宗教の独占について

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 (これは非常にイスラーム的なテーマだけれど、キリスト教徒たちにもいくらか見られることかと思う。どう名付けるかは違うかもしれないが)
 人間は実に簡単にこの落とし穴にはまる。正しいということを独占したいという落とし穴だ。こういうことは人生のあらゆる場面で起こると思うが、とりわけ宗教で起こると、他で見るより危険な短所が顕になる。宗教は事情が違うのだ。宗教は皆に関わるもので、特定の人だけのものではない。宗教家であってもだ。
 これを書くのは、この欠点を明らかにしようとするためだ。納得できた人はこれを避け、納得出来なかった人も用心の為にせめて目を向けて欲しい、と願っている。
 
サラフィー主義について
 
 サラフィー主義はイスラームの宗派の一つで、「正しき先人」が残し歴史を通じて伝えられたものに依拠するものだ。聖預言者のサハーバおよび追従者たち1と交友のあった人々、つまり預言者リオル・ケリウから見て孫世代にあたる初期イスラームの人々を指す)について、歴史を通じて僕らにまで伝えられたもののことである。サラフィー主義は、クルアーンとスンナに根を持っている(この点については相違はない)。だがサラフィー主義の考えに限っては、ムスリムたちのこの最初の世紀から僕たちに届けられたものに絶対的に根ざす形でなければ、いかなるイスラームの仔細についても研究を試みる門を閉ざしている。
 非常に重要な詳細を付け加えれば、多くのサラフィー主義者(大多数、あるいは総て)が、彼らの方法に従う者以外は道に迷ったものと考えている。最後の天啓宗教において、この先人だちだけが唯一真正なる者とみなしているからだ。
 もちろん、サラフィー主義はとても大きなテーマだ。その出現の理由、方法、目的、現在の政治的アジェンダ、これを育んだワッハーブ主義。細かいことが沢山あるし、ここはそれら総てを語るのに相応しい場ではない。しかしこれらすべてより僕が気になるのは、彼らがいつも、彼らこそが宗教の庇護者だというスローガンを掲げていることだ。彼らの方法が玩弄を阻むものだから、という。これはもしかすると、本当に正しいのかもしれない。しかし依然として問題なのは、彼らがあらゆるイジュティハード2を禁じていることだ。なぜなら、述べたように、サラフィー主義はいかなる新しいフィクフ3、タフスィール4、分析を拒み、初期の先人たちについてのイスラーム文書の母型に根ざしたものだけで完全に事足れりとしているからだ(気をつけて欲しいが、すべての先人ではない。第一世代とそれについて伝えた追従者のみだ)。このようにして、あらゆる事柄に対するすべてのイジュティハード、進歩、現代的観点の門を閉ざしてしまったばかりでなく、正しき先人たち(サラフィー主義者がその足跡に従っている先人たち)の残したものに対するあらゆる異なった理解の試みに対しても門を閉ざした。イスラーム草創期の人々は宗教に関するすべてを知っていて、ただサラフィー主義者たちだけが先人たちの残したものを完全にまったく完璧確実に理解していて、他の誰も必要としない、という訳だ。
 僕の考える問題は、こうした方法を採るサラフィー主義者たちやその他の宗教の庇護者に関係している。本当に沢山問題がある。出来る限りこれを平易に説明してみよう(皆さんにというより、自分自身に対して)。
 僕の考えるに、問題は、サラフィー主義者の方法がすべてを判断する参照先として依拠しているのが皆、何百年も前に亡くなったイマームたということから始まる。当然ながら、彼らはまったくことなる状況、僕らが生きているのとは全く異なる世界に生きていた。するとどうなるだろう? 例えば証券取引はハラームか否か、といった問題が起こる。ローンはハラームか否か、銀行と利子はハラームか否か? こうした問題が終わらず、また僕らが何とかしない限り決して終わることがないのは、どういうわけなんだ(イスラーム世界は何十年もこの件を研究しているのに)。僕の考えでは、それは宗教家たちの方法が、古い文献に依拠していて、宗教に関することをそこから取り上げているからだ。そうした古い文献には、銀行も証券取引所もない。だが商売の方法や金貸しのことは何百年も前から書かれているので、ここからキヤース5を行う。これはタンスから電気をキヤースするようなものだ。いつも意見がバラバラなのは、そもそもタンスから電気をキヤースなど出来ないからだ。あっちはエネルギーこっちは物質、これは形があってあれはビリビリするもの、こっちは戸が付いていてあっちは付いていない。
