音楽と信仰

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 ちょっと長い前置きがあります。
 このブログで書いている文章の多くは、「信仰を内側から見る」試みを表したものです。正確には、「内側」と「外側」を貫通する試み、あるいは「内側」の見方をそのままに「外側」的に表現する試みです。少なくとも自分ではそのように意識しています。宗教や信仰以外についての文章も、「内側から見る」方法を意識して試みるようにしています1
 とりあえず信仰について言うなら、「信仰を外側から見る」言説というのは沢山あります。文化人類学的な視点であるとか、宗教活動を文化の一部であるようにみなしたりして観察することで、学問的なアプローチとも言えます。こうしたものに(娯楽や研究者の雇用創出という)重要性がないとは思いませんし、わたし自身も好きですが、それは信仰そのものとは全然関係がありません。
 もちろん、(わたし自身を含めた)大抵の人間は非常に狭い興味の範囲しかもっていないもので、それ以外の「どうでもいいこと」については、池上彰か何かに喋らせて、一応の大枠だけ手短かに見て済ませておきたいものです。ですから、「外側から」の、しかも簡略化したバージョンというのには、大いに需要があります。ただ、これを更に突き詰めていけば、センター試験の倫理政経みたいな世界になってしまい、その対象が信仰だろうが哲学だろうが経済だろうが、重要なことは何一つ語れていないアンチョコシートに成り果てます。
 ですから、本当に面白くて、一ミリでも意味のあるアプローチをしようとするなら、「内側から」迫らないといけません。しかしこれは、「内側」が「内側」の視点だけしか持たないまま「内側」のために語る、というのではありません。
 「内側」が「内側」の視点だけで語る、という言説も、これまた大量にあり、(イスラームについて言えば)とりわけムスリムが多数派の地域では書店や路上に溢れかえっていますが、これらは「内側」だけを考えたもので、「外側」(にいると思っている)人たちにはまったく意味不明で面白くありません。「猫は猫である、故に猫だ! 猫は偉大なり!」と言うような、トートロジー的お題目ばかりが目立ちます。正確には、「内側」を「内側」のロジックを煮詰めて語ることには意義があるのですが(というより、「内側」の狂気を煮詰めることでしか語ることができない)、これを読み解き楽しむには、ある程度「内側」的訓練を経験する必要があります。
 本当に重要なのは、「内側」と「外側」の経路を発見したり、「内側」のものは「外側」で言うところのどんなものにあたるのかを考えることです。より正確に言うなら、実はそもそも「内側」も「外側」もなく、その境界というのはプロレス的に曖昧で、客観的・学者的な安全圏などというのはどこにもないのだ、ということを識らないといけません。「外側」にいると思っていた人が、檻の外だと思っていたその場所が実は「内側」とすっかり連絡している、ということを気付かされる言説です。動物園でライオンを見ていた人が、ふと背後の茂みを見ると、小さなトンネルが掘ってあって、そのトンネルを進んでいくとライオンの檻の中につながっていた、というような語らいです。少なくともわたしがここで試みているのは、そうした言説です。なぜなら、実際にトンネルはあって、ライオンはいつでも後ろからやって来るからです。
 「内側」にコミットしようとするということは、主観が入るということです。というより、「常に主観が入っている」ということを積極的に引き受けるということです。世の中、100%主観とか100%客観というものはありませんから、これまたプロレス的にドロドロな訳ですが、ドロドロにまみれないことには「内側」と「外側」を貫通することはできません。
 こうした方法は、信仰で言うなら、「内側」の人々からは背教的でケシカラン言説に見えるでしょうし、「外側」の人からは客観性に欠けて見えるでしょう。

 ここから本題ですが、音楽と信仰の関係については、「内側」的にも「外側」的にも長いお話があります。
 「外側」的には、音楽が宗教活動で果たす役割等といったことが色々と語られているでしょうし、「内側」的には、そもそも音楽是か非かというのは長年文字通りの神学論争が繰り広げられてきたテーマです2。ここでは、結局のところ「純内側」的に音楽がどうなのか、ということは問いません(多分千年後でも同じ議論をしているだろう)。それよりも、とにかく「音楽是か非か」が問われている、ということが重要です。
 宗教的に是か非かが問われるテーマは山ほどあり、とりわけイスラームについては、何でもかんでも「イスラーム的にどうなのか」確認しないと何もできない幼稚園児みたいなムスリムが沢山いるわけですが、音楽については、その他諸々の「是か非か」系とは少し事情が異なります。大抵の「是か非か」は、信仰から導出される(とされる)道徳系座標の中にその対象を位置づけたい、というだけのことです。音楽についてもこの要素はあり、例えば歌詞の内容が「非道徳的」であるとか、その音楽が「非道徳的」な場面で使われている、とかいった話はこれに属します。しかし音楽そのものについて言えば、あまりにも対象が広く、かつそもそも道徳的価値判断との距離が遠く、道徳的位置づけだけにことを還元するのは、いささか不自然です。
 ではなぜ音楽が問題になるのでしょう。
 誤解を恐れずに言うなら、(電卓やシメジではなく)音楽が遡上にのぼるのは、音楽が信仰と「競合関係」にあるからです。更に飛躍すれば、言語は音楽であり、信仰です。

