宗教的統治について

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 この呼び方にはそもそもの始まりから、沢山のややこしい問題がある。沢山の原因があるが、その最も大事なのものは、思うに、ほとんどの人々が宗教的統治とは世俗的統治の反対だ、と考えていることだ。僕が考えるに、これは正しくない(それに近いことは世界で起こっている訳だけれど、ことの本質ではない)。なぜなら、簡単に言って、それとこれの間には多くの段階があるからだ。知恵ある者なら到底無視できない様々な種類が。宗教の支配する宗教的統治か、あるいは宗教のない国か。中庸というのは、こういう大きく広範な問題については、いつでも最善の解決法だ。
 第二に、この世の歴史において、いかなる社会における倫理性の地図にも、諸宗教の役割とその他の役割の間に線を引くことは不可能だ。宗教という概念は、公正、権利、善と分かちがたく結びついていたのであり、これらはすべての国が憲法や法律によって実現しようとしていることだ。その方法が世俗的であれ、宗教的であれ、その間であれ。それゆえ、宗教を持たないけれど倫理性には悖らない人々のところに言って「宗教と倫理には関係ない」というのは正しくない。そんなわけにはいかない。なぜなら、この社会は他の社会と同様、倫理的コードを無から作り出した訳ではない。人間の長い歴史全体から受け継いだものなのだ。
 とりあえず、今はこの言葉を一般に理解されている意味で使っているが、その定義から始めてみる。宗教的統治とは何か。宗教的統治とは、宗教と政治の混同の極みにあるものだ。宗教的統治とは、統治者が国の統治において宗教の筋道に従うというものだ。宗教的統治の歴史は長く、人間の歴史と共にある。古代エジプトのファラオから、ギリシャ・ローマにおける宗教組織の率いた帝国制、僕らが知っている通り、今日の世界を形作るにあたって教会が政治と強く結びついて担った大きな役割、ムスリムの統治者が同時にカリフであったカリフ制。
 宗教国家といって僕の心に浮かぶ最初の問いは、もしその国の半分がある宗教を信じ、もう半分が別の宗教を信じていたら、その宗教国家というのはどちらの宗教のものなのか、ということだ。多数派であれば問題解決なのか。誰にとって都合の良い解決か。もし本当に多数派に基づいて国が作られ、それから二百年経って、多数派のほとんどが移住しバランスが反転していたら、新しい人口構成に基づいて一から国を作り直すのか。あるいは国を分割して二つにするのか。では、三つの宗教があったら。あるいは五つなら。まったく明白なことだが、始まりの始まりから落とし穴だらけだ。もし落とし穴が見えないのだとしたら、よく考えていないのだ。この状況を実際的な仕方でよく考えて、少なくとも投げかけ得るすべての問いに対して答えようとしてみるべきだ。
 この世の多くの人々、とりわけ現在の状況下では多くのムスリムが、宗教的な国家に住みたいと思っている。なぜなら、主は僕らが宗教の統治する国で生きることを望まれている、と信じているからだ。だから例えばムスリムなら、イスラーム的統治の元で暮らすべきだ、ということだ。とりわけこの点に関して言いたいのは、簡単な話、もし世界に一つも(例えば)「イスラーム的」と自称する国がないとしても、ムスリムは依然として世界中のあらゆる場所にいる、ということだ。イスラームは他の宗教同様、どんな場所のどんな状況の元でも生きられる宗教だ。なぜなら、それは信じる者の胸の内で生きているからだ。
 ここでは特にイスラーム国家という概念について語ってみたい。話を一般的にすると本一冊丸々使ってしまうので。
 まず、今現在世界には、三種るのイスラーム国家(ムスリムが多数派である国家)がある。第一は、世俗主義を公言している国家だ。トルコ(98%がムスリム)、マリ(92.5%がムスリム)、カザフスタン(56.4%がムスリム)などだ。第二に、その法制度がイスラーム的法制度と市民法によって構成されている国だ。エジプト、パキスタン、アフガニスタン、インドネシア、モロッコ、ナイジェリア、スーダンなどがこれにあたる。最後に三番目が、サウジアラビアのように、国のすべての法制度がイスラームのシャリーアに由来するものだ。イランも同様だが、彼らには民主的議会があり、イスラーム的法制度の元で運営されている。
