ということだ。つまり「公共の場所に顔を覆っていくのは禁止」ということだ。ライオンのかぶりものもダメだし、マスクもダメだし、ニカーブもダメだ。顔を覆いたいなら、家で覆えばいい。あるいは、顔を覆っていても誰だか分かる人たちといる時とか、個人的な集まりで。それなら自由だ。公共の場所でも、ニカーブを着る自由自体はある。しかし残念ながら、個人識別を損なうが故に、顔を覆う自由はない。そのため、本当に残念ながら、公共の場所でニカーブを着ることはできない。理論上は、その権利があるにも関わらず。
 僕たちのそもそものテーマに戻ろう。肌を覆うことを強制する法律を求める人は、肌を露出することを法律が強制し、ヒガーブが禁止されたらどうなるのか、ということをよく考えないといけない。ある場所でヒガーブを強制するなら、別の場所でヒガーブが禁止されてもそれはそれで構わない、というのでないとおかしい。こうやって差別というのは作られ、国は分割され、部族主義に陥り、僕たちは弱くなっていくのだ(僕らはこの手のことには事欠かないだろう)。
 自由は(個人的な自由であれ他のであれ)行きと帰りの往復だ。一方通行というのはない。僕個人としては、僕や家族が「法や強制により」いかなる種類の服を着せられる社会にも暮らさないだろう。僕は、自分がどういう形でいたくて、どういうことを表したいか、分かっている。すべての人と同じように。誰もが、格好や人に対する印象について、彼自身について、自由だ。僕がどうこう言うことじゃない。誰でも好きな格好をすればい。露出した仮構でも覆われた格好でも、頭に羽を付けても、ぴったりした服でもゆったりした服でも、ずるっとした格好でも。気に食わなければ着なければいいし、見なければいい(何かまったく別のもっと重要なことについて話せるなら、それが最高だ!)。
 自分の好きなものが着たい? それならすべての人が好きなものを着られないと。この考えが気に食わない? 人生色々だ、明日は気に入るものが見つかるだろう。

  1. 「意見を表明する」がフスハーでリ・リッル・ァリ。 リィリッル・・ニ書かれているが、リッル・・ノはバケツという意味もあるので、洒落になっている []
  2. ハディースの中にある教え []