 物凄い飛躍しましたが、信仰が音楽を警戒するのは、信仰がその本性において音楽と似たところがある、つまり「キャラが被る」恐れがあるから、ということです。アラブでは詩の伝統が非常に重要で、現代でも詩人の朗読に若者が詰めかけるほど人気があるのですが、詩は音楽と連なると同時に、他方で呪術や迷妄といったものにも連なります。そして詩との「競合関係」については、クルアーンの中でも語られています。「預言者を詩人という者がいるがとんでもない、なぜなら・・」といった語らいです。こうしたことがわざわざ触れられるのは、預言者と詩人に似た要素があるからです。八百屋と間違える人はいないので、「預言者は八百屋ではない」という啓示は下されなかったのです3
 非常に大雑把な話ですが、詩、音楽、言語、信仰というのは、近い系譜を流れているものです。
 これは結構危険な発言です。書きながらどきどきしています。「音楽是か非か」が議論されているくらい、音楽と信仰の関係性がデリケートな問題であり、「預言者は詩人ではない」と断言されているくらいなのですから、これらが似た系譜にある、となどというのは、アラビア語や英語ではちょっと書きたくない危険な発言です。日本語文脈で言えば、騎馬民族説みたいなものです。
 それを敢えて書くのは、「内側」と「外側」を接続する為です。ただし、まるっきり「外側」に行ってしまい、音楽的文化現象としての信仰を分析する、などというのでは全然ありません4。信仰を戒律の集合体であるとか、信念の体系のように見る見方を揺さぶるために、「内側」における信仰に対する姿勢を別の形で表現しようとしているのです。

 本当にうんざりするくらい、信仰を戒律や信念の体系と考える見方がまかり通っており、更に信仰者自身までも逆輸入的に洗脳されていることがある訳ですが、「体系化したい」という欲望が重要な機能をもっているにしても、実際のところ体系化などはまるで成立していないし、成立してはいけません。中心にあるのは不条理で絶対的な一者であり、そこから紡ぎ出されるものに対し、人間が理性をもって辻褄を合わせようとしたところで、合理的な「体系」になどなるわけがありません5。なったとしたら、それは信仰とは全然関係ない、単なる規則の集合です。
 信仰はもっと不条理でめちゃくちゃなものです。そうでなければいけない。
 とりわけイスラームについては、戒律の集合体のような変なイメージが強固な訳ですが、クルアーンを紐解くだけで、戒律的要素がいかに少ないかは明々白々としています。イスラームを(あるいは別の宗教を)戒律の集合のように考えている漫画チックな人たちは、聖典とは六法全書のようなもので、ページをめくると「鶏肉はOK、豚肉はダメ」みたいなことが並んでいるとでも思っているのでしょうか。そんな要素はびっくりするくらい少ないですし6、クルアーンに限って言えば(聖書と異なり)物語的具体性も極めて限定的です。では何が大半かといえば、アッラーは偉大だとか信仰者は礼拝するとか気前よく施すとか、同じような抽象的内容を繰り返しているのです。
 こう書きながら、どこで真面目なムスリムに刺されるかと、胃がキリキリ痛むのですが、翻訳などでクルアーンを読む(黙読する)と、「一体これのどこに惹かれるのか、こんな退屈でどうしようもない本はない」と感じるのが普通でしょう。それはクルアーンをいわゆる「本」だと思い、宗教というのは体系化された決め事だと思っているからです。
 信仰と音楽の関係をただクルアーンだけに代表させて語るのはあまり適切ではないのですが、他にここまで親しんでいるものがないので、もう少しクルアーンで考えてみます。