 また、証券取引所や銀行といった問題を全く別の方法で考える違うタイプの宗教家たちがいる。もしキヤースに適したようなものがないなら、僕たちが自分で解決しないといけない。この宗教家たちは、僕の見るところ、適切な方法を採っている。彼らはことの原因に戻る。つまり例えば、ハラームとされているものがなぜハラームなのか、あるいは、主が好まれない、あるいは好まれると考えられていることがあれば、なぜそうなのか、に立ち戻る。それがキヤースの元になる。例えばリバー6はクルアーンにある通りハラームだが、なぜリバーはハラームなのか? ことをよく考えて、かつてリバーがどういうものだったのか研究する。その欠点、社会に対する害を調べる。そしてなぜリバーがハラームなのか分かれば、これを似たものに適応できる(形が似ているのではなく、意味が似ているものに)。タクシーを買ってそれで働こうという時、あるいは仕事に行くためにの車を買うとk、あるいはバスの代わりに車で遊びに行きたいからでも、当然銀行でローンを組んで、その利子を支払う。サラフィー主義者であれそうでない人々であれ、ある種の人々は、これはクルアーンで述べられているリバーと同じものだ、と言う。こうした物言いは、(僕のように、耳にしたことはいつでも、受け入れる前に納得しないと気が済まない人間にとっては)まるで筋が通っていない。これら二つは全く違う話だ。主もその預言者でも、これらが一緒だなどとは言っていない。人間が個人的な見解で言っているのだ。宗教家がキヤースを行なって、これとこれは同じだ、と言っているのだ。しかしこれは真理、彼らとそれに同意する者たちの考えにすぎない。重要なのは、その源泉について一点の曇もなく信じていても、「真理」については理性的であるということだ。これは、この宗教家たちが自分の考えを打ち立てることが間違っているという意味ではない。彼らは本当にそう考えているのだ。間違いは、どちらに与するものであれ、誰かが唯一の真理を握っていると考えてしまうところから始まるのだ。
 僕にとってとても重要なのは、例えば証券取引や銀行といった悩まさえる問題についての宗教家の意見を聞く時、そこで彼のキヤース(あればだが)について、知的で論理的な説明が示されることだ。ただリバーを禁じているアーヤ7を示されるだけではまったく不十分だ。僕は暗記している。僕が聞きたいのは、クルアーンにおけるリバーから銀行の利子をキヤースすることについての考えだ。それでも問題が解決するとは限らない。もし僕にとって、彼の証拠が論理的でなかったり、彼の考え方が僕とは違ったりしたら、どうして彼の言葉に納得するだろう? 他の人の意見も聞かなければならない。僕の自問に須らく応えてくれんことを願って。
 個人的な考えとしては、証券取引のような事柄については、宗教家がハラームだの何だの言うことではないと考えている。しかし宗教家が、「よくよくそれを理解した上で」証券取引所がどのように機能すべきかを語ることはできる。例えば株を空買いして、人の無知と欲につけこんで儲けたらば、それは他人を害し、株式市場と国の経済を害することになる、お金を稼ぐために他人を傷つけるのならそれはハラームだ、等と教えを説くことはできる。機関投資家が株価を吊り上げて、そのまま上がると見せかけて投資家たちに買わせ、そのままトンズラしたら、それは人を傷つけ搾取したことだ、と。証券取引や銀行は、丁度自動車や冷蔵庫と一緒だ。それをどう使うか? 何に使うか? 何の為に? これらの問いに対する答えから、その使用法について、良いか悪いか、害か有益かキヤースするのだ。ことは常に、人々の振舞い、彼らを統べている価値や倫理のシステムと結びついている。商業はハラールだが、独占や搾取はハラームだ、なぜならそれは人々を害するからだ。医学はハラールだが、医者の仕事の仕方によってはハラームにもなる。
 ハラームかハラールか、良いか悪いか、すべきかせざるべきか、について、原因から考える上のようなやり方の最大の長所は、これが理解の仕方、考え方にある、ということだ。これは人々に論理的な思考というものを教えてくれる。それこそ僕たちに欠けていて、切実に求められているものだ。その欠如こそが、僕たちの後進性の原因かもしれない。こうした考え方は、人々の間に論理的・知的分析能力を育んでいくだろう。ただやって終わり、ではなく、理解するようにさせるからだ。こうした方法は、イスラーム的研究において用いられるだけでなく、他の学問でも使われるようになるだろう。それを実際にやろうとしている人たちが少数ながらいるが、残炎ながら彼らににはチャンスが与えられていない。
