『聖書アラビア起源説』カマール・サリービー 広河隆一訳 旧約聖書とクルアーン

4794203330 聖書アラビア起源説
カマール・サリービー Kamal Suleiman Salibi كمال سليمان الصليبي 広河隆一 矢島三枝子 訳
草思社 1988-12

 旧約聖書の物語の舞台がパレスチナではなく、アラビア半島西部であった、という、驚天動地の説が、本書『聖書アラビア起源説』のテーマ。当然でしょうが、欧米ではセンセーションを巻き起こし、ベストセラーになったそうです。翻訳は『パレスチナ』をご紹介したジャーナリストの広河隆一氏。
 「トンデモ本」かと言うと、そうではなく、地名の厳密な考証に基づいたかなり説得力のある論です。セム系の言語に馴染みがあれば、多少楽になりますが、旧約聖書の知識も相応に持ち合わせないと、なかなかついていけません。では、面白くないかというと、これらの知識が不十分だとしても、相当にエキサイティングです。少なくともわたしには、最近で最大のヒット、と言ってよいくらい楽しめる一冊でした。索引も充実しているので、ざっと通読した後、あちこち立ち戻って読み返しています。
 本書の内容が真実である確率は、かなり高いのではないかと思います。
 ヘブライ語聖書の解釈は、既に古典ヘブライ後が使用されなくなり、アラム語の時代になってからのもの。その為、地名のみならず多くの箇所で誤読があり、しかもかなり早い段階でこの解釈が定着し、揺ぎ無くなってしまった可能性があるからです。
 近代以降、考古学的考証に基づく歴史学が盛んになったわけですが、聖書の史的解釈という仕事は、対象が対象だけに、他の問題と比較し既成概念に意を唱える際の障壁が大きいです。元より、現在の「世界史」自体が、聖書的世界観に根ざしたヨーロッパ的視点を元に形成されていったものです。旧約の舞台をパレスチナとする考証・考古学的証拠は極めて乏しく(モーセが脱出したというエジプトにも痕跡がない)、あってもこじつけのようなものばかりですが、強い思いが「パレスチナこそが約束の地」というファンタジーを支えてきたのでしょう。それゆえ、他の分野よりむしろ、びっくりするような基本的なところで間違えていた(気づいても指摘できない)、という結末である確率は高いはずです。
 本書については、明夜航記:『聖書アラビア起源説』-非信徒の聖書学Ⅱ⑪に大変わかりやすい要約がありますので、是非こちらも参照してみてください。

 本書から考えさせられることは沢山ありますが、やはり取り上げたいのは、クルアーンとの関係。
 クルアーンは聖書に比べて物語的要素が圧倒的に少ないですが、その物語的部分には、聖書とクロスオーバーする記述がかなりあります。その内容には、聖書と食い違う部分もあるのですが、もしかするとクルアーンの方が「正しい」のかもしれません。
 クルアーンは聖書と異なり、イスラーム創始後、比較的早い段階でテクストとしてまとめられています1。しかも記述言語であるフォスハーは、現在でもアラブ世界で共通の言語です。もちろんダイグロシアという問題はあり、同じフォスハーでもクルアーンの時代と現代標準アラビア語とでは、結構違いがあります。それでも、ニュースや子供向け番組は普通にフォスハーで放送されていて、読み書きのできる人間なら、最低でも理解はできます。それも「クルアーンは翻訳禁止」という括りがあったからこそ成り立ったのでしょうが、とにかく聖書解釈などより圧倒的に近い距離に原テクストがあるのです。
 本書中でも、クルアーンがトーラー再解釈の一ガイドとなり、旧約エピソードの単なる焼き直しではないことが指摘されています。

