極私的回想

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 何か色々とものを作る人生で、特に売れることもなかったが、若い時は多少なりとも発表していた。
 普通の大学に通っていた自分は、一緒に作業することのあった芸術系大学の人々を、少し格上のように感じていたことがあった。なにせ彼らは「芸術」を本業にしているのだ。
 しかしある時そんな人たちの一人が、こう言った。「すごい作品を作れるようになって、いつか世の中の一定の人たちにでも、名の知られた存在になりたい」。
 彼女がそんな野心を抱いているとは知らなかったが、それ以前に、この時初めて「芸術系大学」というものの意味を認識した。
 「芸術系」と言っても、皆んなが皆んな前衛芸術みたいなことをやっている訳ではなく、工業デザインなどのストレートに世間に認知される分野を目指している人たちが沢山いて、実際、世の中は彼らを必要としている。
 だがわたしは、人生のある時点で、実は自分には「人に伝えよう」という意志がほとんど全くないのだということに気づいた。
 「ものを作」ってはいえても、別に「伝えよう」とか「認められよう」と思っていなかったのだ。
 「認められたい」という気持ちは人並み程度にはあるが、それは別に、「ものを作る」ということとセットなものではない。ごく一般的な欲望にすぎない。別に恋愛でも出世でも一緒だろう。
 その時点くらいまでほとんど自覚できていなかったのだが、わたしには、形や構造にはすべて絶対的な解答があり、ただ、解答は隠されているのだ、とぼんやりと信じていた。例えばストーリーであれば、それは人の作るものなのだから、作者の好きなようにできる。しかし解答は一つだけだ。それは人知を越える領域に予め書き込まれており、ヒットできるかどうかは精進と主の思し召し次第だ。
 「解答」を射当てたからといって、それが世間で評価されるとは限らないし、人に伝わるとも限らない。解答と人間はまったく別物だ。
 重要なのは、「解答」を見つけることであり、ついでに人にも伝わればラッキーだが、最優先事項ではない。人間のことなどどうでもいい。
 大体、わたしは人の考えていることなど全く分からない。理解されようとも理解しようとも思っておらず、ほとんど器質的水準で、人の気持ちやら何やらといったことを了解することが非常に苦手だ。ちなみに、顔の識別も苦手で、直接会えばある程度区別できるが、テレビや映画に出てくる人たちについては、極端な特徴のある場合を除いて、顔だけで識別することはほとんどできない(話し方や行動様式、物語の中での位置から記憶することはできる)。
 端的に能力がなかったこともあるが、「ものを作る」ということと、そこに至らしめていた自分の中でのモチベーションとの間にある結合は、単なる偶然的なフックに過ぎないのではないのか、と気づいた。
 偶然的ではあっても、こうした種類のフックというのは強力で、人は自分がそれまでに築いてきた行動様式というものに縛られる。必ずしも悪いことではなく、大抵のことは「今まで通り」にやれば良いのだ。それが失敗することはあるが、成功する時の方がずっと多いし、強迫的サイクルを無理に抜け出して成功する確率はとても低い。そして一般に、症候を解消するということは、単に別の症候に乗り換えるだけのことだ。
 それでも、あるサイクルの地平線に破滅的結末しか見えていないのなら、力づくででも「別の病気にかかる」値打ちはある。
 わたしにとって、人との関係の中に「ものを作る」ことを置くことは、非常に危険なことのように思われた。だから「いかにしてものを作らないか」を考え、ほぼ実現することができた。
 その結果もちろん、別の症候の中にいる。
 とはいえ、ある決まったサイクル、一度決められてしまった定常回路へ回帰しようという力はとても強いものだ。わたしはまだフックされている。だが少なくとも、「解答」に優先順位をつけることには成功しているように思う。
 石の中に元からあるものを掘り出せたなら、後のことなどどうでもいい。



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