劇場

 「この世は巨大な劇場にすぎない」。
 こう言ったのは、その時代に先んじた偉人、人類が他に似たものを見出せない才能の持ち主、シェイクスピアだ。
 この言葉は以前にわたしの心に光を与え、それ以来、この世が暗くなる照らし出してくれた。
 人間は常に幸せになろうと探し求めている。これはご理解頂けよう。確かに幸せは、誰もが知っている計画済みの道からやって来るかもしれない。自分に満足し、愛し愛され、成功し、自己実現し、等々。しかし、劇場というこの考え方は、とても大事なことを付け加える。それは次のようなことだ。
 一緒に想像して欲しい。もし人間が自身を役者、巨大な劇場の役者と考えたとする。ただ役者であるだけではない。確かに、彼は自分の名前や境遇を決めたわけではないが、脚本にある出来事や役割を変える能力はある。
 彼の役だけではない。他の役者たちの役に関する事柄も変えることが出来る(同じ場面に登場していている者たちや、自分の場面が巡り巡って彼らの場面に影響する場合まで)。
 自分を巨大な劇場の役者であると考え、人生を役柄と見るなら、大事なことがいくらか理解できるようになる。
 その1:わたしは主人公である必要はない。主人公となる場面もあれば、脇役となる場面もある。普通のことで、何ということではない。
 その2:まったく主人公になる場合がないかもしれないが、これも普通のことだ。この世(つまり劇場)は、常に役者の数より主人公の数が少ないものだ。
 その3:もしわたしが主人公でなかったとしても、きちんと役を演じなければならない。というのも、もしきちんと演じなければ、台無しにしてしまうからだ。台無しにしてしまうなら、わたしはダメな役者だ。わたしの重要性は、役の大きさによるのではなく、そこで尽くした努力と、それからパフォーマンスの出来による。
 その4:芝居全体がとても酷くて、わたし一人が良い、ということもあるかもしれない。わたしの役が大きいか小さいかに関わらず。芝居を見た人は言うだろう。「芝居は酷いものだったが、何某という役者(わたしのことだ)は素晴らしかった」。確かに、わたしの役は他の役者たちに影響されるが、もしわたしがキチンと演じれば、わたしの努力はまるで無駄になってしまうというわけではない。
 今日の世界では(いつでもそうだったのかもしれないが、今日ではより明らかなことに)、物質的な競争社会であるがゆえに、人々は稼ぐようにせかされ、一番にならなければならない、主人公にならなければならない、先んじなければ、追いつかなければならない、とせかされている。
 芝居には大きな役を演ずる役者もいれば、小さな役を演ずる役者もいる。この役者もあの役者も、両方ともキチンと役を演じなければならない。もっと大事なのは、演じている役を好きであることで、それを楽しみ、そもそも役があるという幸せを感じなければならない。
 言いたいのは、一番になる必要はないし、一番優秀である必要もないし、そもそも優秀である必要もないし、果てはそもそも成功する必要すらない。ただただ、自分自身でなければならない。キチンとしなければならないし、誇り高くなければならない。でも、主人公である必要はない! もっと才能がある人がいるなら、その人が主人公になればいい。もっと運のある人がいるなら、その人が主人公になればいい。主が主人公にさせたい人が、主人公になる。主人公になる方法を知っている人が、主人公になる。わたしたち皆が、主人公や金持ちや成功者になる必要はないが、演じなければならない。わたしたち一人一人が、自分の役を演じ、キチンと演じなければならない。
 また常に、どんな役にも困難がある、ということを考えなければならない。もちろんその大きさについても。ある役を演じる役者は、大きくて重い冠を芝居の間中被っていなければならない。王の役だから、着ていなければならない(芝居の間中一言も発しないにしても)。ある役の役者は、芝居の間中、毎日声がガラガラになるまでわめき続けなければならない。ある人はこれを運び、ある人は暑さの中で厚い服を着て、ある人は寒さの中で何も着られない。誰にでも困難があるが、芝居を愛しているのだ。芝居が好きでなければならない。そうでなければ、どうやって毎日演じ続けるのだろう? 演じることが好きで演じているのでなければならないし、他に選択がないから演じなければならないし、役者なのだから演じなければならない。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする