これはお気楽な話題なのですが、エジプト人と話していて「アーンミーヤには文法なんかない」と言われたことが、何度もあります。文法というのはقواعدとかنحوです。
母語の文法というのは、一般に意識しにくいものですから、教育水準が低い、外国語学習の経験がほとんどない人が言うなら分かるのですが、かなり教育のある人の口からも何度か聞いています。
確かに文法というものは、存在する言語に対して、言わば学習や理解、あるいは「正しい言語」の正当化の方便として編まれるもので、金科玉条のように最初に立てられているものではないでしょう。でも、そんな深い意味で言っている訳でもなさそうです。
アーンミーヤの統語構造は、フスハーに比べると大分簡略化されていますが、それはどちらかというとフスハーが異常なのであって(笑)、エジプト方言の外国人にとっての文法的難易度はフランス語くらいなのでは、と思います。外国人の目から見たら歴然とそこには「文法」があるし、文法学習なしで一定年齢以上の人が習得するのは至難の業でしょう。
アーンミーヤを含めたアラビア語を外国人に教えている教師たちは、流石にこんなことは言いません。でも、一般人だと、教養ある人でもこう考えている傾向が強いし、おまけに「アーンミーヤなんか秩序もヘッタクレもない、学ぶに値しない、フスハーを勉強しなさい」とアーンミーヤで語ってくれたりして「そう言っているアンタのセリフを分かるにはアーンミーヤが要るやないかっ」とツッコみたくなります(笑)。
なぜエジプト人は「アーンミーヤの文法はない」と言うのでしょう。
一つの可能性は、アーンミーヤがかなり「ナメられた」存在で、フスハーこそ正しいアラビア語だ、という意識が強いせい、というのがあるでしょう。また、その「正しいアラビア語」の口語からの距離があるため、「言語とは学校でキチンと学ぶもの」という気持ちが強いのかもしれません1。
そして今ひとつ、これと繋がるのですが、アラビア語圏というのは、高位の学問や知識が予め据えられていて、正しい知はそこから演繹的に導かれるもの、という意識が比較的強いのではないか、と考えられます。日本や、おそらくは欧米でも、割と帰納的にものを考える習慣が付けられていて、「真の実在は対象そのものであり、法はそれに対し人が発見するもの」という意識が強いかと思うのですが、こうしたモダン、ポストモダンな思考様式というのが、アラブ世界では比較的弱いように見受けられます。極端な話、真の叡智はクルアーンで語り尽くされているのであって、現象そのものは見るに値しない、という立場です。これは本当にめちゃくちゃ極端な見方で、普通の人はこんな無茶なことは言わないですが、シモジモの暮らしに知を見出そうとする文化人類学的視点が比較的劣勢で、権威ある知から演繹的に理解しよう、という傾向がやや強い、くらいは言えるように思います。
当たり前ですが、これはあくまで傾向であって、ステレオタイプに還元できるものでもなければ、個人差も著しく大きいです。ですから、このお話は思考のお遊び的に考えているところが大なのですが、こうした「演繹重視」的傾向が、シモジモの言葉に「文法」を認めないという現象の一因になっているようには、感じられます。
翻って、帰納的思考に割と慣れている現代日本人のことを考えると、逆に現象自体が同定可能なものとして半ば信仰の対象になっている、という傾向も見て取れます。多くの人がこれについて意識できていませんが、わたしたちは常に解釈格子を通じて世界を眺めているのであって、象徴化以前の対象自体に直接アクセスしているわけではないし、その対象=自然が一つで、わたしたち全体で共有されている、という保証もありません。俗流自然科学理解が、こうした誤解を助長し、わたしたちの現実を支えるファンタジーの域にまで高めてしまっている、というの現状があります2。先程「日本や、おそらくは欧米でも」と書きましたが、日本は欧米よりむしろこうした傾向が強いように感じます。
だからといって、「アーンミーヤには文法がない」という言い回しはやはり釈然としないし、社会学的視点や文化人類学的から得るものを否定するべくもありません。個人的にはむしろ大いに心惹かれます。
ですから、別段何か断じようとして書いているわけでもなければ、そもそも「演繹重視の傾向」などという見方自体が安っぽく、まことに覚束ないものなのです。「文法はない」という言葉に対する違和感について思いついたことを並べただけで、結論はないです。
ただ、帰納的意識の薄い人々をつかまえて「対象を直視していない」というのは、どっちもどっちやね、というのは言っておきたいです。神様は目に見えませんよ。