 思うに、筋の通ったことだが、万物において全知にして心広きアッラーは、僕たちがすべきでない悪いこと、すべき良いことについて、特別な理由のある場合以外(僕たちの服従を試すような非常にレアな場合を除いて)、訳もなく言及されたりしていない。理由が明示されていれば簡単だが、そうでないときは理解するために努力しないといけない。しかし「それはそういうものなんだ」というやり方では、滅茶苦茶になる。どう滅茶苦茶になるか知りたい? 僕たちを見て見ればいい! 僕らは子供たちに、サンダルを裏返しに置くな、主のご尊顔を汚すから、と教えている民族なのだ。しかもそれを宗教の命令だとしている。こんなことを言われて育った子供が、まともで論理的な考え方をするように育つだろうか? 宗教に関することでも、そうでないことでも。
 僕の考えでは、「それはそういうものなんだ」が使えるのは、信仰の「詳細」についてのみだ。気をつけて欲しいが、「詳細」というのは、誰がどうやっても絶対に答えの見つからないもののことだ。例えばなぜアスルの礼拝は4ルクアなのだろう。誰にも分からないし、知る必要もない。あなたが礼拝するなら、アスルが6ルクアでも礼拝するし、1ルクアでもするだろう。だからそんなことはそもそも知る必要がない。例えば礼拝の背後にある哲学は、非常に深遠なもので、誰もが同じ段階に達するものではない。皆がそれぞれに、それぞれの能力に応じて理解する。しかし理解できないものがあったからといって、それが存在しないということではない。深遠で複雑で難しく異論の多い事柄は、そう考える。これらは、それを理解しようとすれば、本当の努力が求められるものだ。
 だがもし、聖預言者がイスラームの義務以上にどれだけ礼拝し斎戒したか知りたいなら、サラフィー主義者に聞けばいい。そういうことを仔細に渡って言葉通りに伝えてくれている彼らに感謝しなければいけない。しかし現実的なことについては尋ねてはいけない。役に立たないからだ。彼らの方法の根本が過去を伝えることなのに、現在や未来にどう役立てるというのだ。新しいことについてどう考えるというのだ。彼らはそもそも、齢千年を越える学派に属しているのだから。
 ムスリムたちが、異論の多い現世的な出来事をウラマーたちのところに持って行っても、僕の考えでは役に立たない。ウラマーたちは、大昔に亡くなったイマームたちがこう言っていて、「彼らの考えるところの」似た事例についてのイマームたちの意見を言うだけだ。ウラマーたちは、先人たちの考えや学派や方法を須らく研究し、加えて彼らがよくよく考え議論して熟慮し、宗教そのものからくる哲学と方法に辿り着くなら、その時はムスリムたちの問題に答えられるだろう。それでも意見の違いというのはあるだろうが。これは丁度、最も有名な四人のイマームたちと同様だ。彼らは異なる人々で、方法も異なり、意見も違っていた。彼らを聞く人々も異なっていた。ある人は強迫的で、ある人はお気楽で、ある人は知的で、ある人は情が深く、ある人は用心深く、ある人は勇敢。こうした異なる意見が平和裡に共存していた。なぜなら、どれもがなければならなかったからだ。宗教はその本性からして、すべての人々の相違を含むほど広くなければならないのだ。この方法がそもそもイスラーム法学の拠って立つものであるのに、もう一度やってみていけないことがあろうか。とりわけ僕たちは、切実にそれを必要としているのだ。どうして立ち止まる? どうして続けようとしないのだ?
 多くの宗教的事柄については、意見の相違もなく全く正しく、昔の人たちの考えも溢れるほどある。しかし今日的な宗教の問題については、今日のウラマーたちが、今日的な知性、今日的な方法をもって、今日の僕らが知っていることで、取り組むべきだ。なぜなら、このウラマーたちは僕らと共に今いるからだ。彼らが亡くなったら、その弟子たちがいる。彼らに尋ねることもできるし、人々の事柄を判断するのに使える知識や方法をキヤースすることもできる。意見を尋ねることのできる人を見つけ、議論でき、問いをぶつけられる人を見つける。そうでないなら、どうやって理解するというのだ。それとも理解して欲しくないのか?