 クルアーンは翻訳できず、いわゆる翻訳はタフスィール(解釈)である、とされます。そしてクルアーンの「本体」は、ムスハフ(紙に印刷されたクルアーンの本)ではありません。
 これを説明するのに、わたしはよく音楽と楽譜の例を持ち出します。楽譜は音楽を記録したメモではありますが、音楽そのものではありません。演奏されて初めて音楽なのであり、逆に、演奏されるなら楽譜などあってもなくても良いでしょう。音楽だと思えば、翻訳が不可能であることも分かる筈です(音楽的ではない要素については翻訳可能だろうが、そこに最重要な本質がないからこそ「翻訳不可能」と言われる筈だ)。
 まことに背教的な言明で、実に胃が痛いのですが、少なくとも信仰についてのある本質的要素について、このたとえはよく説明できていると自負しています。
 音楽の歌詞であれば、その言葉を文字に書き起こし、文の間に多少の内容的齟齬があったところで、それを「破綻している」「間違った歌だ」という人はいません。全体として受け取るものが良ければ、それは良い歌詞だ、としか思わないでしょう。
 まったく個人的には、非ムスリムが翻訳されたクルアーンを読むくらいなら、クルアーンの読誦MP3をダウンロードしてきてこれを聞くべきだと考えています。当然、アラビア語力とイスラーム的に最低限の教養がなければ、何を言っているか全く分からないでしょうが、それでも翻訳を読むより良いのではないかと思います(もちろん、翻訳にも非常な効用があるが、「外側」的な見方しか持たない者が意味内容をとろうとして黙読しても全く無意味だ)。
 更に、「楽譜が音楽ではないとして、では音楽の『真の本体』はどこにあるのか」という問いは興味深く、かつまた信仰にも照応します。演奏を録音したディスクなりがあれば、それは「音楽そのもの」でしょうか。それも違うでしょう7。では流れている「音」自体なら、音楽そのものでしょうか。誰がどこで演奏しても、「同じ一つの」音楽でしょうか。「その」曲をその曲たらしめているものとは何でしょうか。あるいは、一度も演奏されたことがなく、作曲家の頭の中だけにある音楽は、音楽として存在しているのでしょうか。
 これらの問いに対し、様々な答えが考えられますが、「音楽そのもの」はイデア的抽象物であり、例えば作曲家の頭の中だけにある状態こそ、より「音楽そのもの」に近く、具象化・受肉化される(現世的ノイズが入る)ことで音となる、という立場が一つ考えられます。クルアーンについても、天の書というアーキタイプがあり、それが地上に下ろされた、という考え方があります8。構造的には似た関係にあるでしょう。

 しかし当然ながら、音楽や詩と信仰(聖典)の異なる点は沢山あります。クルアーンに節をつけて音楽的に詠むことは、古くから「良くないこと」とされています。どこまでなら調子を付けられるのか、というのも微妙な問題です(読誦者によっては感情がこもりかなり抑揚がある)。当然、楽曲をつけたりすることは許されません。
 また、正確なクルアーン読誦には、色々な決まりごとがあり、音楽的要素はありつつも、方向を異とするものです。クルアーン読誦(タジュウィード)では、発音の正確さや長さ、独特の規則に従うことが要求されますが、音楽では決定的な「音程」という要素はありません。
 何度でも言いますが、これはかなり乱暴で誤解を招きかねない説明です。音楽に信仰を回収するという意図はありませんし、それは不適切な試みです(しかし逆というのは大変興味深い!)。ただ、「外側」にとっても馴染み深い音楽を出発的にすることが、戒律の集合体といった滑稽な「外側」からの見方を越え、「内側」から追体験する経路となるのでは、と考えているのです。

