アブドゥルムッタリブは、もう太陽が昇り、朝がやってきたのだと思いました。目を覚ましてみると、まだ真夜中でした。深い沈黙の続く裁くに取り囲まれていました。
天幕の戸を開けると、真夜中に星がまたたいているのが見えました。
強い眠気に負け、彼は夢の中に戻りました。
今度はすべてが明瞭でした。今まで見たことのない偉大な被造物が、断固として命じたのです。
「ザムザムを掘れ!」
アブドゥルムッタリブは、夢の中で尋ねました。
「ザムザムとは何ですか」
夢の中で、命令が繰り返されました。
「ザムザムを掘れ!」
命令の最後のこだまが消えるや否や、アブドゥルムッタリブは鼓動を高鳴らせて寝床の中で起き上がりました。アブドゥルムッタリブは立ち上がり、天幕の戸を開け、広大な砂漠に乗り出しました。
ザムザムとはどういう意味なのでしょう。突然、彼の心を遠くからやって来た光が照らしました。ザムザムの泉です。ザムザムの泉のことに違いありません。しかし、あの目に見えない声は、なぜ彼に井戸を掘って欲しかったのでしょう。その問いには一つの答えがあります。カアバにやってくる巡礼者が水を飲むためです。しかし、泉そのものにはどういう価値があるというのでしょう。巡礼者が飲むための井戸は沢山あるのです。
アブドゥルムッタリブは、夜の砂漠の砂の上に腰掛け、星を眺めながら考えました。古い物語によると、イスマーイール(彼の上に平安あれ)の足元からこの泉が吹き出した、と言われています。
この井戸は、もう埋もれてしまい、時の経過で塞がってしまった、とも言われていました。掘られた他の井戸は、この聖なる泉とは違う場所のものでした。
アラビア半島の砂漠に太陽が昇り、アブドゥルムッタリブは人々のところに出かけ、ある決まった場所に井戸を彫りたい、と話しました。
その場所を示すと、クライシュ族は拒みました。
示された場所は、人々が崇拝していた二つの偶像の間にあったのです。偶像の名は、アサーフとナーイラといいました。
アブドゥルムッタリブは、井戸を掘ることを許してもらえるよう説得しましたが、無駄なことでした。アブドゥルムッタリブには、一人の子もいない、と知られていました。つまり彼は、一族を持たない男で、力で父の意見を守り、その振る舞いを支える息子たちがいなかったのです。この時代、アラブの国々ではすべてのことが部族によりその方法で取り仕切られており、家族を保護していました。
アブドゥルムッタリブは、悲しみながら立ち去りました。カアバの前に立つと、アッラーにこう誓いました。
「もしわたしに十人の息子が産まれ、成長し成人したら、わたしを守ってくれ、井戸を掘ることができます。そのうちの一人を、カアバにて捧げ物の犠牲に捧げます」
天の心はその言葉を聞き入れました。
一年も経たないうちに、アブドゥルムッタリブの妻は二人目の息子を産みました。そして十年が過ぎるまで、毎年男の子が産まれたのです。アブドゥルムッタリブは、十人の息子の父となりました。時が流れ、息子たちは成長し、成人しました。
アブドゥルムッタリブは、敵を阻み助けてくれる氏族の主となりました。
そして、あの姿なき声の示した場所に、井戸を彫りました。古い誓いを果たすため、一人の息子を犠牲にする時が来ました。
十人の息子でくじをひくと、一番年下の子の名前が現れました。その名はアブドゥッラーといいました。
その名が出るや否や、人々が騒ぎ始めました。
アブドゥッラーが殺されるままにしておくわけにはいかない。
アブドゥッラーは、アラビア半島で最も善良な人物でした。マリヤムの子イーサーのように穏やかで、ムーサーのように豪胆で強く、ダーウドのように美しい声で、ザカリーヤーの子ヤヒヤーのように性根が良く、動物にも木々にも人々にも被造物にも慈悲深かったのです。
誰にも怒りをぶつけたり声を荒げることがなく、まだ渋い顔をすることもありませんでした。彼の微笑みはアラビア半島で最も優しく、その魂はマッカで最も純粋で、その心は無情な心の砂漠にある楽園のように高貴でした。だから、彼を生贄にするくじが出た時、人々皆が騒ぎ出したのです。クライシュ族の長老たちと長たちが言いました。
「彼の代わりに、我らの息子を生贄にしよう」
「彼を生贄にしてしまったら、こんな善い人はもう見つかるまい」
「一旦延期して、女占い師の意見を聞きに行かせてくれ」
アブドゥルムッタリブはこの圧力に驚き、ことを延期し、人々は女占い師のもとへ意見を聞きに行きました。女占い師は言いました。
「贖罪金はいくらあるのかね」
皆は答えました。
「ラクダ十頭だ」
彼女は言いました。
「戻って十頭のラクダを連れてきなさい、アブドゥッラーをかけてくじをやりなおし、また彼がくじに当たったら、ラクダを十頭増やし、くじをやりなおし、主が満足されるまで十頭ずつラクダを増やしなさい」
アブドゥッラーと立派な十頭のラクダをかけて、くじが行われました。彼がくじに当たりました。アブドゥルムッタリブがラクダを十頭増やすと、また同じくじが出ました。ラクダの数が百になるまで増やし続けました。とうとう十回くじがひかれ、ラクダが当たりました。
人々はアブドゥッラーが助かったことで喜びの涙を流し、カアバで百頭のラクダを生贄とし、それを人間も猛獣も食べられないようにしました。
アブドゥルムッタリブは、息子アブドゥッラーが助かったことで幸せでした。そして、彼をアラビア半島で最高の娘と結婚させよう、と決め、彼と共にカアバを出てワフブの家へ向かい、そこでワフブの娘アーミナと婚約させました。彼女は花のように純粋で雲のように純潔なアラブの娘で、アラビア半島で最も多く羨望をうける娘となりました。
クライシュ族で最も誇り高く勇敢な青年、アブドゥルムッタリブの子アブドゥッラーと結婚するのですから。
