アッラー

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 子供の頭に浮かぶ、最初の悩ましい疑問の一つは、「主はどこにいるの?」というものだ。ある友人は、娘にこの質問をぶつけられて、「天にいるよ」と答えたという。それから少し考えて、もし主が天にいると言ったら、テーブルの下辺りにいれば主から隠れられると考えてしまうかもしれない、と気づいた。そこで彼女に、主はあらゆる場所にいらっしゃり、お創りになったすべての内に、わたしたちの中にいらっしゃる、と言った。
 わたしを悩ます最大のものは、主がいかにしてすべての内にいらっしゃるのか、ということだ。力強かつ優しい、許されかつ復讐される、慈悲深きかつ強襲される1。讃えある至高なる御方が、こうした反対の性質を持つのはいかにしてなのか。
 銀河と星雲と星々を創造された同じ御方が、どうやって蟻や微生物をお創りになるのか。どうやってこれほど莫大なものを、同時に細かい細かい詳細にわたって知られるのだろう。どうやって創造されたすべての人を知られるのだろう。どうやって? 分かってる分かってる、アッラーは並び立つ者のないものだと。だからといって問いを留めるものでもない。でも、どうやって?と。
 この次に来る最も悩ましいものは、主がどのようにわたしたちをご覧になっているのか、ということだ。
 つまり例えば、主において大切なのは、わたしの心なのか、行いなのか、それとも両方なのか? もし両方だとしたら、どちらがより大切なのか? 正しい行いで清い意志があるけれど、信仰行為を行わないとしたら? 善良で良い人でいたわり深く、人を助け、人を愛し、誠実で、嘘をついたことがなく、人のものを盗ったことがなく、いじめたことがなく、同時に主を信じ疑わず、長いこと考え愛しているけれど、礼拝しない。こういう人は、どのように勘定2されるのだろう? 間違いなく、皆さんのほとんどは「いやいや、礼拝しなければ地獄で永遠に焼かれるよ」と答えるだろう。申し訳ないけれど、わたしはその言葉は信じられない。礼拝しないこと等を擁護しようというのではない。とんでもない。わたしは、アルハムドリッラー、今までずっと礼拝してきている。言いたいのは、これは筋が通らない、ということだ。わたしにとっては、筋が通らない。
 もっと難しいところを言えば、ヒンドゥー教の僧侶がいて、間違ったことはせず、世界を創造した一人の神を信じ、わたしたちの誰もが考え信じているやり方で信仰しているとしたら、どのように勘定されるのだろうか?
 大事なのは意志なのだろうか、結果なのだろうか? アフワ3にいる哀れな人々の中に、彼らを背信者だと考えて自爆しに行く者は、アッラーの道のために努力し、その魂を主の御満悦のために犠牲に捧げているのだと思っているのだ。行ったことがこれ以上ない程間違ったものだったとしても、なおわたしたちは、彼の意志は清いものだったと認めざるを得ない。彼の考えは見当違いなものだが4、そう思い込まされ信じこむことを、アッラーが許されたのだ。それでも、主を満足させようという彼の意志は清いし、主の御満悦のために自らの命までをも犠牲にしようとしたのだ。この男はどのように勘定されるのだろうか?
 わたしはこう考えると安心する。主は、わたしたちの知性に応じて裁かれ、公正に遇するのだと。すべての人に同じ基準を適用するというのは、あり得ない。というのも、すぐに分かることだが、人々は同じではなく、境遇も違うし、出来ることも違うし、理解力についても、ほんの簡単な考えに至るまで、異なっている。技師が鉄工と同様に勘定されるなどあり得ない。読み書きできるものと読み書きできないもの、理解できないものとできるもの、正しいことを教えてくれる人に出会う人と出会わない人、窮乏者と安楽に生きるもの、アフリカのジャングルに生きるものと、スペインにいるもの、シベリアにいるもの、ドゥウィーカ5にいるもの、これらが同様に勘定されるなどあり得ない。これほど違う人々が同じやり方で勘定されるなど、あり得ない。
 これは今のわたしにとっては筋が通っているが、これが真理ではないということはわかっている。このわたしの考えは、真理に近いかもしれない。しかし、勘定のされ方についての真理自体は、分からない。このことを通して言いたいことは、誰にもそれは分からない、ということだ。テレビにジュッバとクフターン6を着た人が出てきても、皆に「シェイフ殿」と呼ばれていても、専門的に勉強し研究している宗教者から学べることは沢山ある一方で、信じて欲しいが、主がいかにわたしたちを勘定するか、ということは分からない。
 主がいかにわたしたちを勘定するか、ということは、主にしか分からない。人間は、精神的にも社会的にも複雑な存在で、完全に白とか黒というものはないし、わたしたちの行いも頭の出来や賢さや境遇に左右される。だから、いかに勘定されるかを知るのは創造主以外には不可能だ。ただ彼だけが、これらの詳細を全部ご存知なのだから。
 何が良くて何が悪いのか、何をアッラーは好まれ満足されるのか、何が善行を増し何が悪行を増すのか、これらについてわたしたちの持っているいかなる知識を持ってしても、巨大な全体像を目にし、この世の誰についてであれその勘定を予想することはできない。というのも、わたしたちが人間とその行いについて何を知っていようが、主の神秘を知ることはできないからだ。主の神秘はただ彼のみがご存知だ。
 そこで皆さんにお願いしたい。主の勘定について話さないでもらいたい。また、あなたたちの知らないことを知っていると称し、その思想や考え方を真理だと言って売りつけてくる者を、それが誰であれ、遠ざけてもらいたい。というのも、こうした問題について知っている者は、ただ見えざるものを識る御方アッラーをおいて他にいないのだから。
 わたしは個人的に、心にこう決めている。生涯娘に、これをすると天国に行けて、これをすると地獄に行く、とは言わないと。彼女には、何が良くて何が悪いのか、何が正しくて何が間違っているのかを教える。良いことをしたら、主が望まれるなら、それに良き報いを下さるだろう、悪いことをしたら、主が望まれるなら、罰を下されるだろう、と言う。もし、どのようにして、と尋ねられたら、こう答える。わたしには分からない、ただ分かるのは、主はお前を幸せにすることも、不幸にすることもできる、ということだ、と。

  1. ここで列挙されているのはアッラーの九十九の美名の一部で、すべてアッラーを指す。但し最後のリィリァリキリエは、一般にまとめられている九十九の美名の中にはなく、筆者の勘違いか、分かっていてリアリュル館・フ反対概念として入れているものと思われる。アッラーがリィリキリエされる、という箇所は聖典中に存在する []
  2. リュリァリウリィ 計算する、責任を問う、という語で、善行と悪行を計算してアッラーが最終的な裁定を下すこと。イスラームにはこうした商業的な発想から来た考え方や語彙が多い。もっと宗教的な語に訳すことも可能だろうが、冗長で不分明になりそうなので、敢えて「勘定する」と表現してみる []
  3. 伝統的な喫茶店。男性の社交場 []
  4. リケルほ・蜀 リィリウ ル・ェリアル・ィ リエル・ァル關€ []
  5. カイロ南東にある地域名 []
  6. 伝統的な長衣。信心深い人のイメージがある。エジプト方言ではギッバとウフターン []