 イスラーム的宗教統治の支持者たちは(そう信じて望んでいる理性的な人々のことだ、過激派だからではない。過激派には話しかける言葉を持たないし、話したくもない)、二つの点に基づいて支持している。第一に、シャリーア(イスラーム的宗教法制度)は、統治において公正な秩序であること。なぜならそれは宗教に依拠しており、宗教は本性において公正なものであり、公正こそが人が最も望むものであるから、就航的統治は一般的に言って良いものだ、というわけだ。もう一つの根拠は、宗教的統治は社会が寄って立つ宗教的土壌を形成し、倫理性は向上し腐敗は減り(ある種の人々はなくなると言っている)、宗教的原則が広まれば社会全体の良心が改善される、ということである。
 これは理屈の上では、本当に正しいことなのかもしれない。しかし現実的に、宗教的統治が、とりわけ人間の歴史の中でのこの時代において、直面するであろう問題の詳細について、見てみようではないか。
 第一に、宗教的統治を求める人々が、同時に民主主義も求めている。ではどういうことが起きるのか。公正で自由な選挙が行われ、宗教政治運動の代表者に投票し、選挙に勝ったらアッラーの命において統治する。そう望んでいるのだ。だがまず最初から問題が現れる。宗教の命による統治者は、一般的に言って、民主主義的環境の元ではそもそも機能しない。なぜか。民主主義はそもそも、決定がある特定のものに拠らない、ということが基本にあるのだ。民主主義は、多数性と政権交代に拠っており、反対者の存在を必要とする。しかし宗教的統治者は、宗教と宗教的方法に密着しており、ある種のカリフのようになっている。原理からして、多数性も政権交代も、原則も方法も異なる本当の諸政党も、もちろん反対者もないことになる。なぜなら、「彼らが見るところの」宗教に基づいて統治している者に反対する者は、実に簡単に、宗教的統治そのものに反対しているとみなされてしまうからだ。そうなってしまえば、民主主義という考えはその始まりから消えてなくなる。その民主主義こそが、その統治者が今日やって来ることのできる唯一の平和的で合法的な道であるのだが。
 第二の大問題は、政治とは汚いもので、現世的なゲームだ。誰でも知っている。だとすれば、政治で勝つのは誰か。ずる賢く計略に長け、このゲームの原則をよく理解いている者だ。この政治という名のゲームには、ある種のルールがあるということは、僕たち皆が知っている。その政治のゲームに、宗教政治家を自称する者が入ってきたら、彼はどっちのルールに従うのか、宗教のルールか、政治のルールか。例えば、ある社会に複数の宗教政治運動があり、それぞれが権力の座を争ったとしたら、勝利を手にするための条件は、最も正しい者とか清廉とか潔白とか、主を良く知っているとかいうこととは全然関係ない。政治のゲームとそのルールをよく分かっている者だ。邪悪か善良か。政治は強い者が勝つのだ。
 算数では、1足す1は2だ。しかし政治では「その1は誰が払うんだ? 俺が払うなら、何が見返りだ? 足したら何が手に入るんだ? 1をこっちから、別の1をこっちから借りてきて、1を出してやるから、3受け取れ。それで7返せ。ただ返したことは誰にも言うな」となる。宗教はどうだろう。宗教は公正と正義を愛するゆえ、質問も変わる。「どの1だ? もう一つはどの1? どうしてそれらを足すんだ? どういう方法で足す? 足したら誰かを傷つけることにならないか?」。まるで違う方法だ。宗教政治家はどの方法を使うのだ。もし本当に政治において宗教的方法を用いるなら、他のゲームの参加者が違うルールに従っているところで、どうするというのだろう。
 もっと実際的な仕方で考えてみよう。例えばいま、政治的な交渉があり、アメリカと一緒にやらなければならないとする。宗教的統治者はこの交渉で、このゲームのルールを知っていて、この交渉で国益を確保したいと望む政治家として振る舞うのか、それとも「宗教」政治家として、国がイスラーム的になり、自らがカリフとなるべく振る舞うのか。目的が違うのだ。