アブドゥッラーとアーミナの結婚式の客と旅人を導くために、マッカ山々で導きの灯火がたかれました。犠牲の動物が屠られ、旅人や貧者、動物や鳥にまで食べ物が振舞われました。アブドゥッラーとアーミナは、結婚の館で二ヶ月間を過ごしました。
それから、旅の知らせが伝えられ、アブドゥッラーはクライシュ族の隊商と共にシャーム1へと旅立ちました。これが、ワフブの娘アーミナが、最後に彼を見た姿でした。彼は高貴な顔付きで、旅立ちの前に彼女に別れを告げました。それから隊商と共に彼の姿が消え、遠い地平線に溶け込んでいきました。
ワフブの娘アーミナは、これが彼を見る最後とは知りませんでした。結婚から二ヶ月後の旅、その旅から一ヶ月後、マディーナのバニー・アル=バッジャール族の叔父たちを訪れ、そこで体を横たえ、死んでしまったのです。
アブドゥルムッタリブの子アブドゥッラーは死にました。二十五歳でした。彼の死の知らせは、火のような苦しみと意気消沈と共に広がりました。妻アーミナのところにその知らせが届いた時、花嫁は泣き崩れて叫び、答えの分からない問いを問いました。
「そのすぐ後に彼に死を下すなら、なぜアッラーは百頭のラクダで贖わされたのですか」
彼女のお腹の中では胎児が動き始めていました。
妊娠していると分かり、彼女はまた泣きました。二度目の号泣でした。一度は自分自身のために、もう一度は産まれる前に父が死んだ子のために。アーミナは、お腹の中で動いているこの孤児が、なるべくして孤児となったとはわかっていませんでした。産まれるまで父がいてくれないなどとは。この孤児が、孤児たち、貧者たち、打ちひしがれた人々、病に蝕まれた人々の痛みを背負う任につくことも、アッラーの最後の預言者にして人々への使徒となることも、人類に与えられた慈悲となることも、知りませんでした。慈悲は、ただ悲しみを味わい痛みを知ったものだけが知るです。この子には、産まれる前から、高貴で深淵な悲しみの涙が、糧となったのです。
日々が過ぎ、悲痛な涙も尽き、その瞳も乾きましたが、彼女の悲しみは、乾いたまま育つ植物のようでした。
日に日に悲しみは大きくなっていったのです。
不思議なことに、お腹の中の胎児を重いとは感じませんでした。逆に、空を飛べるかのように軽く感じました。もし悲しみが彼女を地に引きつけていなければ、人間の尺度には軽く得難いこの荷物、世界の主の高貴な重みをもって、彼女は最も幸せな女性となっていたでしょう。
出産の日が近づいてきました。
アブラハがその軍隊と共にマッカに迫っていました。
アブラハはアビシニア2の最も愚かな王でした。彼はアラビア半島を制服しカアバを攻撃するために、完全武装した大軍を準備していました。アブラハの軍隊には、巨大で凶暴な象の部隊があり、丁度今日の戦車のように使われていました。アブラハはそれまで負け知らずだったので、彼の横暴な軍隊が近づいているという知らせが来ると、マッカの民は恐怖にかられ、山へ逃げ出そうかと心配しました。
それから、小さな出来事が怒りました。
一頭の象が止まり、一歩も前に進もうとしなくなったのです。この象は軍隊の先頭だったので、軍全体が止まってしまいました。アブラハは尋ねました。
「何が起こったのだ!?」
司令官が答えました。
「この象が動こうとしないのです」
鞭で打って殴りつけ動かせ、と命令しましたが、象はまるで動こうとしませんでした。この象はよく分からない恐怖に囚われていて、立ちすくんで震え、叫びを上げました。恐怖がこの象から軍全体に伝わっていきました。
マッカの一人が尋ねました。
「アブラハとその軍から、誰がカアバを守るのだ」
アブドゥルムッタリブが答えました。
「これは神の家ではないのか。この家には、それを守る主がおられる」
地獄の小さな窓が開き、そこから黒い鳥たちが小さな乾いた粘土の石を持って現れました。一人の天使が鳥たちに言いました。
「アブラハの軍隊の上で止まれ。軍を滅ぼすのだ」
三日目がやって来ても、象はまだ叫び震え、動こうとしませんでした。黒い雲が遠くからやって来ました。雲が近づいてみると、それは鳥の集団で、太陽の光を遮るまででした。
鳥たちは持ってきた地獄の石を投げ始めました。この石は、この時代の部族たちに語り継がれることになりました。
軍は滅ぼされました。アブラハは敗走し、その死に場所まで、崩れ落ちた肉片が続いていました。暴君の軍は、風に弄ばれる土塊と化したのです。
家の主は、その聖なる家を、至高の知恵で守られました。
預言者(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)の誕生する日が近づいていました。
マッカが町とカアバが生き延びた喜びに沸く中、ワフブの娘アーミナは、ある夜夢を見ました。
彼女は砂漠の真ん中に一人で立っていて、彼女から偉大な光が出てきて、東から西まで照らし出し、天まで続いているのです。アーミナは目を覚ましましたが、夢の意味は分かりませんでした。
その数日後、象の年、ラビーゥ・ル=アウワル3十二日月曜日の未明、ワフブの娘アーミナは、父なき子アーダムの子孫イブラーヒームの息子イスマーイールの子孫アブドゥルムッタリブの息子アブドゥッラーの息子ムハンマドを産みました。
世は、乾きで滅びかけていました。愛への乾き、慈悲と公正への乾きです。アル=マスィーフの誕生から、およそ七百年が過ぎていました。キリスト教徒たちは愛の教えから遠のいていました。ユダヤ教徒はムーサーの教えを捨て去り、金の崇拝へと逆戻りしていました。この世の心が明らかに旱魃に襲われている時、東から突如として清らかな信仰の泉が吹き出し、世界の半分に水を与えました。この清らかな泉が地上で最も広大な乾ききった砂漠、アラビア砂漠から出たことは、最大の奇跡でしょう。
砂が地平線と出会う場所まで続いています。
マッカの天幕でのことです。
ある粗末な天幕で、父なき子が産まれました。この子が後に、世界を公正と愛と自由と真理により潤す任を負うことになるのです。
