善いことをしても許してやろう

 「善意を前提にしたシステムではうまくいかない」という指摘はよくなされるし、基本的には異論もありません。
 万人が善人でなければ(そうした幻想を保たなければ)回らないような仕掛けなら、それはうまくいかないだろうし、賢い方法ではないでしょう。
 ですが、この指摘がいつの間にか「価値判断そのものを放逐したシステムでなければうまくいかない」という話にすり替えられている場面が、時々みられます。
 善意を前提とした仕掛けではうまく回らない。しかし、そのことと、価値判断がシステムにとって無用であるかどうかは、別のお話です。
 このようなすり替え、あるいは過剰な援用が為される背景には、「善意」なるものが、純粋に考えられすぎて、幻想のための幻想に堕していることがあるのでは、と考えています。
 「善意」というのは、もう完全無欠にピュアな善意であって、ちょっとでも疚しい心が入り込んでいたら、それは「偽善」である、とでもいうような、妙な潔癖主義です。
 偽善が悪の中の悪であるというのは、ある程度頷ける話なのですが、偽善よりももっとダメなのは、偽善を恐れて善も悪も為さないことです。
 「善意を前提にしたってダメだよ」と斜に構えるくらいなのですから、そんなピュアな善意なんて期待すべきではないし、また他人に期待されていると考える必要もありません。あなたが極悪人ではないものの聖人君子でもない、ということくらい、誰でも分かっているし、とりあえず偽善でも何でも、善くさいことならやってみたら良いのです。
 動機なんて誰も気にしていません。
 気にしている人がいるとしたら、それは神様だけですから、動機が疾しかったら神様に謝っておけば大丈夫です。他の誰にも遠慮する必要はない。
 そして、「善だと思ってやってみたら、ぜんぜんアカンかった、むしろ迷惑かけた」というオチだったら、その時は「ごめん」と言えばいいのです。とりあえずやってみて、ダメだったら謝ればいいじゃないですか。
 「ごめんで済むなら警察要らんわ!」と言われそうですが、カッコだけでも善意でやったものなら大目に見てやるのが「聖人君子たらないダメ人間」の義務です。アンタだって、「善を抑え切れる」ほど立派なモンではないでしょう。
 「善意の押し売りほど恐ろしいものはない」「破滅への道は善意で舗装されている」というのは、誠にごもっともですし、個人的にも天真爛漫な「良い人」が非常に苦手ですが1、それでも、うっかり善意で動いてしまった人間を、ボコボコにしてはいけませんよ。彼または彼女は、とにかく何か為したのですし、挑戦して失敗した人間を笑うほど劣悪なものはありません。
 だから、大事なのは、善意が敷き詰められて破滅まで行ってしまいそうになったら、こっちも善意で舗装をひっぺがして、ブルドーザーか何かで耕してしまうことです。破滅まで行っちゃうからいけない。ところどころ暇なオッサンが独立機動的に舗装しているくらいなら、放っておけばいいのです。こっちも暇だから道に勝手にヤシの木とか植えてるんです。
 
 例によって話がズレましたが、要は「善意を前提にしてもダメ」なのは本当にしても、「善意が全然アテにならない」という訳でもないし、アテにできるかもしれないその善意は、別にそれほどピュアな必要もない、ということです。
 ピュアというなら、仕掛けから徹底して価値判断を排除しよう、などというのも、奇妙な潔癖で、「原理主義」にすら見えます。
 人間は価値判断だけで動くものでもないし、その価値判断も善悪キッパリしたものではなく、鵺のように怪しげなものですが、価値判断なしで動き切れるというものでもありません。
 逆説的な言い方をするなら、わたしたちは常に「善に汚染されて」いるのです。
 その善は、何せ「汚染」ですから、これに丸っきり寄りかかって世の中回していこうといっても上手くはいきませんが、汚染を除去してキレイサッパリしましょう、などというのも、土台無理な話で、全然「合理的」ではありません。
 何でも、一定の純度まで「キレイ」にするのは難しくありませんが、それ以上に頑張ろうとすると、コストの割に成果があがりません。リサイクルなんかが良い例です。善の完全払拭など、無駄なことはやめましょうよ。
 
 「イスラームは性善説でも性悪説でもなく性弱説だ」というフレーズは時々聞き、誰が言いだしっぺなのか知りませんが、なかなか良い言い回しだな、と思っています。
 人間は弱いものだから、過ちも犯すし、そういう前提で縛りも入れるし、罪を犯しても悔悟したものはできるだけ受け入れよう、というあたりを、表現しているのでしょう。弱いから、罪を犯してしまいそうなところは、予めなるべく遠ざけるようにしておきましょう、という考え方も広く見られます2
 これにもう一つ余計なことを付け加えれば、「弱い」というのは、「善に弱い」という逆説も含んでいるように、わたしには思えます。
 人間、聖人君子のようにキラキラに善な人はそういるものではありませんが、価値判断からスッパリ自由になれる人もなかなかいないし、「善いことをしたい、善く生きたい」という「欲」にも、そう抗えるものではないでしょう。
 だから、人がうっかりちょっと善いことをしても、それは許してあげましょうよ。
 その融通も利かない潔癖な仕掛けなら、むしろ仕掛けなんて多少グダグダの方がマシな気がします。

  1. だから宗教付き合いは時々結構辛い(笑)。ですがアルハムドリッラー、ムスリムには結構ロクデナシも多いので、癒されています(笑) []
  2. もちろんどの程度の弱さを前提にし、どの程度遠ざけるか、というのは様々な意見のあるところで、個人的にもやたらに何でも厳しくして禁止と隔離で世の中作ればうまくいくなどとは思っていません。ただ、特殊近代西洋的な意味での「自由」(だけ)を至上の価値とはしない、というだけのことです []
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