 宗教は生き物であり、社会の一員であり、しかも最大で最重要の一員だ。それが今生きていて、多くのことに影響を与えようとする社会から、何百年も離れていてはいけない。この歴史的文化的な穴を塞げば、宗教家たちは社会ともっと実際的な形で繋がれると思う。その時こそ、毎日起こっている本当の問題に心を砕き、社会を助けることができるし、解決することもできよう。しかし例えば、嘘つきと詐欺師が跋扈し、人々が真面目に働かず、良心もない、社会が否定的で無関心になり、何事も誰がやっているのかはっきりせず、狭量で変わろうとせず、良くなろうともしない。そうなれば、これは過ちではなく、社会的人間的な犯罪だ。そういうことが起きているのに、何千もの「宗教家」が、言うことの半分といったら、正しいヒガーブはいかなるものか、どういう種類が正しくてどういうものがダメか、耳をヒガーブでどう隠すか、といったことだ。スカーフが耳を覆っていなかったら、大罪を犯したかのような騒ぎだ。こんな考え方をしていたら、結果はどうなるだろう。
 
誰が
 
 より詳細に語るために、第二の最重要ポイントに入ろう。宗教を知っているのは誰か? ムスリムたちが尋ねる時、誰に尋ねるのか? この問いの重要性は明白だ。なぜなら、この宗教家たちこそが、その種類の拠らず、社会の中の宗教システムを形作っているからだ。彼らが、人々が諸問題を考えるやり方を決めているのだ。イブン=ルシュドは宗教問題について語り、角の礼拝所のシェイフも語るが、この両者では大違いだ。
 僕は個人的に、意見を聞く宗教家の方法は、益と害を評価する方法、個人より公の利益を尊重する方法、目的もなく過去を語るのではなく未来を築くことに心を砕く方法、何世紀も前に終わったイスラーム国家を夢見るのではなう社会的公正を目指す方法、宗派主義や頑迷に陥ることなく統一と絆を実現しようとする方法、宗教にサディズムと排外主義と高慢を結びつけるのではなく許すことを示す方法であって欲しい。ただ話して終わりなのではなく、自分がそこで語っている社会についてよく研究し、自分の話すことの影響をよく考える宗教家の話を聞きたい。人々が彼の話を聞いているのだから。
 話が民衆に受けて有名になるシェイフや宣教家がいる。話が上手いとか、ユーモアがあるとか、人格的にしっかりしているとか、感情に訴えかけるのが上手いとかで。誰のこととは言わないが、本当のことだと皆さんご存知だろう。その他にも多くの理由で、宣教家やシェイフは人気を獲得する。このような人たちが宗教的説教と称するものをやって、道徳や人との接し方やら何やらといったことについて語るには、それほど学問も知恵もいらない、と思っている人もいるだろう。当たらずとも遠からずだろう。しかし問題は、彼らが宗教の名のもとに語っているということだ。するとその役割は変わってくるし、人々に対する影響も大いに違ってくる。これは素晴らしいことかもしれないが、本当のところ、僕はあまり素晴らしいとh思っていない。宗教の道具立てを使って道徳や人との接し方を語っているが、別に宗教に結びつける必要はない(僕はそうしたい)。しかし一度宗教家という性質を身に纏ってしまうと、この言葉が意味するようになった非常に広い内容の傘の元、ある種のお手軽さをもって人身を惹きつけることができるようになる。とりわけ、ほとんどの話が「テレビで言ってたんだけど」で始まり、正確に誰が言ったのかが示されないような社会にあっては。
 説教が良き道徳を語るものであれば「どうやって間違える? 道徳については異論のないことだろう」と考える向きがあるかもしれない。しかし非常に簡単にいって、例えばどんな例えを使うかでも、聞いている人の考え方や宗教に対する見方、従い方に大きな影響を与える。
 例えば三人の宣教家が、礼拝を推奨するとしよう。大変結構。一人目は地獄の火で焼かれると脅して礼拝を薦め、二人目は天国をに行って欲しいからと礼拝を薦め、三人目は礼拝を人間と創造主たる神とをつなげるものと考えるよう説き、いかにこれが黙考の手段となるか、心安らかとするものとなるかを語り、礼拝を薦める。間違いなく、ここで薦められた礼拝は、結果として大変異なったものになるだろう。まったく違う方法でこれについて学んだのだから。
 道徳と言っても、天国に入るための手段として教えられる道徳と、僕らが団結し愛しあい助け合い互いに優しくなれるよう、主は僕らに人間的靭帯の実現を望んでおり、そのための手段として教えられる道徳では、同じではない。前者の方法で教えられた人々は、人を用いる手段と見るかもしれない。しかし後者の方法で学べば、人を自分との間に道徳的人間的宗教的結びつきを得たいものとして見るだろう。結果としての道徳は大変違ってくる。