その誕生の場所から数歩のところでは、古き神の家の広場が偶像で埋め尽くされていました。イブラーヒームとイスマーイールが崇拝すべき唯一のアッラーのために建てたカアバの周りは、石や木の偶像によって一杯でした。このことは、アラブの知性が地に落ち、低下していることを示していました。
マッカから程遠いヤスリブ、つまりマディーナは、ユダヤ教徒たちで溢れていました。彼らはローマから逃れてそこに来て、狼のように最も実り多く商いの盛んな地に住み着き、アラブの弱さにつけ込み入植地を作り、自分たちに地を切り取っていました。
ユダヤの学者たちは、タウラーで商売をしていました。その数ページを隠したり見せたり、書き写したりして、ますます富を増やしていました。
この頃、ユダヤ教徒は金を崇拝し商業に長け、謀り事に長じており、アラブは石を崇拝し戦いに長け、詩に長じていました。
誕生の場から遠くのこと。
ローマは老いた鷹のようで、力を失い、弱者しか攻撃できなくなっていました。ローマ人たちは力を崇拝していました。
アラブの国々の北方から東は、火と水を崇拝するペルシャ人がいました。彼らの神殿では火がたかれ、人々がこれに拝跪していました。彼らの考えでは、サワ湖は聖なるものとみなされていました。一方、彼らの王ホスローは、大広間に座り人々に裁定を下し、その言葉は強力な力を持っていました。誰一人これについて議論せず、誰も逆らいませんでした。ペルシャはローマとギリシャを破り、地上で最も強力となっていました。その力にも関わらず、彼が崇拝していた火は、その力の愚かしさを暴きだしていました。火の前で力は服を脱ぎ捨て、真理なく裸になっていました。
地上のあらゆる場所で不正が育っていました。生は鬱蒼とした森となり、強者が弱者を傷めつけ、悪が善より広がっていました。知性は石ころや、心を支配する恐怖に傅いていました。
このような空気の中、マッカの天幕で、一人の子供が産まれました。
このアラブの子が産まれたその瞬間、ペルシャの神殿で拝まれている火が消えました。聖なるサワ湖は干上がりました。ホスローの宮殿では十四の天井桟敷が崩れ落ちました。シャイターンは心臓を引き裂かれるような痛みを覚えました。
これらすべては、世界の悪が負け去ることの始まりを象徴していました。人間知性の迷信の牢獄からの解放と、アッラーへの回帰です。
マッカで産まれたばかりの乳児が動きだし、その祖父の元へは孫が産まれたという知らせが発せられました。アブドゥルムッタリブは急いで駆けつけ、孫を抱き上げ、どう名前をつけようか考えながら、カアバの周りを回りました。夜の帳が降りた頃、彼にザムザムを掘るように命じた古き姿なき声が、再び彼の元を訪れました。そして、眠っている彼に囁いたのです。
「彼をムハンマド(誉め讃えられる者)と名付けなさい。天に住む者が彼を誉め讃え、地に住む者が彼を誉め讃えるのです」
次の日、クライシュ族の者が、アブドゥルムッタリブに尋ねました。
「孫をなんと名付けるのですか」
彼は言いました。
「アブドゥッラーの息子ムハンマドだ」
クライシュ族は彼に尋ねました。
「なぜ彼に祖先や始祖の名を付けないのですか」
アブドゥルムッタリブは、姿なき声の語ったことを言いました。
「天においてはアッラーが、地においては人々が、彼を誉め讃えるようになって欲しいのだ。人において最も価値があるのはアッラの讃えと賞賛であり、また人々の賞賛と彼らに感謝されることに、帰されるのだから」
父がこの世を去ってしまったこの偉大なる孤児は、まだ三ヶ月の乳児でした。彼の母は、彼を胸に抱きながら、高貴な子供たちに乳をやり育てる砂漠の乳母を求めていました4。この乳飲み子は貧しく、乳母に見捨てられてしまったのです。
彼と一緒に産まれたすべての子供たちが、乳を貰っていました。アブドゥッラーの子ムハンマドは、乳をやる者もなく、木の寝床で飢えて眠っていました。大いなる知恵が、この子が飢えた父なき子としてこの世を迎えるよう、望まれたのです。孤児としての苦しみ、飢えの苦しみを味わい、その後のすべてに耐えられるように。ハリーマ・ビント=アビー=ズアイブがやって来て、彼を眺めました。彼女は貧しい乳母で、ここ数年ますます苦境にあったところでした。
彼女は尋ねました。
「彼の父親は誰ですか」
「父は死にました」
「彼の祖父は裕福ですか」
「いえ、貧しいです」
ハリーマは一人考えました。
「ここ数年、わたしにはまるで財産がない。貧しい乳飲み子よ、お前がどんな財を持っていってしまうというのかい。来た時ほど貧しいまま帰るということもないだろう」
それから、彼女は彼の家族に言いました。
「この孤児を預かりましょう」
この孤児の乳飲み子に手を伸ばし抱いた時、ハリーマは、自分が歴史の最もひろき門から入っているということを分かっていませんでした。自分が抱いているのが、アーダムの末裔の長、アッラーの慈悲、人類の揺籠であるとは、知りませんでした。
アブドゥッラーの子ムハンマドを抱いて、ハリーマは家族の元に戻りました。
アラブの上流階級の習慣では、乳母が五年間育てることになっていました。
ハリーマが家族の元に戻るや、この世の富のすべてが花開いたようでした。乾ききっていた土地が緑で満たされ、干からびていたナツメヤシが実をつけました。アッラーは動物たちも祝福され、肥え太り何倍も乳を出すようになりました。
ハリーマは、この富が、この祝福された子と共にやって来たことを悟り、ますます彼を愛するようになりました。彼が五歳の時、アブドゥッラーの子ムハンマドに、開胸の出来事が起こります。
神聖なる意志が、忠実なる精霊ジブリールに命を下されました。アブドゥッラーの子ムハンマドの元に下り、神聖なる命によりその胸を開き、慈悲によりその心臓を洗い、光にてこれを乾かすように、と。この日シャイターンは、こう叫びました。
