なぜ礼拝するのか

 礼拝は多くの理由で、特別な信仰行為だ。その第一であり一番重要なのは、繰り返されるということで、礼拝はその度に人間に対して主を示す。問題は、礼拝は繰り返されることにより、考えずに行われるルーティンとなってしまうかもしれない、ということだと思う。この人は主を知り、毎日主に向かっているにも関わらず、その行いは不適切なものとなってしまうだろう。
 第二の局面は、「あなたがやっているこの礼拝とは何か」と言う人々がおり、繰り返し礼拝を行っている人は、その態度や振る舞い、仕事やすべてのことにおいて、違いがはっきりしている、というのは確かに筋の通ったことだ。しかし同時に、礼拝とは人間と主との間の特別な関係であり、何人もその間に首をつっこむことはできない、ということを忘れてはならない。
 礼拝が業務的なルーティンになってしまうことから人が身を守るには、わたしの考えでは、一つしか方法がない。なぜ礼拝しているのか知ることだ。あなたに教え納得させてくれる人に尋ねたり、自分の中を探し礼拝の理由を見つけたり。とにかく問いに答えなければならないし、その答えは論理的で納得のいくものでなければならない。少なくとも、あなたにとって。間違いなく、重要なのは、立ったり座ったり、胸の前で十字を切ったりということではなく、あなたが行っているものの背後にあるものだ。何のために礼拝しているのか?
 天国に入るために礼拝する、地獄に行くのが怖いから礼拝する、というのはまったく十分ではない。もちろん、アッラーのみぞ知ることだが。というのも、何か他の理由で、礼拝していないのに天国に入るということはあり得るし、人生すべてを懲罰以外の何者も値しないように生きて、それから悔悟するかもしれないし、逆もあり得る。どうやって知るというのか。また、例えば、殉教者が天国に入るのかということについて、わたしたちは一致していなかっただろうか1。だがその殉教者が礼拝していなかったら? 答えてはいけない! 何も言うまい、わたしたちは知らないのだ。生涯礼拝して、その礼拝が受けいられないことだってあるかもしれない。これもまた、どうやって知るというのか。人の心の中に入るとでもいうのか? わたしたちが主だとでも?
 もちろん、礼拝の背後に美しい真の哲学を抱いている者がいない、などと言うのでは決してない。沢山いることだと望んでいる。礼拝における恭順により、魂を高め、創造者へと近付いている、そうした者は、倫理性や振る舞いや仕事や考え方や生き方にもそれが反映されているだろう。しかし、多くの者の心において、明らかに礼拝の背後に哲学がない。つまるところ、礼拝するものは天国に入り、礼拝しないものは地獄に行く、と考えているのがはっきりしている。
 このような混乱は、次のような形でも現れる。例えば、ある人が別の人にこう言う。「間違ったことをしているのに、礼拝しても意味がない」。するとこう言われる。「では終わらせてから、礼拝しよう」。また別の人は、こう言う。「ただ礼拝しなさい、主はあなたを尊ばれるだろう」。するとこう問われる。「礼拝していても別に良いことは起こらない。礼拝の必要性とは何なのか?」。三番目の人はこう言う。「良い人間と悪い人間の違いは礼拝にある」。するとこう考える。「礼拝しているけれど、その倫理性たるや酷い人達を沢山見た。泥棒や賄賂を受け取る人や背徳者やゴミのような者たち、この人達は大抵礼拝し斎戒し巡礼し、全部キチンとしている。つまり、礼拝は人を善良にもどうにもしない。わたしは礼拝なしで善良になろう」。また別の人はこう言う。「そんないい加減な礼拝の仕方では駄目だ。きちんと礼拝するか、礼拝しないかだ」。すると彼は自分自身に対してこう言うことになる。「では礼拝しないことにしよう」。それはあなたたちの決めることか? あなたたちに礼拝しているのか、それとも主にか? 何がそこに割り込めるというのか。
 わたしは個人的には、礼節に則って礼拝することに長いこと満足しているし、主が礼拝を命ぜられたと信じているし、アルハムドリッラー、礼拝を阻むようなものはなく、可能な状態であるから、礼拝しなければならない。この理屈が正しいと依然納得しているにも関わらず、時々、不十分ではないのかと感じることがある。何が欠けているのか、理解し始めたところだと思っている。主が他の答えをお赦しになるまでは2
 礼拝は、同意頂けたように、そもそも繰り返し主に帰るということだ(実際的であるより象徴的)。ところで、美しいものも醜いものも死して創造された御方へと帰る。これを生きている者に当てはめてみる3。すべては帰るのだ。正しきものは主のもとへ帰り、悪しきものもまた帰る。敬虔なものは、恭順に仕え主へと帰り、泥棒は盗みに出かける前に二ルクアの礼拝する。あるいは、警察から守られるようドゥアーする。間違っているか正しいかという問題ではない。これは自然に起こることだ。泥棒には別の主がいるというのか? そうではない、同じ神であり、すべてが彼へと帰るのだ。
 これを犯罪者だけでなくすべての人に当てはめても、同じことだ。今礼拝しているのは、何かを必要としているからだ。時には、何かが怖いからだ。明日には何が欲しいからだろう。その後には、何かについて主に感謝するため。その後には、自分のやったことで良心が咎めるから。その後には、天国に入りたくて、地獄に入りたくないから。苦しい、塞ぎ込んでいる、心動かされる風景に出会った、誰かが死んだ、誰かが病気。毎日毎時毎秒、千以上ものことで、わたしたちは主へと帰らされる。良いことをして嬉しくて主へと帰る。悪いことをして苦しくて主へと帰る。成功して主へと帰り、失敗して主へと帰る。嬉しくて主へと帰り、悲しくて主へと帰る。主に仕えるに相応しい心理状態で主を訪れるし、また集中していなかったり苦しかったり多くのことを考えながらもまた、主を訪れる。
 常に訪れ、常に主へと帰る。彼こそが魂の源であり、帰り処だ。あなたは彼より来て、彼へと帰る。誰一人としてあなたと主の間に入ることは決してできない。彼はあなたの頚の血管よりあなたに近いのだ。

  1. 殉教者は天国に入るし、これに異を唱えるムスリムはいない []
  2. まえがきで著者が書いている通り、この答えは現時点でのものであり、後により良い答えが見出されるかもしれない []
  3. 同箇所やや意味不明瞭だが、すべての者が死して主に帰るように、礼拝とは主へ帰ること、生きている間に経験する小さな死のようなもの、ということ。死と同様に礼拝が人を選んではならない。死が万人に平等であるように、礼拝も平等であり、善人も悪人も礼拝する。翻せば、礼拝していることが善人の証拠にはならない []

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