 宗教的説教というのは、例えば誠実さ、正直さ、人を許すこと、率直さ、仕事への専心、宗教に対する純真さ、困難にあって耐えること、世の中を良くしようとすること、こうした類の生きた人間的で社会にとって重要なことがらについて語るべきで、聞いたものを勇気づけ魂を吹き込まれるものであるべきだと思う。しかし女性の話となれば曰く「ヒガーブ」、また男性の話となれば悪徳を避けるため女性を遠ざけよ、と説教する調子では、事情が違ってくる。ここでの説教は違う形をとりはじめる。ある種の道具立てを使って、宗教の格好をしながら聞いている者を怖がらせているだけのものが、ことを確実にするのに使っている。時にはいくつかアーヤやハディースを暗記しているだけだったり、さらにはそれを、関連する基本的な事柄や語られているその場に結びつける能力もなかったりする。あるいは、ただ宗教学を学んだだけの者もいる。工学部の卒業生が皆優秀なエンジニアな訳ではない。すべての医者が優秀な訳でもないし、すべての会計士、すべての自動車工にしてもそうだ。なぜ宗教家たち皆を、優秀でよく物事が分かっているように扱うのか。
 宗教的説教が、それをただ聞いている者に与える害は、その宗教家を宗教について何でもしっていると思っている者に与える害よりはずっと少ない。カリスマがあっても、シェイフやウラマーや人々が個人的事柄を質問できる法学者として役に立つ訳ではない。人の問いに答えるには、沢山の学問に加えて際立った「知恵」がなければならない。なぜなら、皆さん同意されていることかとは思うが、古い文献からのキヤースは、よく見積もっても、数百年もその本質が変わっていない数少ない事柄に対してしか有効ではないからだ。これらの文献とその著者、偉大な者たちとの間に横たわる数百年もの間に。
 ついでに言えば、もし宗教家が皆、古い本を読んでそこにあることを繰り返しているだけなら、これは実に簡単な仕事だ。その証拠に、何百人もの人々が、アラブの衛星放送で山ほどの宗教番組をやっている。必要なのは、本を読んで人々の前で読んだことを話し、時々表現も付けてみる、ということだ。それなら、僕も字が読めるし、自分で読めばいい。どういう必要性がある? もし宗教家が宗教の名の元に語るのに知恵を必要とされていたら、その数は減り、仕事は増え、価値も増していただろう。
 角の礼拝所のシェイフや、インマやギッバやクフターン8を着ていたり、あるいは髭を生やしてテレビにでている者になら誰でも、聖性が無償で与えられる。テレビで聞いた、七歳の子供にも学問とは思えないような言葉を、人々が繰り返している。磁石は狂い、方位は見失われた。僕たちは宗教を、その学問、その知識の源泉が、その論理、その知恵、その炯眼、その知性の柔軟性に信のおけるものから学ばなければならない。ただ純真に宗教を学ぶ者から学ばなければならない。それを独占するためや、売れないものなど何もないとばかりに、人々の前に出ていって宗教を売りさばくために学んだ者ではなく。
 頼むから忘れないで頂きたいのだが、たとえこうした難しい条件をクリアしたとしても(そういう者は少数だ)、考えたり議論したりすることなく彼らの言うことを鵜呑みにする必要はない。これら総てをクリアした天才的な人々であっても、やはり間違えることのある人間なのだ。大事なのは、聞いたことについて「考える」ことだ。
 多くの人々が言うだろう。「宗教家から聞いた宗教的なことについて、僕たちが何を考えるっていうんだ。僕らが何を知っている。宗教家は専門家じゃないか」「あんたも車が壊れたら自動車工のところへ行くだろう、病気になったら医者に行くだろう。専門家なんだから。宗教の専門家なら、宗教について考えて喋るのは当然だろう」。人の言うことは黙って聞け、聞かなかったり自分で考えたりするのは不信仰、という訳だ。確かに僕は、自動車を直せないし、自動車修理工のところに持っていく。しかしそれでも、羊のように修理工に降伏してしまって、「エンジンを変えないとダメだ」と言われてただエンジンを持って行ったりはしない。医者に「腎臓移植しないと死ぬ」と言われても、そのまま腎臓を探したりしない。質問し、調べ、他の人の意見を二人も三人も四人も聞いて、考え納得しないといけない。宗教家についても同じだ。質問し彼のロジックについて学び、その言い分を評価し、違う意見の人と比べ、議論し、その議論をまた評価する。どうしてことを簡単にしようとするのだ? これが簡単だなんて誰が言った?
