またまた父性について

 前の父性についての考えに関して(もちろん母性も)またお話してみたい。この考えが非常に重要なのは、これこそが、世界のある地域の人々が陥っている最大の誤りの一つだからだ。この機会に皆さんの注意を喚起できれば、と思う。
 まったくの偶然で、類まれなる天才ジブラーン・ハリール・ジブラーンが、著書『預言者』の中で、正に僕の言いたいことを遥かに素晴らしい形で述べているのを見つけた。まず、彼の書いたものをご覧頂きたい。
 
子供たち

まことあなたがたの子らは、あなたがたの子らであり、生の憂苦それの元へと産み落とされた
あなたがたにより生へと現れたるが、あなたがたからではない
あなたがたの懐に生きるも、あなたがたのものではない
あなたがたの愛は許されれど、あなたがたの考えは違う 彼らには彼らの考えがある
彼らの身体の避難所たるとも、魂のそれではない
彼らの魂は明日の館に住む その館に手を入れるなら災かな あなたがたの夢であれど
あなたがたは彼らのようにできようが、彼らをあなたがたのようにしようとするなかれ
生に後退はなく、昨日に留まることもない
あなたがたは弓、そこより生ける矢たる子らが放たれる
射手は無限の軌跡の向こうの的を見て、速く遠くの的へと力の限りあなたがたを引き絞る
満悦と良き心のもと射手の手に委ねられよ
彼の御方は飛ぶ矢を好まれると共に、不動の弓を好まれるのだから

ジブラーン・ハリール・ジブラーン『預言者』より
 
 生は、他の何よりも予期せぬできごとに満ちている。また、他の何よりも人々の過ちに満ちている。すべての過ちには代価があり、時には自身が払い、時には誰かが一緒に(あるいは代わりに)払う。思うに、他人の過ちの代価を支払わせられることほど酷いこともない。勇気と名誉、人間性と気高さのもと、自分の過ちの代価は自分で支払わなければならない。どうにも避けがたく、彼らは教育におけるあなた方の過ちの代価を支払うが、彼らが大きくなった後になってまで、子供のように扱い、選んだり決めたり、自分の好きなようにしようとしてはならない。好きなようにさせてやらなければならない。そのやりたいことが、自分にとって理解できないことだったり、気にくわないことだったとしても。
 人間には誰にでも、自分自身の過ちを犯し、自分自身の愚行を行い、自分自身の成功を得る自由がある。子供たちには、小さいうちに自分の知っていることを教え、大きくなったならば、役に立つと思う意見のある時には言えば良いが、強制してはならない。人生を左右するような大事な決定は、彼一人のものでなくてはならない。成功すれば、自身を解き放った弓に感謝すると共に、成功に誇りを持てるだろう。失敗しても自分を責めるだけだ。過ちから学び、人としての責任を負う。
 これはもちろん、過酷な仕事だ。母や父が子供たちに寄せる無条件の愛から、彼らが自分たちの物語の延長ではなく、彼ら自身の物語の始まりを知ることへと別離する。別の方面から見ても、やはり過酷だ。息子や娘が、この無条件の愛をないがしろにしたり軽んじることなく、いかにして庇護を離れ自分自身となるか。この困難な仕事を、血を流すことなく成功裏に成し遂げるには、とりわけ、僕たちの社会のように、子供たちと家族の結びつきの強い社会では、両者が共に努力しないといけない。やってみなくてはいけない。
 ここを今読んでいる人たちの多くが、これを家族に読ませたい気持ちになっていることは分かっている。行って読ませてあって欲しい。イシーリーというヤツが言いたいことがあるって、言ってやって欲しい。それから、皆さんが彼らの立場になった時にも、読んだことを忘れないで欲しい。

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