 では、まったく宗教的ではない問題があるとしよう。国が橋を作るとか、スイカ畑を作るとか、ヤギを育てるとか、教育を改革するとか、何でもいい。こういものにはハラールもハラームもない。どれが一番良いか、将来にとってどれが有益か、これをどう成し遂げるか、どういうやり方で。ここに問いたいが、誰がこうした問いに答えるのか。もちろん、その分野を知っている者だ。では、こうした問題の何でもいい、それについて一番良く知っている者が、例えば無神論者だとしよう(落ち着いて付いてきて欲しい)。宗教的統治の体制は、この男に助けを求めるのか。もちろん、そんなことはしない。宗教的統治者が、そもそも宗教の外にいる者にどうしてそんなことをするだろう(仮定の通り、彼が一番それについてよく知っていて、かつ祖国にも忠実であるにも関わらず)。すると何が起こるだろう。この「適任者」の手を借りれば得られた筈の益を失う。宗教の命による統治者の目からすれば、彼を使うわけにはいかないからだ。一応言っておけば、宗教そのもんは、国が大工や肉屋や医者や技師や諮問管の手を借りることを、その者が無宗教だろうが信心深くなかろうが意見の相違があろうが、禁じてはいない。しかし、皆さんご存知のように、今日のこの状況でもし宗教的統治が成り立てば、間違いなくこういうことが起こる。この想定は別に難しくない。実際現実に、ムスリムがキリスト教徒を雇用しなかったり、キリスト教徒がムスリムを雇用しなかったりということがあるのだから。まして宗教的統治となれば(だれがやるのでも)、何が起こるやら、だ。
 では、無神論者だとか、礼拝しないとか、酒を飲むとか悪業を働くとかそういうのでなければ、果たして宗教の命による統治体制は、誰の手でも借りることができるのか。その答えがどうであれ、そもそも彼らすべてについてどうやって知るというのだ。政府が使う人間を影に日向に監視するのか。さらに難しいことだが、隠れた良心をどうやって裁くのだろう。
 人々を「宗教的」基準で評価するのは不可能であり、彼らが隠していることを知るのも不可能だ。使いたいと思うものについては、経験や資格や教育で測るのだ。なぜなら第一に、それらは知りことができるし、第二にその価値こそが必要なものだからだ。「ある種の」状況では、倫理性もまた重要かもしれないが、宗教はまったくどうでもいい。宗教的観点には、大臣や責任者たちなどを選ぶ力はない。なぜなら、単純に言って、彼らを評価する手段を持たないからだ。それとも、より信心深い者を大臣にするとでも言うのか。
 こうした宗教的政治の問題ゆえに、宗教の統治するイスラーム国家を望む人々がいる一方で、市民社会に暮らしつつも、イスラームを寄りどころとしたいと望むムスリムたちがいる。つまり「宗教は統べず、統べられる」の原則を適用するのだ。宗教組織は、諸問題について統治者の下した決定について、これが宗教的原則に沿うものと確認した上で、承服する、ということだ。大変結構、素晴らしい。しかし残念ながら、それでも問題は解決しない。例えば、地下鉄を作るのに外国の会社を使うとしよう。日本の会社と、マレーシアの会社と、アメリカの会社があるとしよう。そして、日本の会社が一番優秀で安いとしよう。宗教はこれについてどう意見するのか。イスラームの国だから、マレーシアから買おう、と宗教的見解は述べるのか。あるいは、イスラーム国であるアフガニスタンやイランを攻撃したから、アメリカからは買わない、と言うのか。それとも「日本のが一番良いから日本にしよう」と言うのか。宗教的観点に基づいて決定を下していたら、このようにこんがらがってくる。国は最低の契約を結ぶ羽目になるだろう、そもそも地下鉄とは本当のところ何の関係もない原因のせいで。それが宗教と関係があるということを示すものすらない。日本から買うという真っ当な判断をするなら、宗教家に居場所はない。彼らが地下鉄についてどこから知るというのだ。
 では、臓器移植について宗教家に尋ねるのか。この件については、世界中が喧々諤々の論争をしているが、僕たちがそこに追いつくのは二十年後だ。なぜなら、宗教家たちがこの医学的人間的社会的であって宗教的では全くない問題について意見をまとめるのを待っているからだ。もちろん、こうした問題につきまとう社会的な危険というのは沢山ある。だが、世界中で社会、哲学、法がこれを避けるために頑張っているのに、どうして僕たちにとってはこれが宗教的問題なのだろう。
 では宗教家が統治者に「エルサレム解放のためにイスラエルと戦争しよう」と言うことはできるのか。これは政治的な決定だ。その結果について、宗教家がどうして分かる。政治屋なのか。統治者が何でもかんでも宗教家に相談するというのは、一体有効なものなのか僕にはさっぱり分からない。宗教的な事柄なら、もちろん有効だ。しかしすべての事柄ではないし、十分の一ですらもない。