 たとえば、聖書にアラビア半島西部の山の名をあげた箇所があるとする。するとコーランでは、その山についての言及はないものの、かわりに同じ地域の渓谷や町、その他の場所のことが述べられている。聖書によれば(出エジプト記3章1節~)、モーセはホレブ山(ḥrb)の炎の柴から出てきたヤハウェの天使によって呼びかけられた、とある。一方、コーランによれば(20章12節、79章16節)、その神のモーセへの呼びかけは、トゥワー(ṭw)の「聖谷」で起こったとされている。これまで聖書のホレブ山は、シナイにあるものとされてきた。しかし、そこにはそれに相当する致命は見当たらない。学者たちは、柴は火に「燃えているのに、その柴はなくならなかった」とあることから、これは火山のことだと解釈している。しかし、シナイ地方には、火山活動の跡はどこにもない。そのため、研究者のなかには、ホレブ山の位置をシナイから一転して、北ヒジャーズの火山地帯に求めた者もいたが、これも結果としては徒労に終わっている。
 しかし、コーランは正確にホレブ山の位置を告げている。それは、今日ジャバル・ハーディと呼ばれている場所で、アシールの沿岸地帯に孤峰としてそびえる山である。このジャバル・ハーディーには、今なおティワーという名の村が残っている。またその近くのワーディ・バカラ渓谷―これは、コーラン中のモーセに関する箇所では、「聖谷」としてあらわれている―の近くを流れる一支流も、かつてはティワーと呼ばれていた。さらにこの同じ流域には、ハーリブという名の村が今も残っている。このためこの村のはずれにあるジャバル・ハーディが、ホレブ山という名をつけられることになったにちがいない。また、問題のこの地方の全域が溶岩層からなっており、かつて火山活動があったことがうかがえるのである。
 コーランにみられる聖書の内容に対応した話は、聖書の素材をたんに、さまざまな形で繰り返し表しているだけだというのが、今日の学者たちの通説となっている。しかし私の考えでは、ヘブライ語聖書に対応するコーランの内容は、アラビア半島西部の歴史的過去についての独自の記述であり、またそのように取り扱わねばならないものである。

 クルアーンに登場する地名はどうでしょうか。
 例えばエジプト。「エジプトمصر」という単語は、クルアーンに四箇所登場しています(五箇所とも言えるが、これについては後述)。

Yunus, Chapter #10, Verse #87
وأوحينا إلى موسى وأخيه أن تبوءا لقومكما بمصر بيوتا واجعلوا بيوتكم قبلة وأقيموا الصلوة وبشر المؤمنين
われはムーサーとその兄弟に啓示して言った。「あなたがたの民のためエジプトに住まいを定め,あなたがたの家を礼拝の場となし,礼拝の務めを守れ。また信者たちに吉報を伝えなさい。」

Yusuf, Chapter #12, Verse #21
وقال الذي اشتريه من مصر لامرأته أكرمي مثويه عسى أن ينفعنا أو نتخذه ولدا وكذلك مكنا ليوسف في الأرض ولنعلمه من تأويل الأحاديث والله غالب على أمره ولكن أكثر الناس لا يعلمون
かれを買ったエジプトの者は,その妻に言った。「優しくかれを待遇しなさい。多分かれはわたしたちを益することになろう。それとも養子に取り立ててもよい。」こうしてわれはユースフをこの国に落ち着かせ,出来事(事象)の意味のとり方をかれに教えることにした。凡そアッラーは御自分の思うところに十分な力を御持ちになられる。だが人びとの多くは知らない。

Yusuf, Chapter #12, Verse #99
فلما دخلوا على يوسف ءاوى إليه أبويه وقال ادخلوا مصر إن شاء الله ءامنين
やがてかれらがユースフの許に来た時,かれは両親を親しく迎えて言った。「もしアッラーが御望みなら,安らかにエジプトに御入りなさい。」

Az-Zukhruf, Chapter #43, Verse #51
ونادى فرعون في قومه قال يقوم أليس لي ملك مصر وهذه الأنهر تجري من تحتي أفلا تبصرون
そしてフィルアウンはその民に宣告して言った。「わが民よ,エジプト国土,そしてこれら足もとを流れる川は,わたしのものではないのですか。あなたがたは(そんなことが)分らないのですか。

(訳文は三田了一訳より引用)

