学校

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 基本的にわたしは、この学校というものは、現代において人間が辿り着いた組織の中で、最悪のものだと確信している。
 わたしの見方を説明するのに、まずはじめに、この世の教育というものの歴史を見てみよう。何千年もの間、人間は次のようなやり方で学んでいた。何かに関心のある人が、それを研究し学び続け、卓越し、誰も知らなかったものに辿りつく。その後、同じことに興味を持つ別の人が現れ、学ぶことのできる人を探し、勉強し続け、抜きん出ることができれば、人に伝える新しいことを発見する。このことに興味をもつ人々が現れ、それをまた学ぶ。こうした具合だ。
 この方法は、いくつかの理由で卓越している。まず、強制というものがまったく存在しない。何かを学びたくて、それを学ぶ。間違いなくそれを好きになるし、学んでいる時も自由がある。創意し天才的であれる1
 この方法が卓越していることの証拠としては、昔の学者たちを見てみればよい。一つのことを一生涯専門としていた者など見つからない。
 例えば、何人かのムスリムの学者たちをざっと見てみる。ファフル・ッ=ディーン・ッ=ラージーは、思想家で哲学者で、医学や物理学、天文学、文学、歴史学、法学の著書をしるした。ただ勉強していたのではない。本を書いたのだ。
 イブン・ルシュドは哲学者で、カリム(言語の学問)、フィクフ2、詩、医学を学んだ。別に博士でも何でもない。カリフの医師で、その後は裁判官になり、アリストテレスの注釈をしたのだ。どういうことだろう。卓越していたのはもちろんだが、自由に学んでいたということだ。
 イブン・ナフィースは医師で、血液循環を最初に発見したが、哲学者でもあった。
 アッ=ラージーは医師で化学者で天文学者で解剖学者で、止血法を発明したとされる。あらゆる知識の子細を知悉する百科事典と言われていた。
 これらの人々や、何十もの他の人々は、もちろん現代の学者たちほどはものを知らなかったが、ともかくこれは、教育制度というこのものの成否を示すものだ。彼らは、四つ五つの複雑な学問に加え、フィクフやシャリーアおいて学者や教授や著述家に至ったのだ。
 学校という考え方の至りつかないところだ。「さあ、子供たちを皆んな並べて、その頭に何もかも詰め込もう」。これは間違った考えではないが、間違いを犯している。先生たちが交代交代するこの新しいシステムは、賢い子の隣にそれほど賢くない子を座らせ、芸術家の隣に実務家を座らせ、文筆の才のある子の隣に論理的分析に優れた子、絵の才能がある子、化学の才能がある子、何の才能があるのか分からない子を座らせ、全部一緒くたで、運次第となっている。
 これはわたしだけの考えではない。先進国の教育改革者たちは、少し前からこの問題を意識し、異なる教育システムを創りだそうとしている。その子が何に秀でており、何を集中して教えるのか、介入するものだ。一般的な事柄も学ぶが、それも学を得るためだ。しかしもちろん、何百万もの生徒学生がいるのだから、長い時間をかけた後でなければ、世界の教育システムを根本から変えることはできない。
 そうなるまでは、というのもわたしの生きているうちにはそうならないだろうから、二つのことが必要だと考えている。第一に、家庭が、学校が子供たちの才能を発見したりはしないものとして扱うことだ。本当にそんなことはしないからだ。家庭がその役割を負わないといけない。そうでなければ、学問・芸術のすべての分野で、優秀で聡明な人々の数は少なくなり続けるだろう。
 第二に、まだ子供のいない人たちは、子供を設けた時に思い出して欲しいことだが、この子は何に優れていて、何が好きで、何をしなければならないか、心の中を探し続ける、ということだ。彼の可能性を活かし、成功し卓越し幸せになるために。
 学校や大学で行われている全体的な教育の、唯一の目的は、同級生たちより抜きん出て、良い仕事を得てお金を沢山もうけて、車やらヴィラやらという、例の競争に勝つことだ。だが、教育はそもそも「知は光」というものだ。もし知性や良心や魂が光照らされないなら、少なくなったようなものだし、少ない方がマシかもしれない。

  1. この箇所でル・ィリェリケリアル閼€ リェリィリッリケ ル畏ェリケリィルぺアと、筆者の造語を使っていることをことわっている []
  2. 法学 []

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