「もう彼の心臓を支配することはできない。これから彼の行いは、ただ高みにあり、墜落を知らないことになろう」
ジブリールがムハンマドの心臓を洗った後、天使たちが言いました。
「この子は、それまで人の達したことのない位階にたどり着き、その後も人はここに達することはないだろう」
開胸の出来事以来、少年の生活は変わりました。多くの時を、瞑想と沈黙で過ごすようになりました。
歳月が流れ、ハリーマの元での過ごす期間が終わり、ムハンマド(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)は母の元に戻りました。
母と日々を共にしましたが、その母の相貌には、彼の父を失った悲しみがはっきりと刻まれ、悲しみゆえの高貴さと透明さを帯びていました。母は、亡き彼の父の思い出を偲ぶため、ヤスリブにある墓を訪れようと考えました。マッカとヤスリブの距離は五百キロ異常あり、その間は生命なき過酷な砂漠でした。
この厳しい旅の後、アブドゥッラーの子ムハンマドは、マディーナの彼の叔父の元で数カ月を過ごし、それから母と共にマッカに戻りました。この帰りの途上で、母は病を患いました。病は重く、数日後に彼女は亡くなってしまいました。彼女は、六歳の子供アブドゥッラーの子ムハンマドを置いていってしまいました。彼は一人ぼっちになってしまいました。胎児のうちに父を亡くし、五年を過ごしてから母を失ったのです。
アッラーの使徒(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)は「汝の道とは何ぞ」と問われ、こう言いました。「知識が我が資本であり、知性が我が宗教の土台であり、愛が我が基礎であり、アッラーの唱念が我が友であり、悲しみが我が同志である」。
後に人々に喜びを解放を与えるべく、深い悲しみの川を味わったのです。
アブドゥッラーの子ムハンマドは、砂漠の真ん中で、愚かで酔った民、偶像崇拝者、酒の商人、詩人、兵士、部族の長らの間で、心を研ぎ澄まし、澄んだ情感をもって暮らしました。砂漠の空気は、曖昧なものをより曖昧に、明瞭なものをより明瞭にします。太陽の光が、茨と花を共に育むように。
アブドゥッラーの子ムハンマドは、その幼年時代を、ほとんどの時間物静かに過ごしました。成長するに連れ、ますます沈黙を増しました。誰かが話しかけた時でもないと、話すこともありませんでした。若者たちの遊びに加わらず、延々と続く砂を見つめるのを好みました。舌を動かさず、頭を働かせていたのです。幼年時代、彼の民が偶像を崇拝していることについて考えていました。彼は不思議に思いました。知性ある者たちが、話しも感じもしない石にどうして跪くのでしょうか。彼の遠い祖先イブラーヒームのように、その内奥深くに、偶像への強い軽侮を抱いていました。軽侮ゆえに、決して近づくこともありませんでした。ただ、彼の大いなる心は、その始祖イブラーヒームよりも大きな悲しみを抱いていました。人間知性が、石や金や統治者の権威に傅いているのが悲しかったのです。
人々の話に耳をすませ、生活上の物事や集団の状況をよく観察し、人々が些細なことで争っているのに気づきました。驚きは増し、悲しみは深まりました。
人々はやがて死ぬということを知らないのでしょうか。最後には悪をいや増すだけの争いを、なぜ起こすのでしょうか。
彼は歳を取るごとに、人生に対し禁欲的になっていきました。彼の噂はマッカ中に広まりました。まったく、彼は誰とも似るところがありませんでした。
食べている時に鳩が来ると、鳩に食べ物をやりました。
人々は、食べている時に犬が寄ってくると、犬と殴りつけていました。一方彼は、一切れをちぎって、犬や猫、子供や貧しい人々の分けていました。
ほとんどの夜は、他人に食べ物をあげてしまったせいで、ひもじくすごしました。
彼は貧しく、食べるためには働かなければなりませんでした。羊の世話をし、商売を営み、十三の時には叔父アブー=ターリブの隊商と共にシャームに旅をしました。そこで他の社会を見聞し、無知への驚きを深めました。
人々はどの場所どの時代でも相変わらずです。富を巡る諍いは絶えず、快楽を巡る争いに終わりはありません。
殴りあう人々を目にする度に、彼の悲しみは増し、心はやせ細り、ますます深く考えこむようになりました。
静かな侘しい海で、アブドゥッラーの子ムハンマドは、その白いテントを広げました。彼は真理と出会わなければなりませんでした。すべてのアッラーの預言者と使徒が、出会った真理に。
アブドゥッラーの子ムハンマドは、その偉大な本性から、主はお一人で他にない、ということを悟りました。その心は世界の主に傅きました。世界の主が、彼を人々に遣わす以前に。
青年時代のことです。当時マッカの青年たちは、飲み干す酒の盃、女性の前で読む詩を競っていました。アブドゥッラーの子ムハンマドは、大きな山で静かな洞窟を見つけていました。
彼の最も澄んだ時は、ヒラー山の洞窟で過ごす時でした。
その洞窟の中で、彼はその本性の深奥に沈潜していました。そしてその神秘の偉大さと、創造主の慈悲について思索していました。
アブドゥッラーの子ムハンマドは、ハディージャ結婚した時、二十五歳で、彼女は四十歳でした。彼女は商業で得た名声と財産を持つ女性でした。彼女は、彼が人々のうちで最も誠実で、最も忠実で、最も性格が寛大である、と聞いて、彼女の財産をもってシャームへ商売に出かけるよう、使いをやりました。彼が出かけて戻ってくると、素晴らしい利益を得ていました。彼は彼女の富にも美貌にも期待せず、寛大さと、高貴さと超然さをもって足るを知り、佇んでいました。ハディージャは彼に求婚し、彼は受け入れました。彼の叔父は、彼の結婚式でこう演説しました。