 訳文中の「ムーサー」「ユースフ」は、それぞれ聖書におけるモーセとヨセフです。
 これらの「エジプト」も、わたしたちの知っているエジプトではなく、アラビア半島西部のどこかなのでしょうか。
 『聖書アラビア起源説』には、「エジプト」とされている地について、多くの解説があります。

mṣrymという地名に関していうと、通常それはエジプトを指すと考えられているが、それがエジプトを意味する語としてヘブライ語聖書にあらわれるのはごく限られた場合だけだということを、ここで強調しておかなければならない。その語がアブハーの近くのミスラーマを指すのでなければ、ワーディ・ビーシャ流域のマスル、またはガーミド高地のマドルーム(mḍrm)。またこれも後述することであるが、聖書中の「パロ」(pr’h)というのも、エジプトの支配者を指すのではなく、アラビア半島西部のミスラーマやマスルといった土地にまつわる神を特に指す語だといえる。また同時にそれは、その地域に住む部族の首長の称号でもあったようである。

 mṣrymは明らかにمصر(mṣr,Misr,ミスル)と同根です2。この語が「エジプト」以外を指していた可能性は、かなり高いです(後述するようにむしろそう考える方が自然)。なぜならمصرとは元々「都市」とか「交易の中心地」のような意味で、エジプトの現在の名称であるمصرは、日本語で言えば「京都」のような地名なのです。カマール・サリービー氏は、同根で他の地名との相対的位置関係から、上のような可能性を挙げていますが、これらのどれでもなく、今は忘れ去られた「都市」であった可能性すらあります。
 実際、クルアーンに登場するもう一つのمصرは、こういう文脈でのものです。

Al-Baqarah ch 2 verse: 61
あなたがたがこう言ったのを思い起せ。「ムーサーよ,わたしたちは,一色の食物だけでは耐えられないから,地上に産するものをわたしたちに与えられるよう,あなたの主に祈って下さい。それは野莱,胡瓜,穀物,れんず豆と玉葱である。」かれは言った。「あなたがたは,良いものの代りにつまらないものを求めるのか。(それなら)あなたがたの望むものが求められるような,どの町にでも降りて行くがよい。」こうしてかれらは,屈辱と貧困にうちひしがれ,またアッラーの激怒を被むった。それはかれらが,アッラーの印を拒否して信じないで,不当にも預言者たちを殺害したためである。これもかれらがアッラーの掟に背いて,罪を犯していたためである。

 「エジプト」はどこにも出てきません。「どの町にでも降りて行くがよい」がاهبطوا مصراで、つまり不特定の町を指す語として用いられています。

 こんな疑問を、『聖書アラビア起源説』読者のムスリムが抱かないわけがないので、調べてみると素晴らしいテクストがありました。

“Al- Hijaz, Homeland of Abraham and the Israeli prophets” T. Ahmed, Ammar Rajab

 こんな面白い文章を久し振りに読みました。イスラームに関心のある方にとっては、こちらの方が『聖書アラビア起源説』よりも更に面白いはずです。
 関連のある個所をいくつか訳出してみます。

