終わりなき歓び

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 まず最初に、今日起こったできごとをお話して、それからその件について語ろうと思う。
 この話を書く四時間ほど前、この本の原稿は三分の一かそれより少し多いくらいになっていた(順番を入れ替える章も多いが、今はたまたま書いた通りの順番になっていた)。僕は毎日、仕事の終わりにファイルをコピーして、次の日はそのファイルで始める習慣になっている。問題は、これをやるのは、もう今日は何も書けないし終わりにしよう、と決める時だということだ。しかしまだ決めかねていて、まだ何か浮かんでくるかもしれないという希望があると、あっちの本をちょっと読んで、こっちの本をちょっと読んで、何かちょっと食べて、ちょっと飲んで、つまらない映画をちょっと見て(この物語の映画が最後には良くなるといいが)、それから天井を見つめたり、などなどと、恐ろしく時間を無駄にすることになる。こんな状態になると何も書けないので、とりあえず前に書いたものを読みなおして推敲したりして時間を使う(推敲の方が書くより難しいものだ)。それでもう何もなくて、今日の仕事はお終い、とすると、その日はバックアップを取らない。もちろん、これで何が起きたか想像がついただろう。今日でおよそ五日ほど書いたもののコピーを取っていなかったのだけれど、推敲は沢山していた(何を推敲したかを思い出すのはすごく難しい)。そして作業中に、コンピュータで何かエラーが発生して、ファイルが壊れて開けなくなった。なんとかなると思って頑張ったけれど、どうにもならなかった。IT系で働いている友達に、何とかできないか尋ねた。ファイルを送ってくれ、なんとかしてみる、と言うので、送った。もう一人の友人にも同じように話して、彼にもファイルを送った。
 しばらくして友人その1が「本当にごめん、どうしようもない」と言ってきた。僕は感情を抑えて(もし消えたのが二行くらいだったら泣いていただろうけれど)泣きわめくでもなく、まだ希望はある、と自分に言い聞かせた。それからまたしばらくして、電話が鳴った。希望を一身に背負った友人その2の名前が表示された。心が震えた。彼もまた運がなかったと言ってくるんじゃないかとビクビクしながら出ると、ファイルが開けたので送る、とのことだった。大喜びし家族で大騒ぎになり、この歓びを与えてくれた我が最愛の友、純真なる真の友人、偉大なるアフマド・ガービルに最大の感謝を捧げた。
 アフマドが送ってくれたファイルを開くと、きちんと開けたが、すべてが逆さまになっていた(単語の中の文字の順序も逆さま、文の中の単語の順序も逆さま、段落の中の文の順序も逆さまで、しかも常にそうというわけではなかった)。まあいい、頑張れば読めるしまた書ける。しかし実際にやってみると、まったく無理だった。散々何とかしようとした挙句、諦めた。奇妙だったのは、最初の時ほど絶望していなかったことだ。最初に失われたのと、まったく同じものが失われたのに。
 この話はハッピーエンドで、その後非常に簡単な方法をやってみたところ、一発で素晴らしく解決した。それでひとしきり喜んだ後、一つ書いておきたいことがある。
 僕の身に起こった奇妙なことは、「終わりなき歓び」というものだ。本物の歓びというものは(その理由がいかに些細なものであっても)、心に消えることのない跡を残す。歓びの原因が消え去っても、この跡は残る。永遠の痕跡ではないかもしれないが、もしかすると永遠にすらなるかもしれないものだ。
 悲しみもまた、しばしば同じような効果をもたらす。でも、今は悲しみのことは置いておこう。永遠に消えることなき歓びについて考えよう。
 本を閉じて、それについてちょっと考えてみて欲しい。めでたき案なるかな。では続けよう。
 皆さんにも僕にも、多くの歓びがあるように。終わることなき歓びが。