 まだ疲れるのは早い、これからだ。
 では、どこでであれ宗教的統治の政治体制がある時、あるいはあらゆる事柄について宗教に依拠する政治体制があるとして、この地であまり宗教的ではない人々が暮らしていたり(百人くらいであらんことを)、あるいは多数派とは異なる宗教を信じる人々が暮らしていると、問題が始まる。ある種の拒絶、一番少なく見積もってもセンシティヴな問題だ。こうした拒絶とかセンシティヴな問題というのが個人の間にあっても、国を脆弱にさせる。しかしこれらが国そのものからやって来るなら、統治体制そのものから来るなら、これは災厄というものだ。
 統治体制に代表される祖国が国民を拒絶するということは、どういう程度であってもあり得ないだろう。そうしたらどこで暮らすというのだ。他の人々と同様にその土地、その国に暮らしてきた人々なのだから、土地につても国についても体制についても、他の人々と同様であるべきだ。主については話は別だが、国民の宗教に国は関係ない。このように、国が宗教的性質を帯びると、自分自身の中に、自分と自分の一部の間に、簡単に間隙を作り出してしまう。もちろんこれらはすべて、必ず起こるというものではない。もし宗教が「本当に」理解されれば、すべてを扱い得るし、イスラーム的宗教的統治(例えばだが)が穴の中の蟻の権利を守ることもできようが、宗教によって統治する者と統治において宗教に依拠するという者たちが、本来望まれる形としての懐深く寛容な宗教を理解していると、一体何が保証してくれるというのか。
 もしこの難問をよく理解したならば、すぐさま「宗教はアッラーに、国は民衆に」ということが分かるだろう。民衆に、だ。
 一方、憲法や法律というのはそもそも作られたものだ。すべての人々を同じに扱うように。もし法律に誤りがあれば、例えばかつて色々なところにあった黒人差別の法律のようなものがあっても、これは人が定めたもので、しばらく時が経ち努力が為されると、別の人々がこれを間違いだと気付く(あるいは認めざるを得なくなる)。なぜなら黒人の権利に対してまったく不当であり、公正でなく差別主義的なものだからだ。そしてその法律を変える。すると今度は、その同じ国々の法律が、すべての人々をあらゆる形の差別や偏見から守るようになる。しかし宗教的統治が同じ状況にあったら、そもそも宗教に結びついた行いというものについて、どう過ちを認めるというのだ。宗教が間違っているとでも言うのか。言うわけがない。本当は「わたしが間違っていた、宗教がこの件を扱うやり方をよく理解するようにする」と言うべきだ。しかし皆さんは、僕らの中の誰か一人でも、そんなこととか、何か宗教の名における似たようなことを口にするのを聞いたことがあるか(あるいはどんな名によるものでも!)。
 この件について重要なことを、レバノンにおける民主主義の経験から学べるかもしれない。レバノン人らは、宗教諸派の間の血みどろの抗争を解決するのに、各宗派がそれぞれの地位を割り当てられることにした。大統領はマロン派キリスト教徒、首相はスンナ派ムスリム、国会議長はシーア派ムスリム、と、こうして問題が解決されると思った(あるいはフランス人が善意で落とし穴を掘った)。しかし実際には、レバノン人にとって国より宗派が明瞭になり、皆が一つの国の中にある異なる国に帰属するようになってしまった。差別と偏見が影でも日向でも政治の主人公になり、国益よりもこれらが第一になってしまった。大統領はこの宗派とかあの宗派とかが大事なのではない、その役職に相応しい人物がならないといけない。他の役職も同様だ。宗派やエスニシティへの帰属というものは、いかなる状況のもとでも公正な選択の基準とはならない。
 宗教的統治ともレバノンにおける宗教と政治の混同とも異なるが、小規模ながらも似たような例を、僕たちの現在の状況の中にも見つけることができる。法律自体が、宗教との混同によって問題解決の妨げとなっている例だ。
 例えば、バハーイー教徒の問題は、身分証の宗教欄を空欄とすることで決着した。これで問題が解決したのか。バハーイー教徒がいなくなったとでも言うのか。宗教欄に「バハーイー」と書いてしまったら、その存在を認めることになってしまうから、というだそうだ! 政府がどうして僕の宗教を認めたり承認したりする必要があるんだ? お前に何の関係がある? 政府の権利は、それが誰で、なんという名前かを知ることだ。僕の名前はハザルウーム1、名乗った通りに書けばいい。宗教を書きたいだって? 宗教がなんだってんだ? ゾロアスター教だよ、そのまま書けばいい。正確な統計がとれるように、誰が誰だか分かるように。これは社会にも政府にも有益なことだ。しかし視線を逸したところで、それが消えた訳ではない。ダチョウの真似事をしてもどうしようもない(ちなみに、ダチョウが砂に頭を突っ込むという話はただの俗説らしい)。
