言葉の言葉

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(訳注:本章タイトル「言葉の言葉」は筆者の造語だが、ニュアンスとしては、伝言ゲームのように伝えられていくうちに意味がずれていくようなイメージがある。言葉が対象を表象代理するものだとすると、「言葉の言葉」は代理の代理で、そうやっているうちに段々意味がおかしくなってくる、というようなニュアンス)

 前章のテーマには、言葉とそれが象徴するものとの距離について考えさせられた。この距離というのは、至って単純な言葉からして明らかだ。誰かが「椅子」と言うと、聞いたものの心にはその人の知っている椅子のイメージが浮かぶ。ある人は王座を思い浮かべ、ある人はゴージャスな大きい革張りの椅子、ある人は孤児院の椅子、ある人は権力の椅子、ある人はデッキチェアを思い浮かべる。それぞれにそれぞれの椅子があり、心がある。
 (まだこれは二冊目の本だし、愚痴をこぼす気は全然ないのだけれど)物書きのような稼業の難しさは、何か一言書くたびに、聞いている人や読んでいる人に違った形で届いてしまう、ということだ。そもそも、多くの言葉を使って書いているその当人も、その言葉たちを使って意味や考えを伝えようとしているのだ。魂は感じているけれど、舌はがなんと言うか分からないその意味を。表現する方法を探し求めて、時には満足行く方法が見つかるし、時には満足いかない。また時には、書き手には十分に思えても、読者にはまるで十分ではない。また時には、選んだ言葉が大いに考えの値打ちを高め、思ってもいなかったところに届く。どれもがあり得る。
 もちろん、この困難にぶつかるのは物書きばかりではないが、この落とし穴に一番よくあうのは物書きだろう。物書きの書いたものは記録され残り、永遠に賛否両論の意見を受けるからだ。加えて、その言葉は多くの人に影響を与える。政治家や宗教家、テレビやラジオのように。
 書いたものの影響やらといったことはおいたとしても、この世で一番難しいことは適切な言葉を口にすることだと、僕は思っている。適切な言葉は、窮地から救ってくれるかもしれないし、お金や職を手に入れさせてくれるかもしれないし、人を好きにならせたり、嫌いにならせたりもする。その言葉で天に昇るほど素敵にも見えるし、地の底に落ちるかもしれない。ただ適切な言葉というだけで。それをどう口にするのか。単に口にするおのではない。自分の考えを翻訳し、自分の魂を文字を持つ言葉にいかに翻訳するか。どう意図を伝えるか。ある人を怒らせてしまいそうな簡単な一言を、怒らせないようにどう伝えるか。分かりきったことだと思い込んでいる人に、どうやって考えさせるか。毎日何百回もこうした問いに答えようとして、何百回も成功し、何百回も失敗する。適切な言葉を求めて壁に頭を叩きつける人たちもいるし、一秒も考えずに酷い言葉をぶつけてくる人もいる。
 忘れないで欲しいが、ことの難しさは単に適切な言葉を見つけることに留まらない。まだだ。まだそれから、適切な言葉を適切な方法で、適切な意図をもって、適切な状況で、適切な時に伝える。それで適切と思われる効果を出して、やっと適切ということになるのだ。
 また説明しようとするものの性質も、大いに影響する。「お茶を一つお願い」というなら簡単だが、「心がバラバラに張り裂けそうだ」というのは簡単ではない。聞いている方が言う方より仕事が多い。この場合は想像しないといけないし、言葉を耳から心に届け、「バラバラに張り裂け」とはいかなるものか、理解しないといけない。心が答えを出してくれたとしても、それが言った人が伝えようとしたこと似ているかどうかは、アッラーのみぞ知るところだ。
 もちろんこの言葉の不足という問題は、読み手や話し手の言葉の強さ、あるいは弱さに大いに依っている。言語力はもちろんのこと、考えや理解といったことは、いつでも言語より複雑だ。考えというのは言語に容易に逆らうものだ。にも関わらず、奇妙なことに、考えることは言語なしではいられない。絵や映像や写真や彫像や音楽も、考えを表現できるかもしれない。しかし言語以上に巧みに、考えを説明し分析する力をもった方法はない。言語が考えを抑えつけ窒息しそうにさせているのは、出口も解決策もない危機に陥った結婚のようなもので、それでも結婚生活を続けないといけない。言語なしには、考えは捕らえられたままで、十全な魅力をもって日の当たるところに表に表れることはないし、考えることがなければ、言語は虚しくくだらなく、無意味になる。
 この不健全な関係という問題の末に、レッテル貼りの問題に至りつく。人がある性質で他人を表したがるのは、大方において、それでお終いにしたいからだ。レッテルを貼っておけば、それで取り扱いできるし、把握できる(当人は把握されたくなかったとしても)。サルトルの場合のように、把握されたくなかったとしても、「把握されたくない人」ということで把握されてしまう。レッテルがある、実存主義者と呼ぼう、という具合だ。サルトルは降参して「分かった分かった、わたしは実存主義者だ」と言った。サルトルがレッテルに降参するくらいなのだから、他の人たちがどれほどレッテル貼りや名付けの軍門に下っていることか。
 それから、僕にとって恐ろしい考えがある。こういう人たちが、サルトルに看板を掲げておくよう強制するのは、一体どうしてなのか。もし本当にその人を理解したくて、その考えを分かりたくて、これと関わりたいと思っているなら(その言葉を海に投げ込むことになるのだとしても)、名前が何だというのだ。言いたいのは、問題は、名づけたりレッテルを貼りたがるということよりはむしろ、その背後にある意図と、当たり前ながら、それが引き起こす結果だ、ということだ。
 外からは聞いているように見えても、その人のレッテルについて考えている人は、聞いてなどいないのだ。(もちろん一時的にではあるが)話し手に降参することなく、本当に人の話を聞き、その言葉を心に取り入れることができるとは、僕は思わない。理解するためには、その考えに対し降参しなければならない。外から観察しているだけでは、決して届かない。少なくとも、その考えの主が望んでいるようには、届くことがない。
 レッテル貼りへの嫌悪とこれに対する闘争の呼びかけとして、僕は個人的に、みなさんに約束したい。投げかけられる総てを、耳を開き、心はもっと開き、(可能な限り)裁定を下したりレッテルを貼ったりしないよう心がけ、よく聞くようにすることを。
 もちろん、その考えを拒みもするし、戦争のように抵抗もする。またもちろん、他の考えを打ちたてもするし、やって来る考えに対し総力をもって防衛もする。それでも僕のスローガンは、常にこの通りだ。
 僕が正しいと「思う」すべては、間違っている可能性のある正しさだ。
 僕が間違っていると「思う」すべては、正しい可能性のある間違いだ。

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