 宗教に詳しいウラマーというのは、一般的なことでも、尋ねられて個人的なことに答えるにしても、宗教的知識を伝えることができる(宗教の真理を伝えるわけではない、知識を伝え、真理を見つけようとする)。だがことが宗教の話だということは、自分自身の個人的見方で考えることができない、という意味ではない。もし彼にいくらかの知識、いくらかの論理、いくらかの論拠があり、少なくとも投げかける個人的な問いがあるならば。もちろん、アホワ9に座っていて出来るわけではない。しかし何らかの事柄について何らかの研究をすれば、当然それについて考え語る権利はある(僕が医学的研究をすることだってできる。僕は医者じゃないし、医学を勉強した人よりずっと沢山努力しないとダメだけれど、でも研究することはできる。そして医者たちが到達していない何事かに至る可能性はある。世界と歴史にはそうした例が沢山ある。医者になるなら、長い期間教育を受けて、かつ才能があって優秀でないといけないが、しかし僕が研究に優れ、努力と時間と誠意を注ぎ込むなら、研究することは可能だ)。もし何か知らないことがあったり、理解が間違っていた結果、この研究が正しくなければ、知っている人が正すだろう。何の問題がある? 黙る必要はない。ある種の才能があり、十分な努力をするなら、誰でも正しいことに近づくことはできる。
 宗教という、広くすべての人々に至るジャンルについて考えることは、僕個人としては、出来るものはやらなければいけないことだと思っている。そして僕たちが学ぶシェイフは、インマを被ってクフターンを着てフスハーで喋っているだけでは十分ではない。
 
いかにして
 
 人々が宗教家に投げかける問いについての、二つの点に戻ろう。質問する人々の側についてだが、一つは何を尋ねるか、もう一つは質問の仕方だ。
 アラブの預言者が遣わされてから十四世紀が過ぎているのに、例えば未だに素朴な質問やイバーダート10についての基本的な問いが繰り返されているのは、僕としては釈然としない。なぜか? どれでもイバーダートについての本を読めばいいし、そういうのは沢山ある(ほとんど一緒だ)。しかし僕らがおかれているこの状況の中、ヒジュラ暦1431年にもなって、テレビでシェイフが座ってスンナの斎戒について説いていたりしていいのだろうか? 毎年大イードの時期になると、あるいはイードでない時でも、シェイフが巡礼について説明している。そんなことはもう知っている。もし知らない人がいれば、巡礼に行く時に巡礼についてのどんな本でも読めばいい。字が読めないなら、知っている人が教えてくれる。この奇妙な繰り返しにどんな益があるのだ?
 道徳には繰り返しが必要だし、良心は囁き続けなければならないし、主への敬神は学び続ける必要がある。なぜ僕らの良心、道徳、意識、文明性の改善といったこと、ひいては僕らの状況を本当に改善するような重要問題については繰り返さないのか。
 では、イバーダートに関係するけれど、文献の元になっている時代には存在しなかった質問はどうだろう。質問がなかったのだから、答えもないだろう(証券取引所や銀行の件に似ている)。例えば、飛行機の中での礼拝はどうする? 温泉に行っている時の礼拝の短縮や纏めは?11 注射を打つのは斎戒を破ったことになるのか否か? 知らないことはよく知らないといけないが、誰から知るのか? 主は仰っているか? いや、何も仰っていない。では本に書いてある? 文献の時代には注射も飛行機も自動車も避暑地もなかった。すると彼の個人的見解を尋ねることになる(知恵と論理的思考を備え、分析的方法に従っていると思われる人に)。そして注射についてシェイフに尋ねれば、「食べたことにはなない」「食べたのと一緒だ」「注射の種類による」といった答えが返ってくる。九十人のウラマーを尋ねても、こんな具合だ(注射とは実際のところ何の関係もない事柄からキヤースする人たちを除いても)。大方この三種類の答えがあるかとは思うが、仮に大多数がそのうち一つを選んだとしても、それが正しい答えだということにはならない(ウラマーたちのイジュマーは誤らない、と信じられているように12)。そうではなく、歴史上のこの時点に、世界のこの部分にいるこのウラマーたちの大多数が、ある種の状況に影響されて、ある一つの答えに傾いている、ということだ。これが正しい呼び方だ。イジュマーが形成する唯一の真理とは、実際のところ、人々がある意見に集まる、ということだ(これは例えば、光は太陽から地上に降り注ぐ、といった真理に対するイジュマーとは全く異なる。これは真理で、イジュマーがある)。これは科学でも然り、宗教でも然り、また他のことでも有効である。真理であることと合意があることは別の問題だ。地球が宇宙の中心ではないと発見される前は、これも真理だった。すべての人々、すべての学者が合意していたのだ。だがそれが全部間違っていたと分かった。正しいことを微塵も疑っていなかったことが間違いと分かるとは、何と恐ろしいことだろう。
