過去を肯定する、という言い方は、もちろんそう言う人々は前向きな意図なのだろうが、あまりにも雑で傲慢に映る。自己が己の過去と向き合っているかのような、そういう印象を人に与えるからかもしれない。過去はもう自分のものではない。そしてわたしたちは、巨大で抗いがたい過去を背負い、ほとんど過去に飲み込まれながらかろうじて息をしている。そのような卑小な自己と、世界そのものが対置されるわけがないではないか。わたしたちが過去を肯定する前に、過去が圧倒的にわたしたちを飲み込んでいる。
うろ覚えだが、確かスーフィーの説話で、離れ島に暮らしすべてを神に捧げて暮らした修行者の話がある。審判を迎え、修行者は問われた。「汝の行によって救われることを望むか、慈悲により救われることを望むか」。修行者は人生を捧げていたので、それにより救われることを望んだ。しかし彼の一生を費やしてなお、眼球だか歯の一本だけしか救われないと知り、慌てて主の慈悲にすがった。
過去が果たしてわたし(たち)を肯定するのかどうか、それは知らない。しかし少なくとも、自己の行いや意思において、こちらから肯定だの否定だのできるものではない。信仰とはそういうものだと思う。