人間は紐には勝てない

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 昨日、被災地の商店街再活性化を扱っていたテレビ番組があり、たまたまそれを横目で見ながらぼんやりと考えていました。
 今回は被災地の話なのでちょっと別ですが、地元商店街とイオン、みたいな話は延々と繰り返されています。実際は地元商店街が先に衰退してその後イオンが来てくれたんだ、という話もありますし、別段大規模資本反対とかいうことを言いたいのではありません。
 これについて考えたというのは、
①労働者すなわち消費者という閉じたローカルな関係を破壊するのは非常に危険
②しかしウェットな関係はウザい
③でもウェットな呪いからは自由になれない
 の三点です。

 ①は割りと普通の話で、高度資本主義社会が進展するに伴い、わたしたちは各々の場面でのロールに分断され、消費者は消費者の立場を、生産者は生産者の立場だけで考えるように統治されていきます。その最たるものがグローバリゼーションですが、こうした方向性は比較優位を成り立たせ、全体としては概ね合理化され、双方が得はする筈なのですが、一方で、労働者もまた消費する人間であり、実在するのは相互に矛盾する色んな側面を持つ人間たちなのだ、という、当たり前の事実が希薄になっていく恐れがあります。これは人間を機能の小部屋にバラバラにして切り分けるようなもので、このカテゴライズに収まらない、あるいはカテゴリーに対して越境的な性質は尽く摩滅させられていきます。その結果、異様なサービス過剰や賃金の単なるコスト化、といった状況に陥り、「得している筈なのに得した実感がない」社会ができあがる訳です。
 これは割りとベタな批判であって、まるごと信じている訳ではありません。ただ、たたき台としてこうしたリスクがある、ということは前提にすべきだと考えています。
 地元商店街のオッチャンがサービス業的にはあり得ない接客水準なのに許されるのは、単にそのオッチャンを「知っている」からです。知らない関係、イオンのレジ打ちだったら到底許せません。そして、許し許される緩い関係を守っていかないと、結局自分の首を締めることになる、というのがこの叩き台です。

 しかし②の通り、この閉じたローカルな関係というのは、良い面も色々ある一方、ムラっぽくウェットで鬱陶しくて窮屈で、実にウザいものです。
 「知っている」ことで成り立つ関係なのは結構なのですが、そんな「知っている」ヤツばっかりの社会のなんと窮屈なことか。個人的には、そんなところに絶対住みたくありません。
 実際、そういうウザい関係が(良い面も色々ありはするものの)皆んな嫌いだから、東京が膨れ上がり地方も分断され、どんどん乾いた世の中になっていったのでしょう。ウェットで閉じた関係で得られる利得というのは、かなりの程度、物質的豊かさで代替できます。
 人と人の顔の見える関係がウンタラとか言いつつ、世の中のお金持ちやエライ人というのは、その辺の人がフラッと行っても会ってくれない仕掛けになっていて、受付やら秘書やら色んな取り巻きの向こうに守られているものです。なぜなら、普通の人間は余計な人間には関わりたくないものだからです。誰だってお金があれば、こうやってバリアを築いておきたいのですが、大抵の人はそこまでお金がなく、バリアも作れないので、仕方なく人間関係に価値を見出して強引なポジティヴシンキングをしているだけです。
 ただし、こういう防衛的でフィクショナルな「前向きさ」というのは、アホらしくはありますが、別に否定するものではありません。転んでもタダではおきないのは大いに結構。嘘でも何でも拾えるものは拾ったらいいいでしょう。逃れられないものは肯定的に見た方が得です。そして人生の大抵のことには、見た目と裏腹に大した選択肢はないので、上手い諦め方をして貧乏慣れした人間の勝ちです。見た目上の選択の自由というのは、ほとんどの場合、「君が自由に選んだんだから君の責任だよね、自己責任」という、ポストモダンな支配を成り立たせるための方便に過ぎません。自由などないし、必要もない。