 現在のエジプトでは、エジプト人がタイに行って向こうで結婚し、仏教徒のタイ人の奥さんと帰ってきて届けを出そうとすると、ダメだ、天啓宗教じゃないといけない、と言われる。天啓宗教じゃないとダメって、どういうことだ。結婚を認めるのに、これこれの宗教じゃないといけないって、国が言うのか。身分証が気に食わないからといって、政府が国民に偽造を要求するのか。確かにこれは、彼の宗教には反している。啓典宗教の信徒以外と結婚するというのは。だが、それを裁くのは主であって法律ではない。国家よ、お前の仕事は権利を守ることだ。宗教に反するからといって、国が国民に身分証の偽造を命じるのでは、権利も何もない。しかもこの国は、宗教国家でも何でもないのだ。いわんや宗教国家ともなれば、仏教徒と結婚したこの男がどうなることか。間違いなく罰せられるだろう。
 アッラーが地上で適用させるべくしもべたちに預けられた制限や罰則を眺めれば、それらがすべて権利に関することだと分かる。だから社会は、盗んだ者、殺した者、他人の権利を侵害した者、悪を働いた者を罰することができる。もし仏教徒と結婚した男が彼女を家から追い出し通りに放り出したら、国はこの男を罰しないといけない。国が守るのはこの女性の権利だ。しかし僕の考えとしては、国民が主の言葉を聞かなかったからといって、社会にはこれを罰する権利はない。法は人々すべてとその権利を守る法の言葉を聞かなかったものを罰する。
 丁度、ラマダーンに人前で食べたり飲んだりしたからといって、法で罰することできないようなものだ。何を言うというんだ。こっそり食べろとでも言うのか? それが国が国民に言うことか。そもそもイスラームには、斎戒しなかった者に対する現世での罰はない。ムスリムの預言者の国には、斎戒しなかった者に対する罰はなかった。それを僕らが罰して、宗教に付け加えるのか? 斎戒はムスリムの最も重要な宗教的義務の一つだ。しかし斎戒しなかった者をどうこうするの主だ、僕たちではない。ラマダーンに公共の場で食べると、斎戒している人たちに迷惑だから罰する? 斎戒するのに周りの誰も食べてはいけないのなら、ヨーロッパやアメリカやその他の非イスラーム世界に生きるムスリムたちはどうやって斎戒するのだ。
 礼拝しなかったからといって、法で罰するようにするのもダメだ。礼拝は単にムスリムの義務であるのみならず、最重要の義務だ。だがどうして法が罰してはいけないのか。皆が礼拝しているかどうか知るなど不可能だし、礼拝するのは法律に対してじゃない。法の知ったことじゃない。すべての人のすべての宗教的義務の順守について法が知ることができない以上、扉を開いてはいけない。閉じることも入ることも出来なくなる。
 僕は、市民法というものは、いかなる宗教的規則の順守も人々に課すことはできないと考えている。宗教の概念は、信じ従う時の、その信仰と恭順に根ざしている。しかし法が宗教的命令の順守を課したらば、第一に宗教に従うという選択が禁じられることになる。なぜならそれは単に義務だからだ。第二に、もし気に食わなければ従わないという(主が与えられた)個人の自由を奪うことになる。第三に、法に本来のものではない権利を与えることになる。強制とか義務とかいったものは、そもそも宗教に従うという行為を損なうものだ。なぜならそれは、選択の自由を奪うからだ。その選択の自由があってこそ、人は行為に対して報奨や罰を受けるというのに。
 こうしたことすべて、イスラームの専売特許ではない。世界のほとんどでは、「キリスト教的な教えに基づき」二人以上と結婚した者は監獄にぶちこまれる。たとえムスリムが、その信仰から、四人と結婚できると考えていたとしても。外国人もまた、こうしたことを法によって強制することはできないと思う。教会がキリスト教徒に一人としか結婚できない、と言う。大変結構。それは彼と教会の間の問題だ。国に首を突っ込むことじゃい。どうして教会が国に、宗教の言葉を聞かない者を罰する法律を作れ、と言うのだ?