 人々が質問するということに戻るが、シェイフが答える考え方というのは、いくつもの可能性の中から「極めて個人的に」選びとったものだ、ということには同意して頂けたかと思う。しかし端的に答える者、彼のイスラーム的な回答ではなくイスラームの回答として答える者については、僕はそういう人の話を聞きたくないし、信じたくもない。なぜなら彼は真理を知っているフリをしているからだ。しかし、その件にいかにして至ったのかを語ったり、これが個人的な意見であることをはっきり言ったり、あるいは別の場合にはそれが彼の行ったキヤースの結果であるとか、ある学派の法学者の見解を繰り返している場合には、その考え方や方法を述べる場合、また彼とは違う見解も話す時、僕はその様々な意見を聞いて、誰がの言葉が僕にとって論理的か考え、それを採用する。シェイフが真理だと言う意見をそのまま真理として受け止めるなどというのは、冗談みたいな話で、その宗教家にありもしない神聖さを与えてしまうことだ。彼は正しかったり間違っていたりする人間なのだ。
 とりわけ明らかに決定的というわけではないものについて語っている時に、「アッラーこそが最もご存知」と言わない、あるいはそういう意図がない者は、無知か嘘つきか見せかけているか、宗教について虚言を弄している。あるいは少なく見積もっても、宗教を独占しようとしている。これらは総て、宗教家あるべからざることだと思う。
 ことが二つ以上の意見を含みうる場合には、答えを手にしてお終いにしようとしては決していけない。「要するにそれはハラールなの、ハラームなの?」というのは、異論の余地のないまったく明らかな場合以外はダメだ。
「ムスリムだけど礼拝しないでもいい?」
「ダメだ。以上」
「ズフルの礼拝は何ルクア?」
「四ルクアだ。この話は終わり」
「ラマダーンに斎戒する?」
「斎戒する。この話もこれで終わり」
 等々、こうしたことには意見というものはない。ただ知識を伝えているだけだ。知らない人が知っている人に言っているだけで、意見も何もない。しかし「意見」のあるどんなことでも、それは単に「意見」だ。あるいは単に理解の試み、つまりイジュティハード13、努力だ。たとえムスリムの最も高名なウラマーが言おうと、すべてのウラマーが言おうと、依然として意見、あるいはイジュティハードである。
 意見の相違のあり得ることでは、百パーセントの合意が得られるということはない。常に第二、第三、第四の意見がある。なぜなら、本性において決定的なものではないからだ。信仰の決定的なアキーダ14、アルカーヌ15、義務といったことでなければ、唯一の真理は、あらゆる信仰には意見の相違がある、ということだけだ。
 ここで述べておいた方が良いことがある。多くの人が、シェイフに質問し、「意見」を聞いて、それを実行したら、まったく無罪だと思っている。たとえ行ったことが誤りだったとしても。それが正しいと言ったシェイフが罪を被ってくれると言う。何だその驚くべき発言は。我らがクルアーンが{重荷を負う者は、外の者の重荷を負わない}16と言っているのに、そんな話がどこから出てきたのだ? 自分の行った善行、悪行に応じて計量されると、僕らは皆んな分かっているのに。
 これは、二つの理由から極めて危険なことだ。第一に、この考え方は、自分のやっていることを分かっている分別ある人々を、シェイフが間違いを言ったのだから彼が一人で責任を持ってくれる、と考える未成年か子供のようなものにしてしまう。子供が誰かの言った馬鹿なことを真似したら、「お前は誰かが窓から飛び降りろといったら飛び降りるのか」と言うのに。なんという事だ。子供のことは脳みそがあるものとして扱うのに、自分にはないと言うのか? 確かに、シェイフが間違ったことを(本当のことのように)言ったら、彼が裁かれるというのは尤もだ。しかし、僕個人としては、だからといって、僕が言われた通りにしたことの罪が軽くなるとは全く思わない。なぜなら僕には脳みそがあり、脳みその仕事というのは馬鹿になることではないからだ。その仕事は、僕が僕自身と僕のやったことに対して責任を負うようにすることだ。誰があなたを、僕の選択の結果に責任を持ってくれる保護者に任命したのだ。宗教家たちが僕らに考えを植えつけたら、黙って聞いているしかなかったという理由で、彼らが僕らの保護者にでもなるのか?