「まことムハンマドは、クライシュ族の若者と天秤にかければ、誇りと高貴さにおいて、また徳と知性において、彼に傾く。富において貧しくとも、まこと富は去りゆくもの。脱ぎ捨てることも戻すこともできる」
結婚は彼に、より多くの思索と黙考、崇拝の機会を与えました。
ラマダーン月には、毎年ヒラー山の洞窟にこもり、創造主について思索していました。
ラマダーン月のある日のことです。アブドゥッラーの子ムハンマドは、ヒラー山の洞窟に座り前を見つめていました。その時、アッラーがお創りになった姿をまとったジブリールを目にしたのです。
ムーサーが、アッラーがそれを通じて語りかけた火を前にして、震え恐れ逃げ出したように、アブドゥッラーの子ムハンマドも震え上がりました。ジブリールは彼を胸の中に抱え、こう命じました。
{読め 96-1}
{読め、創造なされる御方、あなたの主の御名において 96-1}
こうして、預言者(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)の人生の新たなる段階が始まりました。アッラーへの呼びかけを始めるや、これに反対する社会が立ちふさがりました。憎悪が彼を取り囲み、彼はただ愛と真理により身を守ったのです。
悲しみの年が、マッカを訪れました。
預言者の妻でありその安らぎであり、最初に彼を信じたハディージャが亡くなった年です。
この年にアブー=ターリブも亡くなりました。預言者の守護者であり、彼を迫害から守った人物です。
クライシュ族は経済的に包囲しようとし、マッカの民にムハンマドやその教友との売買を禁じ、飢えで死ぬか空腹の極みに達させようとしました。
ある日預言者(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)が礼拝の為にマスジドに出かけると、クライシュの不信仰者たちが土塊を彼の頭に投げつけ、一頭のラクダを殺して血で汚れたその腸を引き釣りだし、サジダしている彼の肩にそれを投げつけました。その知らせが娘のファーティマに届くと、彼女は急いで駆けつけ、サジダしている預言者の肩にあった汚れた腸を取り除き、父が彼女を守り庇護してきてくれたところで、父を守りました。娘に守られるような立場になったことで、預言者の心には深い悲しみが刻まれました。この預言者の心を、悲しみがあらゆる方面から取り囲みました。
預言者はマッカの民に絶望しました。
それから、サキーフ族の暮らしていたターイフへ赴くことを決めました。
預言者は自らに語りかけました。
この地の心が悪と偽りに凝り固まっているなら、サキーフ族の元へ出かけアッラーへと呼びかけよう。アッラーがわたしを一人にされているのだろう。この世とそこにあるものより良きことだ。
使徒は、マッカとターイフの距離が五十マイルにも及ぶと知っていながら、出発しました。この距離は、最も強いラクダや馬や男をもくじくものです。しかし預言者は、行きも帰りも徒歩で乗り切りました。
マッカから一人で出発し、友人アブー=バクルにも告げず、娘のファーマにも何も言いませんでした。
人々にアッラーへと呼びかけながら、家々や市場を十日間点々としましたが、人々は悪し様に応え、ひどい扱いをしました。
最後の日がやって来て、彼はマッカへと戻ることを決めました。
預言者はターイフで、彼の訪問を秘密にしてもらうよう、その民に願いました。マッカで彼に対する悪意や敵意が一層増すことにならないためです。ターイフの民は、この最後の頼みも断りました。
それだけではありません。人が人に為しうる限りの悪を為し、子供や愚か者、悪党や烏合の衆までが迫害し、少年たちは彼に石を投げてきました。
預言者は、子供や大人から石を投げつけられながら、ターイフを出ました。彼(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)は足に傷を負い、血を流していました。追手は彼を、ターイフの二人の金持ちの果樹園に逃げこむよう追い込みました。
預言者は座り、背を果樹園の壁に預け、足の血を拭い始めました。
子供たちや愚か者たちは、自分のしたことに有頂天になって、父たちの元に戻りました。預言者は天を見上げました。彼の悲しい瞳はその青さをさ迷い、主に祈りました。
「アッラーよ、まことわたしは、我が力の弱さ、策の乏しさ、人々の嘲りに苦しんでいます。あなたは最も慈悲深く、虐げられた者たちの主、我が主です。
誰にわたしをお預けになるのですか。わたしに顔をしかめる者より遠くでしょうか。その性質の敵となる者へでしょうか。あなたの助けこそ最も広きもの。闇を照らし、この世とあの世を正されるご尊顔の光の助けを求めます。どうか怒りを取り除かれてください。
ご満悦までご叱責下さい。あなたなくして力も威力もありません」
そして数日が過ぎました。
悲しみ背負った偉大な心は、祈りとジハードで時を過ごしました。
憎悪と頑迷の戦いが増すたびに、この心はジハードと慈悲を増しました。
この時のことです。
人々は使徒を見失ったようでした。天が介入し、イスラーゥ(夜の旅)とミアラージュ(昇天)の奇跡が起こったのです。
預言者(彼に祝福と平安あれ)はカアバの周りを回り、アッラーに祈っていました。
顔は青ざめ、目は涙を流していました。
彼と共にカアバを回っていたものはいませんでした。彼は一人きりでした。不信仰者たちと多神教徒たちが憎悪の眼差しを向ける中、彼はカアバを回り、祈っていたのです。
讃えある至高なるアッラーは、その下僕をご覧になりました。
人々が彼から離れ、無視し、彼の表す真理を憎むのをご覧になり、讃えある御方は彼に栄光と名誉を与え、尊重し重んじられ、苦しみを除き優しさを与えようと望まれました。
至高なるアッラーは忠実なる聖霊ジブリール(彼の上に平安あれ)に、その下僕ムハンマド(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)と共にハラームモスクからアクサーモスクまで旅し、それから彼を、主の偉大な奇跡を見せるべく、天に上げるよう命じられました。
