体験の墓石

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写真は多くの場合、最初は体験と深く結びついたものとしてわたしたちの生活の中に入ってくる。少なくとも、写真を撮ることが当たり前になってからの世代は、そのようにして写真を自らの星座の中に位置づけるだろう。わたしたちはカメラを携えて旅に出て、旅先の風景を写真に収めるし、家族との記念写真を撮る。そのような目的に適うものとなるべくカメラは進歩していっている(もちろん、スマートフォンも)。
しかし写真そのものと一旦向き合うと、実は体験とカメラはなんの関係もないことがわかる。わたしたちは体験の「記録」として写真を用い、あまつさえ「シェア」することができるが、これらは共通のコンテクストに寄りかかった体験の想起の共有であって、写真そのものが分かち合われているわけではない。だから内輪の記念写真のほとんどは写真としてその外部に価値を見出されることはない。
というのも、写真はカメラが撮るのであって人間が撮るのではなく、カメラは人間のように体験しないのだ。少しでも写真そのものを学んだ者なら、写真とはむしろカメラの体験であり、カメラという昆虫的でまったく話の通じない者の立場に徹底して寄り添い、カメラの端女として奉仕することだとわかるだろう。この時、写真は体験を離れ、わたしたち自身の体験は共有の幻想を引き剥がされ、もう一度惨めで孤独なものへと成り下がる。
もちろん、このことを了解した上で、敢えて再び体験の中にカメラを持っていくことはできるし、そういう作家は沢山いる。疎外と分離ではないが、一旦去勢された後に、敢えて体験の中へと写真を重ねる方法だが、ここでも別段体験が撮られているわけではない。
わたしたちは様々な体験の中で写真を撮ることができるが、写真について知れば知るほど、それはとても寂しい行為になる。写真を活かすためには体験を去勢しなければならない。写真が撮られるということは、何かがそこで置き去りにされることなのだ。
かつて写真は禍々しいものとされ、写真に撮られると寿命が縮むと考える人々もいた。そのもっと後でも、写真ばかり撮ってその場の体験を楽しまない者に貧しさを見出す人々がいる。これらの直観はあながち間違っていない。写真はいつも覗き見的で倒錯的で、写真機の体験に奉仕することでわたしたちの体験を奪っていく。
戦場カメラマンは戦場にいながら他の場所に帰属している。会ったこともない人々と同期する信仰共同体やネイションの幻想のように、その場所にいながら世界を外から眺めるかのように別の系からシャッターを切る。これが行き過ぎれば銃弾に斃れることになるが、果たして彼を撃ったのは自分自身ではないのか。あるいは、撃たなければ写真には奉仕できないのではないか。
人間の体験はそこにはまったく映っていないのだ、ということをそれ自体において証すことでしか、人間にとっての写真を成立させられないのではないか。それは体験の墓石のようなものになるのかもしれない。



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