「何が欲しいのか」。これはこの世で最も大事な問題の一つだ。なぜなら、その答えは、他のすべてのことの答えでもあるからだ。
今日の世界を眺めれば、地上のほとんどの住人は、いつでも一つのものを求めているのが分かる。お金が欲しいのだ。お金は悪いものでも何でもないし、お金を欲しがったからといって悪いことではない。お金は安心や信頼ともなるし、リラックスして幸せに暮らさせてくれるかもしれない。しかし大事なのは、お金は目的ではなく、この問いの答えにはならない、ということだ。つまり「何が欲しいのか」という問いの。
わたしの見るところ、一番悪い解決法というのを、ご覧にいれよう。例えば、食べ物ではダメだろうか。女ではダメだろうか。想像して欲しい。誰かに何が欲しいのか訪ねて、彼が食べたい、沢山食べたい、毎日ずっと死ぬまで、と答える。この人に対しどう感じるだろうか。また別の人が「女が欲しい! 女が欲しい!」と言っていたら、この人に何と言うだろうか。ケダモノと言うだろう、そうじゃないか? なぜだろう? 実際ケダモノのようだからだ。どうしてケダモノなのだろう? なぜなら、飢えたライオンを連れて来て何が欲しい、と尋ねたら、肉、と答えるだろうし、男性ホルモンの高まっている猿を連れて来て何が欲しい、と尋ねたら、メズ猿、と答えるだろうから。しかし人間は、このような問いに対して、異なる答えをしなければならない。では、人間はどのようであるのだろう。歴史はどうだったろう、その地位はどうだったろう、地上の主、世を栄えさすもの、選択する唯一のもの、善行と悪行を勘定される唯一のもの、このすべてはいかがであったろう?
例えば、お金の為に働く人間と、役に立ち重要で貢献し、人としてものごとを実現するために働き、それから多くもないお金を手に入れる人間とでは、大きな違いがある。
問題はお金にあるのではない。問題は、お金やその他ものによって、そもそも何が欲しいのか、ということを人が忘れてしまう、ということだ。何のために存在しているのか、ということを。
人生は競争のようなものだ。誰もが列の先頭に立つために走り、スーツを着た尊敬される仕事につかなければならず、よりお金を得て専用オフィスに座るべく卒業証書を手に入れなければならず、何を考えているか分からない人とも結婚しなければならない。わたしたち皆が、同じ物を欲しがるのは、どういうことなのだろう。そもそも、わたしたちは皆、異なっているのに。どうして、貧乏になりたがったり、お金が好きでない、というのは許されないのだろう? 誰か教えて欲しい。なぜだろう? どうして皆が、保険会社の宣伝に出てくる、オクトゥーブル橋の家族のようになりたがるのだろう。どうして、またいかにして、この映像の馬鹿げた夢のが、他のすべての夢を押しのけてしまうのか。こうした夢は、つまらないものかもしれないが、美しくリアルな、自分自身の夢なのだ。
それから、列の先頭というのはまったく美しく、素晴らしく最高なものだが、ことのすべてではない。わたしたちは、競走馬や犬ではない。「十分です、わたしはこれでいいです」という言葉はどこに行ったのだと考えるだろう。人々はどこにいるのか。競争の中にいるのだ。というのも、競争には名誉の代表というものはなく、勝つか尻尾を下げて帰るかのどちらかなのだ。しかし、世の中というのはそういうものではない。想像して欲しい。もしイブン・ラシドやニュートンやプラトンやガンジーが、お金のために働いていたら、何が起こっていただろう? 世の中はもっと酷いことになっていたのではないだろうか。
偉大なるアッラーにかけ、そもそも走る必要などないのだ。この競争というのは、わたしたちがやっているだけで、わたしたちは走るために創造されたわけではない。走るにしても、手元に置いて大事にしなければならないものをすべて投げ出さなければならない訳ではない(何が大事なのかを言うつもりはない、皆が自分の重要事を人に言われずに知るべきだから)。
それから、想像して欲しい、皆が走っているからという理由で走っているうちに死んでしまったら、これは無残なことではないか。本当に大事なものは手に何も持たず。というのも、それらは走るために捨ててしまったのだから!
それから、一番大事なことを言おう、言うべきことを終わらせるために。これを二十年でもゆっくり考えて欲しい。そうすればこの一文が、この本に書いてある中で一番正しいことだ、と分かるかも知れない。
「この世で大切なすべてのことは、お金では買えないものだ」。
それだけだ。