気高くも貧しいマッカの家で、預言者(彼に祝福と平安あれ)は眠っていました。真夜中になり、静かなる沈黙に砂漠の上へ翼を広げ、深い平安の助けとなるよう命が下りました。沈黙は荘厳さの域にまで達しました。夜の鳥も驚き黙り、耳をすませました。砂漠の獣も静まり、その心を愛に震わせました。ザムザムの水は優しく音もなく流れました。風も唸りをやめ静かに吹き、自らも耳を澄ませました。
大地の心臓が慈悲に震え、ジブリールが砂漠に触れ、ウンム=ハーニー5の家に入りました。
ジブリール(彼の上に平安あれ)は立ち止まり、愛をもって預言者を見つめました。
預言者は目を覚まし、目を開いて、寝床から起き上がりました。
ジブリールは預言者に言いました。
「アッサラーム・アライクム、寛大なる預言者よ。アッラーが、存在の奇跡の一端を見るべく、お望みである」
ジブリールは進み、預言者も彼と共に行きました。
家から出ると、そこでブラークを目にしました。
鳥に似た被造物で、鷲のような翼がありました。
稲妻(バルク)から創られたゆえ、ブラークと名付けられました。ブラークは預言者に頭を下げ、彼とジブリールがまたがりました。ブラークが飛びました。光の矢のようにマッカの山々を越えて飛び出し、砂漠の砂を越え、北を目指しました。
ジブリールがシナイ山を示すと、ブラークが止まりました。
ジブリールは言いました。
「あの祝福された盆地で、讃えある至高なるアッラーはムーサー(彼の上に平安あれ)に語りかけられたのだ」
ブラークは再び飛び始め、聖なる家にたどり着きました。
預言者は、この光よりも百万倍速く、光になることもない鳥から降りました。
預言者はジブリールと共に進み、聖なる家に入りました。
そこでは、すべてのアッラーの預言者たちが、彼を待っていました。
天使たちが牛乳の入った器と酒の入った器を差し出したので、牛乳を選び飲みました。
彼は、あなたはフィトラ(自然の道)へと選ばれた、あなたのウンマも人らへと選ばれるだろう、と言われました。
預言者たちは互いに見回し、言いました。
「誰が礼拝のイマームを務めるのだ? アーダムかヌーフか、イブラーヒームかムーサーか」
ジブリール(彼の上に平安あれ)が、ムハンマドに言いました。
「アッラーがあなたに、預言者たちと礼拝するよう命じられている」
使徒は預言者たちと共に立ち、礼拝しました。まだムスリムたちの礼拝は義務となっていませんでした。アッラーは彼に預言者の礼拝すべてを教えられました。彼がクルアーンを読むと、彼らは涙を流し、彼の預言者への恭順に涙しました。預言者らがイマームの後ろでサジダすると、木々や星々もサジダしました。
礼拝が終わると、預言者たちが姿を消しました。すべての預言者は、それぞれが暮らしている天へと帰って行きました。預言者はジブリールと共にマスジドを出て、ブラークに乗りました。
光の矢のように高く高く駆け上がり、第一天では預言者アーダムを見ました。
すると世界の主が呼びかけました。
「我が下僕をもっと高くへ」
神の下僕たるアブドゥッラーの子ムハンマドは、昇りました。
何層もの天を越え、物質的な場を越え、霊的な場を越えました。神の御前に出る心構えはできていましたが、ブラークよりも速くますます霊的に昇り上がっていきました。第一天でアーダム(彼の上に平安あれ)の場を越えました。第二天でヤヒヤーとイーサー(彼らの上に平安あれ)の場を越えると、威力の主が呼びかけられました。
「我が下僕をもっと高くへ」
アッラーの下僕にしてその預言者は、ますます昇りました。第三天、第四天、第五天、第六天、第七天を越え、物質的にも、霊的にも、本質的にも、真的にも、現実的にも、知的にも存在すべてを越え、さらに昇りました。
この世の月も通り過ぎ、太陽も通り過ぎ、星々も通り過ぎ、その上の七つの天を昇り、その上の百万の天と光年を昇り、なお昇りました。とうとう最後のスィドラ(ロトスの木)に辿りつきました。
そこは、至高なるアッラーが最後のスィドラと名づけられた聖なる場所でした。そこで預言者は、終の住処の園を目にしました。
天国と地獄の主が呼びかけました。
「我が下僕をもっと高くへ」
神の下僕たるアブドゥッラーの子ムハンマド(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)は、さらに昇りました。後ろにジブリールが見えました。彼はその場でアッラーを讃えていました。
今やジブリールは、地上で見たような人間の姿をしていませんでした。忠実なる聖霊(彼の上に平安あれ)は、アッラーのお創りになった天使の姿に戻っていました。預言者は、その目と心でジブリールとその偉大さを見つめました。
{(かれの)視線は吸い寄せられ、また(不躾に)度を過ごすこともない 53-17}
預言者はまたさらに昇っていきました。
天の山々と地の間、現世の慈悲と来世の慈愛の間まで、預言者は昇りました。
そこで預言者は創造主の御前で止まり、耳を澄ませました。祝福される至高なるアッラーは、ムハンマドに仰いました。
{本当にアッラーと天使たちは、聖預言者を祝福する 33-56}
預言者は主への恭順を示しサジダし、喜びに涙しました。心の悲しみは永遠に去り、永遠の喜びの小鳥が彼の中に住みました。
至高なるアッラーは預言者に命じ、礼拝を義務とされました。
天と地の光が照らすこの場所で、礼拝の命が下されたのです。
「ムハンマドよ。汝は一日に五回礼拝することだろう。汝のウンマにも一日五回の礼拝を命ずるだろう。彼らには五十回の礼拝の報奨がある」
これは最大の恵みです。