 また、ムスリムが七人と結婚したからといって、どうして法律が罰するのだ? 法が罰するのは、政府への届け出なしに結婚したり、相手の承諾なしに結婚したり、その七人のうちの一人との婚姻契約に違反した時だ(別に誰にも七人と結婚して欲しいわけじゃない。原則の話だ)。
 初期イスラーム国家がイスラームのシャリーアを適用したから、ムスリムが暮らしている市民国家でもそうしたい、というなら、初期イスラーム国家というのは、イスラームの周りに、イスラームから成り立ったものだ。その設立からしてイスラームを守り広めることが目的だった。だから法律も憲法もイスラーム的だったのだ。ハッド刑を含むイスラーム教育も課していた。この国はそのアイデンティティからしてイスラームだったばかりでなく、シャリーアを適用することを許す状況があったのだ。例えば手を切り落とすことなどだ。この罰は、どんな状況のどんなムスリム社会に対しても正しいというものではない。まず社会に公正と社会正義、道徳があり、飢えている者がいないのでなくてはならない。それから盗んだ者に(脅しとして)盗んだら手を切り落とすぞ、と警告し、それでも何度も何度も盗むようなら、仕方がない、となるのだ。
 しかし国が、不正、絶望、汚職、失業に満ちていて、食べるものもなく教育も文化もないのに、手を切り落とすだって? 国民の半分が手を切り落とされることになる。「真偽を分かつ者」ウマル・イブン=ハッターブは、飢饉の年には窃盗に対するハッド刑をやめさせた。状況が変わり、ハッド刑を適用するのに相応しくなくなったからだ。飢饉によって状況が変わったとされるのに、例外なくすべてが変わったような世界に、どうして初期イスラーム国家の法制度やハッド刑や罰則を適用できるというのだ。
 人間は宗教から、何が罪で何が罪でないかを受け継いだ。そしてその目的を理解した後、自分自身で誤った行いを禁じた。窃盗に対する罰則は投獄になった。だからといって、宗教を捨てたわけではない。また、遺跡売買や麻薬の密輸、資金洗浄などの新しい犯罪を法律によって禁じた。宗教はそれらを知らなかったのだから。法律は宗教や論理や知性から、盗んだ者は罰せられるということを受け継ぎ、それから社会の状況や犯人の状況にあわせて窃盗に適当な罰則を定めた。
 ここで重要な問いの出番だ。宗教の命による統治、あるいは宗教の支配というものは、絶対的な一つの方法しかなく、すべての人々が意見の一致を見ていて、一度それに従えば相違はない、というものなのか? それとも相対的で変わりうるものなのか? 答えは簡単だ。イスラーム以前に、諸教会やキリスト教の適応における宗派間の違いを見てみればいい。単に違いがあったというだけでなく、歴史を通じて諸教会間で熾烈な戦いがあったではないか。それからイスラーム世界の地図を見てみればいい。イスラームの適用の仕方に著しい違いがあるだろう。エジプトでのイスラームの方法は、インドネシアのそれとは違うし、イランとも違う。レバノン、パキスタン、ナイジェリア、サウジアラビアとも違う。どの国でも文化y環境や状況に由来する特色がある。この特色は、宗教の扱いアタやそれに対する見方に影響するし、また当然、その適用の仕方も変わってくる。それから、時の流れによる違いも見てみるといい。イスラームは千年前からあるものだ。五百年でも今できたのでもない。もちろん、信仰の原則は一つだ。しかし理解や適用の仕方、その背後にある哲学は、根本的に異なる。
 この違いというのが、宗教的統治が不安を抱かせている最大の原因だろう。千ものやり方がある。もし民主主義的な統治を行う、というなら、比較的意味するところは分かる。しかしイスラーム的方法で統治を行う、と言われても、要するにどういうことなのかよく分からない。なぜならそれは、文化ごとに違ってくるからだ。銀行はハラームだから閉鎖する、と言い出すかもして経済システムを根本的に変えるかもしれない。テレビは宗教番組以外ハラームだと言うかもしれない。髭を伸ばさなかったら投獄する、シャリーアに沿ったヒガーブをしないと投獄する、と言うかもしれない。何でも好きなことを言いうるし、その時にはそれが宗教の命であるということによって従わなければならない。本当のところ、それは「その人が宗教の命だと考えていること」でしかないのだが。