 エジプトが第十九王朝時代にMisrと呼ばれていなかったことについては、積み重なる証左がある。上下エジプトが「Misr」もしくは似た発音の名前で呼ばれていたことを示唆するエジプトの記録は、一つもない。実際、第十九王朝に限らず、記録のあるすべての時代で、Misrという名前がエジプトを特定するのに用いられていたという証拠はまったくない。一方、エジプト古代史において用いられているのは、オシリスとイシスで語られているように、KoptosまたはCoptoaだ。これがしだいにGebt(قبط)、そしてEl-Gibt(ال قبط)に変化し、最終的に西洋で発音されるようなE-gyptになった。古代西洋文明においては、すべての神話文学と地図が、この地をただEgyptまたはEgiptの名で呼んでいる。ギリシャのダナオスの娘たちの神話が好例だが、「Egypt」の名は非常に古く、いかなる変更にも抗ってきた、ということだ。古代東洋の国々では、エジプトをGebtという同じ名前で呼んできた。ただ初期ムスリムたちだけが例外で、何らかの理由で、この名前を使うのをやめることにしたのだ。ここから、いつムスリムたちがEl-GibtをMisrと呼ぶようになったか、そしてなぜ変更したのか、探求する必要がある。アラブの歴史によれば、預言者ムハンマド(pbuh) (570-632 A.D)の時代、アラビアの人々の間では、エジプトはAl-Giptの名で知られていた。このことは、預言者がエジプトの支配者アル=ムカウカスにイスラームへいざなうために送った書簡からも明らかだ。(訳注:原文には手書きスクリプトの写真がある)
 この手紙で興味深いのは、次の部分だ。「慈悲深く慈愛あまねき神の御名において、ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフよりギプトAl-Giptの長アル=ムカウカスへ(・・・)もし何時がギプト人Giptiesの罪の重荷を担うというなら(・・・)」。この貴重な手紙が明白に示しているのは、Al-Giptが預言者ムハンマド(pbuh)の時代に至るまで、エジプトの正式な名称であった、ということだ。アル=ムカウカスからの手紙は、この時代のエジプト人もまた、自らをギプト人としてアラビアに示していることを、確証してくれる。「(・・・)ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフへ、ギプトAl-Giptの長アル=ムカウカスより(・・・)我は汝の使いを誇りとし、感謝としてギプトで大変価値ある女奴隷を二人贈る(・・・)」。
 返信にあるようにエジプト人が自身の地をMisrとは認識していなかったにも関わらず、預言者の時代のアラビアの人々は、彼らの間ではエジプトを「Misr」と呼んだのだ。このことは、この時代の多くの記録と書簡がはっきりと示している。例えば、第二代正統カリフ、ウマル・イブン=ハッターブは、その軍司令官アムル・イブン=アルアースに、ギプト人を厚遇するよう書簡を送っている。面白いことに、一つの手紙の中で、同じ場所が両方の名前で呼ばれている。「ミスルMisrの地がハムスのものだということを汝に知らせよう(・・・)預言者ムハンマドはギプト人を祝福した」。初期ムスリムたちの間で「ミスルMisr」の名が用いられ、エジプト人自身との書簡の中では使われなかったことは、アラビアの初期ムスリムたちが、このナイルの地を表すのに、二つの名前を用いていたことを示している。他の文献では、この両方の名前が、イスラーム以前の時代ですら、日々の会話で使われていたことが明らかにされている。二つの名前の違いは明白だ。「ミスルMisr」はアラビアのみで用いられ、聖書に起源を持つ。一方、「ギプトGipt」は、エジプト人と、エジプトをミスルMisrとは認識していないその他すべての世界との間で使われた。「アル=ギプトAl-Gipt」を音韻的に分析すれば、それが「エジプト」に等しいことは明らかだ。換言すれば、アラビアの人々は、イスラームの黎明に至るまで、その他すべての世界と同じ名前を使ってきたのだ。アラブ人ムスリムのギプトへの侵攻後のある時点で、この国際的に知られた名前が、しだいにミスルMisrに取って代わられ、今に至っているのである。ゆえに、ミスルはエジプトの元々の名前ではなく、ファラオがその時代の民に、彼がミスルの主であると言っている場面に適用するにも、十分に古くない。よって、ファラオとムーサ(訳注:クルアーンにおけるモーセ)をエジプトで探すということは、ムスリムが間違った場所を見ている、ということだ。クルアーンでは、彼らがミスルと呼ばれる地にいると明言されているのである。今や、問いは次のようになる。もしムスリムが間違った場所を見ているなら、古代および現代のユダヤ人とキリスト教徒は、なぜエジプトをムーサとファラオの故郷だと考え続けたのだろうか?