アッラーが人々に与えた最大の恵みです。その御前に一日五回立つことを許されたのです。一日五回、アッラーとの対話を許されたのです。一日五回、アッラーへ語りかけることを許されたのです。
栄光と畏れと慈悲の入り交じった状況でした。預言者は言葉に尽くしがたい、人間の理解を超えたものを目にしました。
讃えある至高なるアッラーが、啓示ではなく直接に、仲介なしに語りかけられたのです。
{そしてしもべ(ムハンマド)に、かれの啓示を告げた/心は自分が見たことを偽らない 53-10 – 53-11}
この名誉と賛美の後、預言者はブラークの元へ戻り、これに乗り、地上へと飛び立ち戻りました。
戻ってみると、布団はまだ冷えていませんでした。
目を閉じ、眠りました。
彼の心は、喜びに満ちていました。
彼の胸は心満たす平安で一杯になり、心地良くアッラーの元に消え行きました。
数年が経ちました。
アーイシャは、館の外で大声で遊んでいる子供たちに言いました。
「静かにして、アッラーの使徒が病気でいらっしゃるのよ」
子供たちは黙り、突然の恐怖を感じました。ここ数日、アッラーの使徒が以前のように彼らと遊んでくれていないのに気づいたのです。
以前は微笑み黄金のように顔を輝かせていた人が、青ざめ変わった様子なのに気づいたのです。
最後の預言者が家に入ると、その足はもう彼を支えきれないほどでした。
アル=ファドル・ブン=アッバースとアリー・ブン=アビー=ターリブの腕に頼りながら家に入ると、疲れと病に冒されていることを感じました。
彼の高貴な背中が背負ってきた巨大な重みは、山よりも重いものでした。彼は一人の人間です。しかし彼は、至高なるアッラーがその創造の始めに申し付けた忠実さを、守ってきたのです。
{本当にわれは、諸天と大地と山々に信託を申しつけた。だがそれらはそれを、担うことを辞退し、且つそれに就いて恐れた 33-72}
彼はこれに耐え、完全にやってのけたのです。
アッラーの啓示への忠実さ、偏見や迷信から人間理性を浄化することの忠実さ、唯一なるアッラーへ傅くという忠実さ。
アーイシャは彼を木のベッドに寝かせ、手を彼の額にあてました。
彼の額は高熱で熱くなっていました。アーイシャは瞳に涙をためながら言いました。
「父よりも母よりも大切なアッラーの使徒様、苦しくはないですか?」
預言者は彼女を安心させるために微笑み、それから眠りに落ちました。
人生で見た風景が、預言者の記憶の中で、流れていきます。
彼の前を、思い出が列のように流れていきます。
ヒラー山の洞窟で、啓示の下った時のこと。
その日、深淵な畏れと深い平安を感じたのでした。それから風景が変わり、憎悪の嵐が吹き荒れ、風が砂と風説と嫌疑を運び、彼の顔に叩きつけました。
砂漠の波と孤独と不幸の嵐の中で、心に悲しみを抱き、唇に笑みを浮かべていたのです。
「人々よ、アッラー以外に神はない」
かれはそう訴えました。
簡単な言葉でしたが、世は動乱し、生を埋め尽くしていた多くの偶像は動揺し、闇と憎しみを見にまとい、彼の方に向かってきました。
指導者たち、統治者たち、富と金、有力な偶像、シャイターンの憎悪、多くの偽善者たち。これらすべてが、「アッラー以外に神はない」と言った瞬間から、預言者の敵となりました。
眠りから目を覚ますと、預言者が最初に見たのは、彼を愛しげに見つめるアーイシャの顔でした。
預言者はまどろみに戻り、また思い出の映像が流れました。
追放され包囲されている自分が見えました。血を分けた部族の者たち皆が、彼を殺そうとしていました。
アブー=ターリブの息子に、彼のベッドで眠るよう言っている自分が見えました6。
真夜中のことです。彼の家の回りには、武器を持った危険な兵たちがいます。地に身を屈め砂を一掬いして彼らに投げると、アッラーが彼らを眠らせ、外に出ても彼らは気づかないままでした。長く厳しいヒジュラの時が日々がやって来ました。
太陽は頭のすぐ上にあり、死にそうな暑さで、酷い頭痛がしました。しかしこの時の頭痛は、覚醒と、より酷く厳しい眠りとの間にあるものでした。
不信仰者たちの追跡が始まります。
アブー=バクルと一緒に小さな洞窟に入っていきます。武器も持っていません。彼らの背後に武器を持った多神教徒が迫ります。するとアッラーが白い鳩と蜘蛛を洞窟に送られました。鳩と蜘蛛の糸が、預言者の武器となりました。
鳩は卵を産み、蜘蛛は巣を張ったのです。
多神教徒たちがやってきて洞窟を見ると、こう考えました。誰もいない洞窟だ。そして去って行ったのです。
柔らかい蜘蛛の巣を信じることが、多神教徒の研ぎ澄まされた固い剣に勝ったのです。脆い鳩の卵が、不信仰者の鋼の盾に勝ったのです。
預言者とその教友は生き延びました。
映像は流れていきます。預言者は、ヒジュラの後にマディーナに入る自分を見ました。アンサールが最大の歓迎で迎えます。一人で訪れる者は助け、恐れる者は守り、飢える者には食べものを与え、追い出された者は纏うものを与えました。このマディーナで、イスラームが育まれ始めました。
はじめに国を担う人が育まれ、そして国が育まれました。
始めに人が、次に国が。
場面が変わり、公正にして慈悲深き使徒は、剣を携え鎧を着ざるを得なくなりました。信じる者が信じるままにいられる権利を守るべく、力で彼らを助けるために。
多神教徒と信仰者の戦いが始まりました。不信仰者と多神教徒の数は多く、信じる者は少数派でした。戦いの粉塵が巻き上がり、砂と血と飛び交う矢が混じり、死の雲が湧き、恐怖の鳥が舞い降り、血が流されました。フナインの戦いで預言者は歯を折り、アッラーを信じる権利のために、彼は頭に傷を負い、血を流しました。
アンサールは困難な時に彼を助け、共に立ち、共に戦いました。
戦いが終わり戦利品が得られると、アッラーの使徒はそれを分け、それをアンサールを除く人々に与えました。アンサールは、アッラーの使徒が彼らを等閑にしているように感じ、残念に思いました。そこでアッラーの使徒は彼らを集め、こう語りました。
