山田芳裕「へうげもの」とプロレス フェイクなリアル

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 「へうげもの」という漫画作品があります。
 戦国時代を舞台とし、茶道や茶器、美術や建築など、「数奇」をテーマにした作品で、山田芳裕氏の独特のダイナミックな描写、緻密な時代考証で知られています。
 「へうげもの」の面白いポイントは沢山ありますが、よく言われることですが、やはり戦国時代を舞台にしながらバトルを描くのではなく、湯のみだの皿だの、およそ戦いとは縁のない道楽的要素を中心に物語が回っていることです。主人公の古田織部は武将でもありますから、武勲と「道楽」の間で揺れ動く場面が多々あります。しかしこの二つが常に相反するもので、「道楽」が全くのムダかというと、そうではなく、「もてなし」合戦のような微妙な駆け引きの中で政治的成果が得られることもあります。実際、この時代に茶の湯のエキスパートが重んじられたのは、こうした政治的要素が評価されたからでしょう。この辺の実に曖昧な感じが非常にリアルです。
 いや、漫画作品としての「へうげもの」自体は(素晴らしい時代考証があるとはいえ)、ちっとも「リアル」ではありません。有名な織田信長が斬られるシーンなど、リアルもヘッタクレもない漫画的表現です。
 リアルというのはそこではなく、政治的勝敗が単純なバトルによって決着するのではなく、非常に曖昧で勝敗基準も明瞭ならぬやり取りの中で決せられていく、という点です。
 これは最近話題にしているプロレス的なるものにつながります。

 「プロレス的なるもの」に対し、例えば仮に「格闘技的なるもの」を対置したとすれば、普通は「格闘技的なるもの」こそリアルであり、「プロレス的なるもの」はフェイク、それこそ「茶番」であるとされます1。「格闘技的なるもの」は手加減なしのリアルファイト、本物であり、「プロレス的なるもの」は筋書きのある作り物、という訳です。
 実際、「格闘技的なるもの」のリアリティというのはあります。学校の試験やプログラミング言語のような人工言語、スポーツやゲーム全般がこうした系譜に連なります。そこでのリアリティとは、厳密に区切られた系の中で、決まった文法規則に従って「ゲーム」が行われ、その内部については一切の「筋書き」がない、ということです。
 しかし、実際の世の中では、そのような「厳密に区切られた系」というのは滅多に存在しません。
 昔ある予備校の先生が、こんなことを仰ったことがあります。「受験勉強は辛いし、こんなものは世間で役に立たない、と思うかもしれない。しかし人生の中で、受験ほど公平な戦いというのはない。受験にも不正はあるかもしれないし、正しく学力が測れているわけでも必ずしもないが、そんなものは世の中の不公平さに比べたら何でもない。こんな機会は人生でもうないのだから、この時くらい頑張ってやってみろ」。これは尤もな話で、世の中のほとんどの場面には、試験のような厳密な括りもルールもないし、「バトル」がいつ始まっていつ終わったのかもよくわかりません。それどころか、そもそもの勝敗自体がどう決着したのかよく分からないこともままあります。
 「厳密に区切られた系」は、その内部においてはリアリティがありますが、「厳密に区切られた系」というこの状況自体が、非常にフィクショナルで、実験室的な環境でしか成り立たないものです。
 世の中のほとんどのものごとは、どこから本気でどこから「茶番」なのか分からない、「プロレス的なるもの」に支配されています。筋書きがないつもりでやっていたら実はカタヤオだった、というようなこともままあります。ビジネスも政治も然り、ヤクザの出入りだってナシをつけてからやったりするでしょう。
 そういう意味では、通念に反し、「プロレス的なるもの」こそがリアルです。
 このリアルは、「どこまでリアルなのか分からない」というリアルです。「格闘技的なるもの」ものも「プロレス的なるもの」も、それぞれの意味でリアリティがあるのですが、リアルの立つ位置、リアリティというものが引っかかりピン留めされる場所が異なるのです。

 「プロレス的なるもの」「格闘技的なるもの」と来たので、「喧嘩的なるもの」を考えてみるなら、喧嘩こそは「本当の本当に」リアルだとされています。確かに喧嘩には「格闘技的なるもの」のようなルールはありません。
 しかし、たしかに明文化されたような文法はありませんが、喧嘩も世の中で生きている人間のやることですから、「これ以上やったらマズい」「ここは殴られておいた方が得」「もうすぐお巡りが来る」等々、厳密な力勝負以外の様々な要素が入り込みます。ノールールというより、何がルールなのか分からない、という方が正確でしょう。
 これはそのまま、自然言語の性質にも言えることです。自然言語の文法とは、遡及的に論理的に先置されるものとして想定されますが、実際のところは後から経験的に見出されるものに他なりません2
 「格闘技的なるもの」なるものは「プロレス的なるもの」よりリアルで、より(真のリアルたる)「喧嘩的なるもの」に近いと考えられていますが、ある意味では文法の不明瞭な「プロレス的なるもの」の方が「喧嘩的なるもの」に近いのです。なぜなら、厳密な意味で系が区切られ、完全に文法の定められた世界など、このイマジネールな世界の内部には存在しないからです3

 大分話がズレましたが、「へうげもの」は「まるでプロレスのようにリアル」です。

4063724875 へうげもの(1) (モーニングKC (1487))
山田 芳裕
講談社 2005-12-22
へうげもの 全巻セット

関連:
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それはバッタである、アッラーではない

補足:
 スポーツなどのゲームが「格闘技的なるもの」ものの系列に属する、としましたが、ゲームという概念は本当はもっと深遠なものです。
 サッカーでは手をつかってはいけない、それはルールに定められている、というのは確かで、サッカーのルールこそがサッカーの「本質」とも言えます。もし手を使ってしまったら、それは単に別にスポーツになる、という訳です。新たにスポーツ競技を「創設」したり、あるいはテレビゲームを開発するような場合は、かなりの程度でこの通りでしょう。
 しかし当然ながら、サッカーはサッカーのルール明文化以前から存在します。ルールは論理的に先行する一方、発生論的には後行します。ルールが時系列的にも一番最初に立てられる、という状況は、それこそかなり限られた条件でしかあり得ません。
 つまりはじめに「ゲーム」ありきです。ゲームは遊びです。遊びの中でふにゃふにゃとなんとはなしに定められてきた規則を、純粋に析出して近代スポーツとして「系を区切る」のです。
 では明文化以前にルールがないのかといえば、そんなことはなく、ただ何がルールなのかはっきりしない、というだけです。この辺はヴィトゲンシュタインの議論になるでしょう。
 はじめに「ゲーム」あり、です。

  1. 実際にプロレスがフェイクかどうかなどということはここでは関係ないし、そんな議論をすること自体が、ここで言う「プロレス的なるもの」の真のリアリティに反することである。また「格闘技」についても、当然ながら、文字通りの格闘技について言及したい訳ではない []
  2. しかし遡及的に文法を発見せずにはいられず、一旦発見するとそれが先行するかのように思考しないでいられない、という点は非常に重要 []
  3. 経験主義科学の発見したあらゆる法則は、反証可能性を留保していなければならない。一方で、世界の輪郭そのものについて、完全なる文法というイデア的なものを想定することは可能である。正確に言えば、それが可能であるような世界の内部にわたしたちは存在する []



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