『歴史の中の「新約聖書」』加藤隆

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4480065660歴史の中の『新約聖書』 (ちくま新書)
加藤 隆
筑摩書房 2010-09-08

 キリスト教の成立と新約聖書の成り立ちから、新約聖書をいかに受け止めるべきか、どのように理解すべきかを考える一冊。
 加藤隆先生の本は毎回面白く、『一神教の誕生-ユダヤ教からキリスト教へ』『『新約聖書』の「たとえ」を解く』もかなりヒットだったのですが、この『歴史の中の『新約聖書』』も非常に興味深く読めました。
 内容もさることながら、加藤氏は文体が独特です。大きなナタを正確かつ大胆に使うような凄みがあります。「時間がない、一度しか言わないからよく聞け」というか、爆弾処理の専門家が、残り時間に追われながら必要なことだけを大胆かつ正確にこなしていくような、独特のリズムがあります。
 本書前半はキリスト教の成り立ちについて語っており、『一神教の誕生-ユダヤ教からキリスト教へ』とかなり内容が重複しています。
 後半は、主に四福音書それぞれの立場を考え、新約聖書というテクスト群が、全体としてまとまりをもつものではなく、各テキストごとに異なる思想的方向性を備えるものの集合体であることを示します。
 キリスト教に多少なりとも興味のある方なら、Q文書の想定など、基本的な事柄はご存知かと思うのですが、氏のテキストには、そうした知識や一般的学説の理解という以上の得難いものが込められているので、とりあえず手近な一冊からでも手に取ることをお勧めします。
 特に気になったところをいくつか取り上げておきます。

「言葉」、特に「書かれたテキスト」は、論理的で、首尾一貫していて、全体の中に矛盾や不完全な議論がないのがよいと考えられ易いというところがあります。「権威がある」とされるテキストなどは、なおさらです。しかし「言葉」は、不合理・不条理なことも表現できます。矛盾した議論や不完全な議論もできます。そして「言葉」の力は、内容の合理性や論理性だけで決まるものではないところがあります。権威ある文書集である新約聖書の中に、論理性や合理性に必ずしも沿っていないテキストが含まれていることは、論理的・合理的なものしか受け入れようとしない偏狭な立場を相対化することにつながっています。

 考える、言葉で表現する、ということになると、少なくとも人間が了解できる論理性の範囲内できちんとしたものがよいように思ったりします。「十字架の神学」「信仰義認」の主張と、その需要のあり方を見ると、果たしてそうなのだろうかと思わざるを得ない巨大な例になっています。「考えきれていない」ようであっても、それが機能しないというのでもないのです。
 さまざまな主張が行われています。個々の主張に、論理的に筋が通っていないようで、分からないところがあります。主張の内部の論理の問題もあり、主張が外部で用いられる様子の論理の問題もあります。
 同じ筆者のものだからといって、他のテキストを見ることになります。まとまった全体、整合的な全体、というものがある筈だと期待しています。残されているものだけでも、その全体を見れば、まとまった全体を整合的に理解できるようになるのではないか、と期待します。しかし、他の主張を含めて考えると、多様性の度合いが大きくなるばかりで、混乱した感じが深まるばかりです。「分からない複雑さ」とでも言うべきでしょうか。

 聖書についてのお話ではありますが、テキストというものと向きあう上で非常に大切なことが指摘されています。
 これを「権威主義」と言って片付けてしまっては不毛です。確かにそういう側面もあるし、そこから来る「弊害」もあるでしょう。ではわたしたちが、言語というものから「権威的」機能を取り除けるかというと、まったくそうではないし、むしろ、わたしたちが素朴に信じ込んでいる「(公正かつ客観的)伝達内容」という存在の方が、遡及的に想定されたファンタジーではないか、と疑ってかかるべきです1
 テキストというものは、その意味の最終的決定者を想定させるものです。というより、この決定者の想定される限りにおいて、テキストは人をして「読ませる」のであり、それがテキストであってただの線や点の集合ではない、と人に信じさせるのです。
 広義の「権威」(社会的な力)とテキストの存在は、ほとんどワンセットです2
 
 本書では、「人による人の支配」という西洋的特色が、キリスト教のメインストリームとなっていく模様が抉出されています。「人による人の支配」というのは、単に上に立つ人と従う人がいる、ということではなく、言わば自由市民と奴隷のような、本性における差異を人の中に認める、ということです。植民地支配や、それがよりソフィスケートされた市場経済による搾取に受け継がれている構図ですが、こうした支配の様式が、唯一の方法でもなければ、そもそものイエス(イーサー)の教えとも多分異なるだろう、ということが明らかにされます。
 これについては、イスラームへの関心から本書を読んでも、得られるものがあるでしょう。あんまり言うと他所の悪口みたいになるので大人しくしておきますが(笑)。
 
 もう一つ、不謹慎ながらちょっとクスッとしてしまった箇所を最後に。

 ユダヤ戦争でユダヤ人たちは敗北し、軍事的・政治的レベルでの普遍的なユダヤ化の努力は失敗します。しかし、神学的レベルでの普遍的なユダヤ化の努力は、二千年近くたった今の状況を見るならば、「普遍的なユダヤ化の努力」ということのうちで、もっとも成功している企てではないでしょうか。あまりに当然すぎて、注意されないことが多いのかもしれませんが、キリスト教の神はユダヤ教の神です。キリスト教の神は「神の王国」の最高の支配者であって、それは、神学的レベルにおけるユダヤ的なものが支配することです。ユダヤ人の神でしかなかった神が、全人類によって崇拝されるようになる、というプロセスが進められています。

 これは考えたことのなかった面白いツッコミです。
 それを言うなら、イスラームの神様だってユダヤ教の神様です。神様はおひとりで、ユダヤ教における預言者たちの多くはイスラームにおいても預言者で、彼らに啓示を下されたのは、同じ唯一なる神なわけですから。
 そうなると、キリスト教とイスラームを併せるだけでも、もうかなりの程度地上を覆ってしまっているわけで、人間の哀れな現状に比して「なんだかんだで神様一人勝ちやん」とちょっとニヤついてしまいました。

  1.  これは「対象」の実在をナイーヴに信じる大衆的素朴帰納論と同根で、言わば「偶像」的です。
     ついでに述べておけば、偶像崇拝の禁止とは、広義の偶像そのものをこの世から消す、ということではない、とわたしは考えています。広義の偶像は、おそらく人間とワンセットなくらい根深いもので、抹殺など不可能ですし、それ自体が害をもたらすものでもありません。「益も害ももたらさない」から偶像なのです。
     問題は、「益も害ももたらさない」ものが、もたらすかのように錯覚されてしまうことで、これもまた宿命のように人につきまとうものではありますが、唯一の神に向かう姿勢があれば、抗することのできるもののはずです。別の言い方をすれば、唯一の神を信じるというのは、この止む事無き流れに逆らいながら立ち生きる、ということだと、考えています。
     「害をもたらすから」と闇雲に壊すことは、むしろ偶像のトラップにはまってしまっていることになりかねないのではないでしょうか。逆に「益があ」ったら、壊さないのでしょうか。「益も害もない」ことを知ることの方が、大事なはずです。 []
  2. (想定される)筆者、読者、読書共同体は、三位一体に符号するでしょう []