「わたしは、イスラームを愛するよう、彼らに与えたのだ。片やアンサールの民よ、汝らには信仰を残した。信じる者は、信仰の代価を現世で受けるのではない。アンサールの民よ、人々が家畜や貴品や財と共に帰り、汝らがアッラーの使徒と共に帰ることに満ち足りないのか。人々がある道を行き、アンサールがまた別の道を行くなら、わたしはアンサールの道を行く。ヒジュラしたのだから、わたしもまたアンサールの者だ。
アッラーよ、アンサールに、アンサールの子らに、アンサールの子の子らを慈しみたまえ」
アンサールは涙で顎鬚を濡らし、我らが主アッラーとその使徒に満ち足りることを誓います、と言い、各々去って行きました。
預言者は、アーイシャが隠れ泣く声で目を覚ましました。
目を開き彼女の顔を見ると、頭痛と熱と痛みに抗い、彼女を安心させるために微笑み、目を閉じ眠りに戻りました。
彼の前を、悪辣な軍との長い戦いの場面が流れていきます。
マッカに入城した過酷なジハードの終わりに、自分がいるのが見えました。
その日は荘厳な日で、ムスリムたちの軍はマッカの山から、なにものもとめおかない流れのように下って行きました。
武装した一万もの信仰者が、マッカに下って行きました。部隊の後にも部隊が続きました。
小隊に小隊が続き、弓の部隊、剣の部隊、騎馬隊、歩兵、そしてアッラーの使徒がその緑の部隊と共に通りました。アンサールもムハージルーンもいました。彼らは目以外見えず、身体の他の部分は鎧と武器で覆われていました。
真理の剣が輝いていました。
マッカに入城したこの大軍の真ん中で、預言者(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)はラクダに乗っており、アッラーへ恭順し頭を垂れ、乗っているラクダの背に付きそうな程でした。この日、カアバから偶像が一層されました。
ハラームモスクで、祝福される至高なるアッラーの御言葉が声高に詠まれました。
唯一のアッラーが崇拝される場となり、この古き家にその栄光が戻りました。
預言者が目を覚ますと、部屋に一人でした。
その身体は熱と痛みで燃えるようでした。アーイシャを呼び、冷やすための水を沢山持ってくるよう頼みました。
信徒らの母たち、預言者の妻たちが来て、アッラーの使徒の身体に、彼が満足し熱が少し収まるまで水をかけました。
預言者の心は考えました。何か人々に言い残したことはないか、と。
すべてを伝え、すべてを教え、手にしたものが二度と迷うことのない書を、もう残しています。使徒は少し眠りました。
別れの巡礼をしている自分が見えました。
見えざる声が、預言者(彼の上にアッラーの祝福と平安あれ)に、現世で過ごす時が終わりに近づいていることを告げました。
ムアーズ・ブン=ジャバルを呼び、いかに人々にアッラーへと呼びかけるか、いかに宗教を教えるか教え、それから教えを残すため彼と共にマディーナの外に出かけました。ムアーズはラクダに乗り、アッラーの使徒はその横を歩きながら、彼と話し、教えを与えました。
「最も好ましい人々とは、誰であれどこでであれ、敬虔な者たちだ」
預言者はすべての人に慈悲深く、兄弟愛と謙遜の最良の手本でした。
クルアーンによりムスリムたちに裁定を下しましたが、統治者や王、あるいは議長のように振舞うことは、拒んでいました。彼は教友たちに言っています。
「まことにわたしは、アッラーの下僕である。アッラーの下僕にしてその使徒と呼びなさい」
教友たちの前に出ると、彼らは敬意を表して立つのですが、立ち上がらないよう命じました。教友や子弟に会いに出た時は、一番最後に座りました。教友に混ざって共に語り合い、彼らの子供たちと遊び、部屋で一緒にくつろぎ、大きな誘いにも小さな呼びかけにも応え、町外れの病人を訪ね、謝罪する者の弁明に耳を貸し、人に会えばサラームの挨拶から始め、教友に会えば握手を交わしました。礼拝している時に人が訪ねて来た時は、礼拝を簡単に済ませて用件を尋ね、用件が済んでから礼拝に戻りました。彼こそ最も笑顔絶やさない者で、最も心健やかなる者でした。身の回りのことは自分で行い、家に帰れば家族の世話をしました。服を自分で洗濯し干し、羊の乳を絞り、靴を自分で直し、ラクダに水をやり、召使たちと食事し、弱者や不幸な者、哀れな者、悲しんでいる者の用件に応えました。
心の健やかさと繊細さは、礼拝の間、子女たちが彼と遊ぶに任せておく程でした。彼の慈悲は人間だけでなく、動物や鳥たち、木々にまで及びました。寒さから逃れてきた猫に、自ら立ち上がって扉を開いてやりました。自分の手で動物たちに餌をやり、水をやり、慈しみ、病気の犬の看病に自ら立ち、自分の服の袖で馬を拭ってやり、木を切ることもありませんでした。ムスリムの軍には、新地を開きイスラームの公正を広めるにあたり、子供と老人、女は殺さず、木を切らず、家を壊さないよう命じました。
私財を他人のために投じました。
自分は食べずに夜を明かして、子供や貧者に食べさせました。
彼は、何事も明日に先延ばしすることがありませんでした。その栄光の絶頂で亡くなった時、彼の鎧は家族の食べ物を買うためにユダヤ人のところに質に入れられていました。
預言者がその目を開きました。
ジブリールがその頭の脇に立っているのを見つけました。
ジブリールが言いました。
「あなたに祝福と平安あれ、アッラーの使徒よ。死の天使があなたについて暇乞いしている。あなた以前に、人間について許しを乞うたことはないし、あなた以後に、人間について許しを乞うことはないだろう。まことアッラーは、現世の王権と永正か、彼のご尊顔を拝するか、選ばせられた」
ムハンマドは言いました。
「いと高き者のそばへ」
ジブリールは死の天使に場所を開けました。
死の天使が翼を畳み、礼をしながら、預言者の部屋に入りました。