 宗教的統治ということで意見が一致したとしても、その後やって来る統治者が全然違うことを言うかもしれない。それも宗教から持ってきたというものを。その時はどう言ったらいいんだ。宗教的政治により統治するということに合意してしまったのに。
 僕は本当のところ、宗教的統治はこの時代において妥当ではないとはっきり考えている。なぜなら、預言者抜きでは成り立たないと思っているからだ。預言者は神と結びついており、あらゆる重要な問いに対する答えを持っている。
 イスラーム国家の歴史をその始まりに振り返ってみよう。預言者(彼に平安を)が亡くなった時、彼は、控えめに行っても非常に困難な状況の元で、初期イスラーム国家の基礎を築いていた。その後やって来たアブー=バクルとウマルは人類が生んだ最良の人々であった(贔屓にしているわけではなく、歴史がそう証していることを誇っている。ウスマーンとアリーについても同様に歴史が示している。彼らにアッラーのご満悦あれ)。そして公正と平等と正義に拠って立つイスラーム国家という概念を確固たるものにした。三代目・四代目正統カリフであるウスマーンとアリーの時代に政治的問題が増大し、それからアッラー以外に何も恐れない公正なる国家という概念は少しずつ減衰し始めた。その果てが宗教政治家だ。統治者の言葉を聞き従い、おべっかを使って、征服の手助けをしたりした。
 これから何を学ぶのか? 政治が入ってくると宗教を堕落させ、害をもたらすということだ。なぜなら、宗教を利益の獲得手段として使い(時には正しい目的の場合があるにせよ)、政敵を倒す武器の一つとして用いられるようになるからだ。
 政治は常に宗教を腐敗させるのか? 宗教的統治は常に国を腐敗させるのか? そんなことはない。ただほとんどの場合にそういうことが起こったと、歴史が示している。
 またイスラーム以前に、キリスト教において政治が何をしたか見てみればいい。いかにキリスト教徒たちを分割し、王座を手にしそれを維持するためにどのようにキリスト教を用いたか。敵を攻撃し、戦争をしかけ征服するのに、どれほど使われたか。全く違う目的のために、神からもたらされた天啓宗教であるのに。
 聖預言者が亡くなりアブー=バクルが引き継がれて以来、今日に至るまで、スンナ派とシーア派の反目がいかにイスラーム国家の努力を台なしにしてきたか、見てみればいい。
 今日の僕らの時代に至るまで、イスラーム世界のあちこちで、宗教が政治的に利用され続けている。アラブ諸国を振り返れば、その多くで金曜礼拝の説教を、統治者の為の祈りで終わらせている。
 統治者のために尽くしたり、あるグループに肩入れしたり、誰かを王座や統治者の椅子に座らせることは宗教の仕事ではない。これらは全部政治だ。宗教の仕事は政治ではない。宗教の仕事は、正しい社会に向かい人々を主へと近づけることだ。確かにかつては、政治も宗教の仕事だった。最初の基礎を作ったのは宗教だ。自分自身を守り、平和に生きる国を作り育むためだ。その時にはこの役割を担える状態にあった。神とつながった預言者がいた。神に選ばれ、その過ちを神が正され、助言を与え、啓示を下された。
 神より啓示を与えられた預言者は、神そのものからやって来た光のようだった。その後預言者が亡くなっても、当然ながらすぐには光は消えなかった。光ある預言者と共に過ごし交友し話し、彼のその口から、方法から学び、最後の預言者のもたらした光を目にした純真なる者たちに、強い影響が残っていた。この偉大な影響により、預言者の死後も光の一部を運ぶことができた。しかし正統カリフの後、光は少しずつ弱くなっていった。その目で見た見たはただ聞いた者とは違うし、それについて呼んだ者と生きた者では違う。これは、正統カリフ以降のイスラーム国家の統治者が皆ダメだったという意味ではない。