 この問いに対する答えは、七十人訳聖書(ヘブライ語聖書のギリシャ語への翻訳)において、誤訳が生じたことです。ここから生じ広まった誤認が、ムスリムたちのクルアーン解釈にもつながっている、というわけです。聖書でもクルアーンでも、神様は最初からمصرとしか言っていないのですが、人間たちがエジプトをمصرだと思いこんでしまったのです。
 だとすると、上の『聖書アラビア起源説』からの引用にもあるように、「ファラオ」もピラミッドの奥から見つかるあの人たちとは関係ないことになります。クルアーンからの引用に登場する「フィルアウン」は「ファラオ」のことです。両者が同一なのは語根・文脈から明白ですが、これらとエジプトのあの人たちは関係がないわけです。

 ザーヒー・ハワース博士は、その多くの講義で、トーラーにおける「ファラオ」という語を、彼の国における古代の偉大な王を指すのに用いてきている。同時に、国家的および国際的な膨大な考古学的調査にも関わらず、ラムセス二世やその息子マルナブタがトーラーの述べているモーセの時代のエジプトの王であることを示す客観的な科学的証拠が、現在に至るまでないことを確言している。普通はここで行き止まりになり、迂回路を辿るより他になくなる。この手詰まりに対する答えが、アル=マスーディ(-946)という高名なイスラーム歴史家によって示されている。アル=アッタバキの伝えるところでは、アル=マスーディはその個人的考察について、こう記している。「(…)わたしは上エジプトにいるとき、あるギプトの学者グループにフィルアウン(ファラオ)という名の意味について尋ねた。彼らはその意味を知らず、ギプト語にそんな言葉はなかったのだ!」。ギプト語に「フィルアウン」という語が意味を成さないことは、イブン・ハルドゥーンも記している。この手詰まりへの解答は、ほとんどの現代および古代の学者が、受け入れがたいと感じてきたものだ。「ファラオ」と発音される語がギプト語になく、ギプトの人々によって書かれたり用いられることがなく、まして王家の称号になどないことは、言語学的に確かめられている。ほとんどの学者たちが示すファラオに最も近い発音の語は「ペル・アア」だ。マリー・パーソンズはこの語を次のように説明している。「(…)『ファラオ』というエジプトの王に対する最も一般的な『称号』は、まったくエジプト語ではないことを指摘しなければならない。つまり、エジプト人たちは、その歴史の極めて最近になるまで、彼らの王を『ファラオ』とは呼んでおらず、ただ非エジプト人だけがこの語を採用していたのだ。『ファラオ』はエジプト語のペル・アアのヘブライ語読みで、『偉大な家』を意味する。これは紀元前1450年ごろに初めて王自身に対して用いられた(…)」。この大変議論の余地のある解決法は、M・S・M・サイフラー、アブドゥッラー・デイヴィッド、エリアス・カリムといった多くの学者や研究者によって否定され続けている。ミッシェル・S・サンダースはこの問題を次のようにまとめている。「(…)ペル・アアをファラオと訳すのは、そういう予めの思い込みがなければ、不可能である(…)」。

 本書の内容は、依然考古学的考証を得ているわけではありませんし、内容からしても、サウジアラビア領ということからしても、簡単にはいかないでしょう。しかし、もし確証が得られれば世界史的な大発見と言えますし、何とか本論を根拠付けるエヴィデンスを見つけ出して頂きたいものです。

 旧約の舞台がアラビア半島西部だとするなら、イスラエルという国家はその存在根拠の一つを決定的に奪われることになります。シオニストはこんな指摘を絶対に認めないでしょう。
 仮に本当にパレスチナが旧約の舞台だとしても、占領が正当化されるわけはありませんし、一方、サウジアラビアにイスラエルを建国されてもたまりませんけれど。

  1. クルアーンの言葉は、聖書のように後の記者がまとめたものではなく、ムハンマド様(pbuh)の受けた神の言葉を直接記述したもの、と信じられており、わたしも個人的には信じていますが、そう書いてもほとんどの日本人は付いてきてくれないので、とりあえず普通のテクストとして扱います []
  2. ヘブライ語とアラビア語は姉妹語のようなもので、両者とも語根という概念が非常に重要な役割を果たしている。語根が同一なら、少なくとも深いつながりを持つ語である可能性がかなり高い。 []