 奇妙なのは、この質問している同じ人々が、何事につけ何でも知っているような顔をしていることだ。どうして宗教に関する話になると、馬鹿で何も考えられないようなフリをするのか。
 何日か前にテレビで、生放送のシェイフにある人が質問しているのを見た。「僕はあるところの職員なのですが、事務に出す書類を僕に提出する時、書類の中にお金を入れてくるんです。僕がくれと言ったんじゃありません。僕はただ順番通りにするだけで、特別に何もしません。これはハラームでしょうか」17。シェイフはもちろん「いや、許されない」と言った。しかしこれはそもそも、シェイフが必要なことなのか? 書類を最初に出したものが最初に順番が来る。それをお金を貰ったからといって、後から来た人を先にしたら、それはいけないことだとこの人は知らないのか? 知性ある大人の男で、一家の主人でもある公務員が、こんな質問をするのか? 答えは分かっているけれど、誰かに「受取っちまえよ、よくあるよくある」とか言って欲しくて、もしシェイフがそう言ったらその通りにしてしまうのか? これは変なことじゃないのか。シェイフは、控えめに言ってもすっとぼけたこんな質問をして来たことに対し、まるで普通の質問であるかのように答えるのではなく、この男を叱りつけるべきではなかったのか? 皆さんはそう思わないだろうか?
 こういう具合にことが進むことで現れるもう一つの面は、件のシェイフも人間だということだ。多くの人々が彼の言葉を啓示か何かのように何の議論もなく受け取って、彼が野心にかられるとしたら。また、たとえ間違ったことでも皆が言うままに受け取るので(何も考えずに言い返すこともなく額面通りに受け取る)、極端で保守的なことを言うようになるとしたら。こういう場合に必要なのは、確実に知っていることを言うこと、そして確信がない場合には、こういう意見とこういう意見がある、と明らかにすることだ。その上で、彼の意見を、それが個人的意見でイジュティハードに過ぎないことを明言した上で述べるはできるかもしれない。話を聞いている者たちが、シェイフではなく彼ら自身が責任を負わなければならないと理解したら、どんなに素晴らしいことか。そうなれば、質問する者にも聞いている者にも意見を採用する者にも、全く違った影響をもたらすのではないか。
 
なぜ
 
 最後に、本書のこのマラソン的テーマを終えるにあたって、始めたところに戻ってみたい。なぜこの件についてこう語ることが重要なのか? 僕がこれを大事だと思うのは、ここで語ったすべて、そして様々な宗教との関わり方が、怠慢、任せきり、降参といった形で現れているからだ。自問することなく、決まりきった型が生活に満ち溢れ、このせいで身動きできなくなっている。思想的革命も、社会的革命も、知識における革命も、あらゆる種類の革命もあり得ないのかもしれない。なぜなら宗教的革命がないからだ。何もかも人に成り代わって考えてくれている、という人にすっかり服従しその考えに従っている人間、この広い宗教を独占し髭に挨拶してもらいたがっている人たちに降参している人間は、自分の中にあるものを腐敗させてしまい、誰にもそれを直すことができない。
 創造主たる主への服従と、間違えることのある人間とその考えへの服従は、まったく違う話だ。
 アッラーこそが総てについて最も御存知である。

  1. ここで「追従者たち」としたのはリェリァリィル館館・ナ、サハーバ(預言者リオル・ケリウと直接交友のあった人々 []
  2. クルアーンやスンナといった法源の独立した解釈をすることによって合法的な決定をすること []
  3. イスラーム法学 []
  4. クルアーンの解釈 []
  5. 類推 []
  6. 利子 []
  7. クルアーンの節 []
  8. 宗教家らしい服装。インマは宗教家のよくかぶる帽子、ギッバはゆったりとした長衣、クフターンは前開きの長衣 []
  9. 伝統的喫茶店 []
  10. 礼拝、喜捨、断食、巡礼、信仰告白の五柱のこと []
  11. 長距離を旅する場合、礼拝を短縮したり二つの礼拝を纏めて行うことができる []
  12. イジュマーとは合意。ウンマ(共同体)が全体として誤ることはない、とされる []
  13. クルアーンやスンナといった法源の独立した解釈をすることで、語そのものの一般的な意味は「努力」。ここでは専門用語としてのイジュティハードと「努力」という一般的意味を重ねて繰り返している []
  14. 信仰、イスラーム信仰上の最も基本となる信念 []
  15. 柱、信仰上の基本的な義務 []
  16. 他人の罪を代わりに背負うことはできない、ということ。家畜章164、夜の旅章15、創造者章18、集団章17、星章38 []
  17. 行列の出来ているところで、順番を早くしてもらおうと賄賂を渡している風景を言っている []