砂をかけにいく――コロナ禍にあって「生存することにしか価値を置かない社会」を生きるとは

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少し前に、國分功一郎氏がBS1スペシャル「コロナ新時代への提言~変容する人間・社会・倫理~」に出演し、アガンベンなどをひいて、「生存することにしか価値を置かない社会を生きるとはどういうことか」という問題提起をされていた。コロナ禍にあって、死者を弔うこともできず、病者を見舞うこともできない社会に対し疑義を唱えたアガンベンは多くの批判を浴びて「炎上」したそうである。現下の状況下では不思議ではない。
また、3月の半ばには東浩紀氏が以下のようにtweetしている。


これらはいずれも、新型コロナの猛威を前に、「生存すること」に過剰な価値づけが為されるというより、人の持つそれ以外の価値があまりにも無下にされていく、そしてそれが緊急事態の名の元に制度化され権力により管理される、あるいは人々の「空気」となっていくことに対する危機感を表明したものだと思う。
いくつか留保しておかなければならないが、これは今現在頻繁に問われている「命か経済か」という問いではない。よく言われるように、経済の不調もまた人を殺す。経済による(間接的な)生死をも含めた、生存とそれ以外の価値についての問いである。
また、國分氏も番組の中で、幾重にもエクスキューズをつけていて、感染拡大防止のために見舞いや葬儀に制限がかけられる所以も重々承知し、これを否定するわけではなく、ただ一片の疑義も挟まれることなく、生存だけが特別に第一義的な価値として扱われてしまう状況に危機感を表している。
東氏の発言については、短いtweetの前段の中で既に留保が為されている。言うまでもなく、「命より大切なものがある」という価値観は大きな危険を孕んでいる。「命よりも大切なもの」が何らかの権力により恣意的に操作されれば、人の命はいくらでも無下に扱われることになる。カミカゼ然りであるし、一部のカルトの凶行なども似た問題系にある。それは当然の大前提として、「命より大事なものはない」価値観にも、また別の種類の危うさが潜むことを指摘している。
死者を弔い病者を見舞う自由が奪われるとは、という問いかけからは、アンティゴネーを想起せざるを得ない(たぶん、アガンベンや國分功一郎も念頭に置いていただろう)。
アンティゴネーの兄、ポリュネイケースはテーバイの王位を取り戻すべく攻め入るが敗れ、その亡骸は城外(市民社会の<外部>)に放置される。統治者クレオーンは、反逆者であるポリュネイケースを葬ることを禁じるが、アンティゴネーは自ら城門を出て亡骸に砂をかけ、地下の墓地に生きながら葬られ、自害する。
つまり、アンティゴネーは死者を弔うために制度を侵犯し、「生きながら死せる者」とされた上で、自ら命を絶つのである。
これを単にロマン主義的な行為として捉えてしまうと、東氏が件のtweet前段で触れているような、「命より大事なものがある」という危ういイデオロギーへと一歩踏み出してしまう。そう解釈されてしまう危険を常に孕んではいるが、それをギリギリで踏みとどまり、イデオロギー化しない何か、もっと儚く個別的で再現困難な何かとして、ここで問いかけられているものを拾い上げないといけない。
そう考えながらも、率直に言って、圧倒的な無力感に語る口も重たくなる。
ここで求められている繊細な拾い上げの作業にせよ、國分氏の指摘する「留保の上でのやむを得ない受諾」にせよ、人々の大勢に求めるにはあまりにも無理がある。わたし自身、現下の状況で多少強権的な介入が為され、(経済的ダメージとそれによる経済弱者の困窮を最小限に抑えるためにも)感染防止が重んじられること自体は、致し方ないものだと思っているし、むしろ一時的に強い政策が必要だとも考えている。結局、迂路を経た上での苦渋の選択を取れる人間は一握りで、多くの人々は端的に「命こそが大事」を取るか、あるいはまた「感染者が出ても潰れるし休業しても潰れるなら営業する方がマシ」という、半ば自棄とも言える強硬策を取る(しかない)であろう。ここにもまた、世界の単調な二極化が表れている。
それでもなお、限られた空間においてであれ、「命より大事なものはない」に対する疑義を、小さな声で呟いていくより他にない。
何度でも留保するが、「命より大事なものはない」に対する疑義とは、「○○こそ命より重んじられるべき」という思想ではまったくない。そう「回答」を出した途端、前世紀において多大な思想的営為により封じ込められた古典的な陥穽に、人々は雪崩うって飲み込まれてしまうだろう。そうではなく、この問いに対する一般化可能な答えはないが、なお無力な問いを問い続けなければならない、ということである。
アンティゴネーはクレオーンの<法>を取るに足らないものと考えただろうか。そんなわけはない。
それでもなお、彼女は一人城門を出て、兄の亡骸に砂をかけたのである。
そこに簡単に意味をつけず、ただ来たるべき時が来たら一人黙って砂をかけに行く絶望的な決断、あるいは狂気じみた(間違った)覚悟だけが、逆説的にも微かな希望なのかもしれない。



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