彼らの中には最良の人々がいた。彼らの中に信者の長アムル・イブン=アブドゥルアズィーズ2がいたことに触れるだけで十分だろう。アムルのなんと素晴らしかったことか。しかし一般的に言って、聖預言者逝去後のムスリム国家の統治者たちは、政治と宗教をあわせて考えるのが難しい状況にあった。これは簡単な仕事ではない。政治的責任を背負うだけでも容易ではないし、宗教的責任だけでも同様だ。いわんや二つ同時に背負うとなれば。{人は弱く創られている}と、人をお創りなった全知なる御方自身が仰っているではないか3。政治とは堕落させるもので、権力はもっと堕落させる。なぜ背負うことも出来ないものを担おうとするのか。政治家は政治をすればいい、アッラーがお助けになろう、宗教家は宗教の仕事をすればいい、アッラーがお助けになろう。
 そろそろ終わりにしないといけないので、最後の問いにしよう(ご存知の通り、総てに終わりはあるのだ)。
 宗教的統治や宗教に結びついた統治なしで、いかにして宗教の影響を社会に保ち続けるのか。他のあらゆることを保っているのと同じやり方でだ。僕らが宗教を守り、国は宗教団体を玩弄や後進性から守らなければならない。教会、モスク、イスラーム大学、キリスト教大学(もしあるなら)を守り、研究や会議を行い、才能ある者たちを尊ばなければならない。宗教哲学を再興し、ムスリムであろうとキリスト教徒であろうと、宗教の名の元に語る者については、宗教団体が厳に監視しなければならない。もしヒンドゥー教徒がエジプトにいるなら、国は彼らの宗教団体も保護し、「彼らを認めてしまうことになる」などと言わないことだ。敬虔は人をより良くするというなら、国は総ての宗教団体、五十人だけの団体でも保護すればいい。
 そして宗教の真の役割がやって来る。人々の心を阿相、良心を洗い、毎日さらされる汚れから浄化する。統治者も首相もお偉いさん方も医者も会社員も運転手も、すべての人々を清らかにする。もし社会全体が宗教の深い理解の元にあるれば、その全体に現れることだる。しかし宗教は強制ではない。義務ではない。アフガニスタンのように、ムスリムに顎鬚を生やすよう強制することはできるかもしれない。サウジアラビアのように、礼拝を強制「しよう」とすることはできるかもしれない。しかし主を知るよう強制することは不可能だ。ただ肯定的に働く形で主や宗教について教える以外、誰にもそんなことはできない。
 本当の宗教家とは、人々の心に届く方法を知っている者だ。権力を与えてくれる宗教統治を求める者ではない。
 最後に、僕個人としては、統治者が何の宗教に属しているかを知る必要もないと思っている。僕は彼の意志について判断することはできない。しかし選挙プログラムについて判断することはできる。その仕事を見たいし、考えを聞かせて貰いたいし、どのように問題を解決してくれるのか知りたい。統治者として本当に公正と平等と自由を実現し、国の発展を発展させられるのか知りたい。仕事を果たすためにどういう用意があるのか知りたい。だが敬虔であるとか、シェイフだとか、そもそも主を知らないとか、そんなことは関係ない。それはソイツの問題だ。統治者としてどうなんか知りたいだけだ。皆んなそうだろう。
 車輪の再発明はしたくない。それは大昔にやった。人間は何千年も生きてきて、統治は法と憲法によるということを見出した。法と憲法は何に拠って立つのか? 知と公正、先人の経験で、その前は諸宗教だった。両者の間に矛盾はない。ただ憲法と法は、宗教のように、誰がそれらを適用するかに左右されないということだ。別に宗教の欠点ではない。その本性なのだ。

  1. この名前は実際にはあり得ない名前で、アフマド・ミッキーのコメディ映画ル・ァ リェリアリァリャリケ ル異・ァ リァリウリェリウル・ァル・フ登場人物の名前。 []
  2. ウマイヤ朝の第8代カリフで、二代目正統カリフのウマル・イブン=ハッターブの曾孫。「ウマル二世」とも表記される []
  3. 女性章28 []