 このように、物質的パワーがあれば是非ともそちらでカバーして、とっととオサラバしたいウェットで閉じた関係ですが、まず第一に、上記の通り、大抵の場合はそこまで物質的パワーがないので、多少は付き合っていかざるを得ません。日本の場合、貧乏人でもそれなりなパワーがあり、分割統治の結果サービス業の底辺品質が異様に高いため、コンビニで敬語をつかってもらったりできますが、ほとんどの国ではそんなことはあり得ません。物質的に困窮していればいるほど、ウェットな「人力」に頼らざるを得ず、「許し許され」ざるを得なくなります。その結果、ますますこの方式を肯定的に見なければ「やっていけない」状態となり、良いところだけ見れば人情溢れ家族的な空気が醸成されます(というよりこちらが基本なのですが)。こうした国々でも、物質的パワーを手にしている一部の特権階級は、様々なバリアを構築して人間どもを遠ざけています。
 この点については、単にどうしようもないことなので、それほど重要ではありません。
 第二の点は、それでもウェットな関係は呪いのように纏わり付く、ということです。
 つまり、物質的パワーを手にしていても、完全に人間どもを追い払って静かに平和な生活を営むことはできない、ということです。
 実際、「現代社会」が豊かになり、従来のローカルな人間関係が(めでたくも)叩き壊されると、今時で言えばソーシャルメディアのようなものが台頭し、結局どこかで人は泥臭い人間関係に接地しようとします。一人ひとりの心理としては、「余計な人間を排除して、大切な人間関係だけを維持」しようとしているのでしょうが、実際のところ、「余計な人間」と「大切な人間」などというカテゴライズは容易ではなく、それどころか、ほとんどの場合は、その「大切な人間」こそが一転してこの世で一番面倒臭い人になるものです。
 それが分かっていてなお、どうしてもウザい関係に足をツッコまないでいられない、という呪いが、わたしたちにはかけられています。
 こうした風景を「人は孤独には勝てない」と言えば叙情的で、ポジティヴな感じがするのですが、本当のところ「人は絆には勝てない」「人はウザい人間関係に勝てない」と言うべきでしょう1。つまり、絆なるものは基本的に切りたいものなのだけれど、呪いのように纏わり付いて、どうしても自由になれない、ということです。
 絆というと何となく聞こえが良いですが、絆というのは紐ですから、紐で結んで動けないようにしているわけで、犬のリードとか囚人の縄のようなものです。紐で縛り付けることを「絆」というと、なんとなく前向きに聞こえるのです。カツアゲを示談と言ったり、ニートをレイブルと言うようなものです。
 だから、もっと言ってしまえば「人間は紐には勝てない」です。紐にはね、勝てませんよ。固結だし。

 そして、上述した通り、自由などないし必要ないわけですから、既にあるものを自分を騙して肯定的に見ておいた方が得なわけで、一周回って「顔の見える関係」賛歌のようなものに戻ってきます。こうした姿勢は、世の理に対する諦念と達観の末に構成されるもので、見事な適応なわけですが、言っている内容だけ見ればそれは端的に嘘ですから、文字通りに受け取ってはいけません。言葉は右から左に受け流し、態度だけを見て学ぶ・真似る、というのは、これに限らず人生の色んな場面で重要な姿勢なわけですが2
 ただ、こんな風に斜に構えて言葉にしてしまった段階で、自分を騙すことについては一歩遅れをとっているわけで、自我に一枚握らせて「ウザい人間関係の呪いからは逃げられない」と考えておくほうが、個人的にはストンと落ちます。
 呪いだからしょうがないです。

  1. もちろん、絆と聞くだけで吐きそうになる意味で言っている。実際吐きそうだ。 []
  2. スポーツ指導者によくある「腰で打て」とか「バッと入ってシャッと打つんや!」といった指導は全く正しい。言葉だけ取ったら何の役にも立たないばかりか、端的に事実と異なることだらけだが、薫陶を与え受け取る関係があれば、それでも機能する。逆にこの関係がなければ、言葉が正しくても何も伝わらない []



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