 さらに一つ飛躍します。
 これは話が大きくなりすぎて到底説明できる度量を備えていないのですが、言語そのものが、おそらくは音楽的なものから始まったのではないかと考えられます9。この辺は色々な方が議論されていて、『さえずり言語起源論』という一般書もあります。実際、わたしたちが一番最初に習得し、第二言語などの学習の際に最も修正困難なのは、言語のリズムや発声のノリ的部分であり、文法や語彙ではありません。最初は何だかよくわからない雰囲気を真似たような音から始まり、そしてこの雰囲気的な部分が最も根深く染み込んでいます。
 言わば、自然言語に対する人工言語の向かう方向と、丁度真逆のところに言語の起源があったということです。コミュニケーションの用具、メッセージの伝達といった要素は、(社会における)言語の重要な働きではありますが、ほんの矮小な部分に過ぎません。論理実証主義者の扱ったような言語は、言語の1%にも満たない些事に過ぎないでしょう。
 言語とは、嘘と冗談と歌です。そしてこれらと、「メッセージの伝達」という矮小な部分が、互いにどこからどこまでか区別のつかない形で絡み合っているものです。中でも、「さえずり」的音楽的要素こそが、言語の始まりだったことでしょう。
 わたしたちは通常、言語のこの「矮小な部分」を意識しています。実際は水面下に意識されない巨大な本体があるのですが、通常の社会生活の中では特別に取り上げることがありません。
 しかし信仰の言語というのは、言語の非常に古い使い方から来ているものです。わたしたちにとってはすっかり身体化され意識されなくなり、さらに部分的に退化してしまったような部分が、最も重要な働きをしているのです。つまり、さえずり的な言語です。
 信仰とは、言語の源流的な基底部が残っているもの、もっと言えば、言語の深層流そのものです。
 ですから、信仰に「内側」からアプローチしようとするなら、一旦現代的で限定的な言語意識を捨てて、あたかも音楽であるかのように、さえずりを聞くように見てみるべきです。もちろん、理性ある現代人は、そう簡単に理性的解釈を捨てて言語に向き合うことはできません。この点、クルアーンが文字通りの「古い言語」で、かつ(この文章を読めている人の大半にとっては)外国語であるというのは、ラッキーなことです。古いものは、古い耳と古い頭で聞かないといけません。
 古い耳で聞き、古い舌で読んで「正しい」ものが、そのまま新しい耳や舌にとって「正しい」とは限りません。両者はしばしば齟齬をきたします。それを無理やり表面的につなげようとすると、一方では文化人類学的な宗教研究となり、一方では「イスラームは科学的宗教」などというトンデモ言説になります。はっきり言いますが、こんなものは両方ともクソです。
 新しい耳や舌にとっても親しいものの中で、この古いものに一番似ているものを探すとしたら、それは音楽です。同じではないのですが、経路としては一番近道になる筈です。

 ある音楽を聞いている時、わたしたちは音楽を「信じて」いるのでしょうか。
 「信じるとか信じないとか、そういうものじゃない」というのが、普通の答えでしょう。
 しかしそこを敢えて「信じる」と言ってみるなら、それはどのような意味の言葉になるでしょうか。「わたしは音楽を信じる」。
 多分、この時の(意味不明瞭な)「信じる」が、一番「宗教を信じる」ことに近いです。
 宗教について懐疑的であったり、単に無知な人たちは、「こんな馬鹿げたことをなぜ信じるのか」と言います。では翻って、彼らが「信じる」ものは何でしょうか。検証された確実なものでしょうか。それが検証されて確実であるなら、なぜ敢えて「信じる」必要があるのでしょう。それは端的に事実(とされている)なのですから、敢えて「信じる」などと言う必要はないでしょう。
 「信じる」というアクションは、基本的にいつも馬鹿げています。馬鹿げていないものは、わざわざ「信じ」たりする必要はありません。
 ただしそれは、「検証されたもの」を事実と受け止めるかのように、「検証されていないもの」あるいは「偽と検証されたもの」を事実と受け止める、ということではありません。その軸の中に「信じる」はないのです。
 音楽は常に空から降ってきて、空から降ってきたものをわたしは信じています。
 そして楽器を演奏する者が、個々の指の筋肉の使い方を意識などしないように、信じている時にわたしが要するに何をやっているのか、わたしは知りません。それを確かめることは可能でしょうが、その時には指がこわばって、音楽は死に、もう別のものになっているでしょう。

  1. 本当はイスラームのことばかりを書いているのは避けたいです。ついうっかり書いてしまいますが、自分ではあまり「宗教の話」だとは思っていません。「宗教の話」は、内側を内側のまま語るもので、個人的にはあまり興味がないし、とりわけ非ムスリムの方には価値の乏しいものになるでしょう []
  2. 関連:それがあなたにとってハラームなら、ハラームだ []
  3. もちろん違う理由かもしれない、الله أعلم []
  4. そういう研究は面白いそうだが、殺される覚悟をもってやるべきだし、時々殺された方が良い。わたしも殺される危険を感じながらこっそり読んでみたい。 []
  5. しかし上で触れている通り、そのような努力をすることには意味がある。 []
  6. にも関わらず、多くのムスリム自身がこの矮小な要素を過剰に評価して一喜一憂しているのは実に馬鹿げたことだ! []
  7. しかし楽譜と完全に等価ではない。楽譜は書き言葉に非常に似ており、「実際に音となる音楽(あるいは言葉)」と同じであっては「ならない」 []
  8. つまり、天の書>音声クルアーン>ムスハフと、三段階経て紙のクルアーンになっていることになる。エクリチュール>パロール>エクリチュールという構造だ。 []
  9. その学問的是非については語る資格がないし、ここでは重要ではない []