犠牲獣について

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 大イードの犠牲獣のことじゃない1、イードだけじゃなく一年中フィッタ2を作っている犠牲獣だ。誰のことだろう。哀れで麗しきエジプトだ。皆がそれをあちこちに縛り付けて、激しく引っ張るようになって、ずいぶんになる(もうすっかりくたばってしまったのか、まだまだこれからもっとくたばる余地があるのかは知らない)。しかし倒れてしまったとしても、まだ起き上がるチャンスがある。主よ、エジプトがまだ屠られないことを。主が汝をナイフより救われんことを。まだ息のある汝を切り刻み続けているそのナイフから。
 別にことをドラマ仕立てにしようというんじゃない。でもそうなってしまったのだ。というのも、本当に酷い姿で、涙を誘い(心ある者の)胸を引き絞られうような光景なのだ。得難き偉大なるエジプトは、時巡り犠牲獣と成り果てた。チンピラどもに囲まれて、皆に毟り取られている。
 確かに、まだ彼女3を愛している人々はいるが、ほとんどは単に愛しているだけだ。言うだけならタダだから。本当に心を痛めているのは少数だ。その一部の人々は、出来る限りのことをして闘っているが、残念ながら、勇気が数に押されている。数少ない人々がエジプトを慰め、水をやり、気をしっかり持って、まだ倒れちゃだめだ、まだ息はある、と声をかけている。
 いくらかの人々は、彼女を食い物にし「寄ってらっしゃい見てらっしゃい」と声をかけている。それを聞いている人たちは、土埃の届かないところでスーツを着ている連中で、エジプトにはそんな問題はなく、その喉を掻き切るナイフなどないと信じている。
 エジプトの災難で儲け続けている連中がテレビや新聞に溢れかえっている(ヤツらが呼んだ泣き女4が、田舎や大衆地区で死者を前にして泣きわめいている。エジプトが死んだということで金を取るのか。そういう連中が沢山いる)。目隠しされた者に嘘つきに偽善者。何も問題ない、「ナイフなんて見えないよ!」。泥棒が沢山いて、頭のおかしいのはもっと沢山いる。
 こういう人々が、皆さんご存知の人々で言うと誰に当たるのか、言う必要があるのか分からないけれど、エジプトを食い物にしている連中を、僕が更に食い物にしている、と言われるのは怖い。自分を裁定者だとは言いたくない。人々の意図するところも分からない。確かに彼らの中には邪悪な者たちもいるが、願わくば誇り高き者もあらんことを。
 悪い話の代わりに良い話をしよう。良いものというのは何だ。知と公正だ。本気で学ぶ者、本気で教える者、真理のために戦う者、虚言を弄さず有限実行の者、勇敢で誇りあり男らしく誠実で真実を愛する者、良心ある国士たる者、彼らは邪悪な者たちではない。
 そして僕と君! さあ踊ろう!5
 というわけで、ドラマはダンスになった。次に何が起こるか、誰が知ることやら。

  1. 大イードとは犠牲祭(イード・ル=アドハーのことで、息子を犠牲に捧げようとして羊を代わりに屠ることを許されたイブラーヒームの故事にちなみ、犠牲獣を屠る伝統がある []
  2. 大イードの際によく作らる伝統的料理 []
  3. 彼女はここではエジプトのこと []
  4. 泣き女は、葬式に呼ばれて嘆き悲しみ、故人がいかに素晴らしかったか語る職業。現在ではほとんど見られないが、田舎ではまだいくらか残っているらしい []
  5. この下りは、昔の映画にあるような結婚式のスピーチの形式で語られていて、ジョークになっている。色々な人たちが紹介され、最後に楽団に合図して「さあ踊ろう!」となる []